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【本】イエスの学校時代

 『イエスの幼子時代』の続編。

J・M・クッツェー『イエスの学校時代』

 エストレージャに着いたダビード、シモン、イネス、犬のボリバルは、農園に仕事を見つけ働きだす。物語は疾走していき、振り落とされないよう掴まっている気分になっていたけれど、面白くて手に力が入っていたので、それも楽しかった。前作と同じくらい可笑しく、そして哀しくて可哀そうで可愛い。
 ダビードはダンスアカデミーに入学し7歳になる。イネスは天職を見つける。ボリバルは老成する。それぞれ変わっていくのだけれど、初老のシモンが自分を壊しながら自分を新しく作り直していく過程に胸が詰まった。誰かを理解したいと思い自分を変えていくことに、途方もない感動がある。生きている限り、人は藻掻きながら変わっていくことができる。

「ーーーダビート、おうちでご両親と暮らすことになんの不満があるの?」
「ぼくのこと、理解してくれないから」少年はそう答える。
 コンスエロとバレンティーナは顔を見あわせる。「両親がぼくのことを理解してくれないんです、だって」コンスエロは考え考え言う。「そんな不満、これまでどこで聞いたろう?お願いだから、答えてちょうだい、坊や。両親が子どもを理解するのは、そんなに重要なこと?善き父母であれば充分ではないのですか?」
「シモンは数のことも理解できないんです」少年はさらに言う。

第八章 p100

 特に印象深い場面が2つあって、一つ目はシモンが寄宿舎に入っていくダビートを見送り喪失感に苦しむところ。痛く共感した。そうだよね!とシモンの手を取りたくなった。
 二つ目は「スペイン語作文」(初級)の講師マルティーナに、話を聴いて欲しい、教えて欲しいと乞うところ。自分を語る言葉を獲得することの魔力のようなもの、不思議さを感じた。シモンもダビートも、船でどこからかノビージャの街にやって来て、母語から切り離されて暮らしている。そのことと、自分を語ることの難しさが二重に響いてくる。

 ラストシーン、シモンがアローヨの伴奏、メルセデスの指導でダンスステップを踏むところは、目頭が熱くなる。


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