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【カコメンのみなさまへ】オンライン読書会の報告(第6回)

 第6回オンライン読書会を開催いたしました。
紹介された本の報告と私の感想です。

まずは、今回紹介された本について。

りえ:東浩紀『弱いつながり―検索ワードを探す旅―』
 作家、思想家の東浩紀氏が「哲学とか批評とかに基本的に興味がない読者を想定した」ということで、分かりやすく読みやすい書きぶりですが、内容はなかなか歯ごたえがありました。今の私には、「動物的な感情」に希望を託す、の部分がとても沁み入りました。弱い絆については、ゆうちょさんの記事にも思いが飛ぶところ。
「今日の担当はだれ?」を大事にする理由|高橋勇造|note

しゅんご:西加奈子『夜が明ける』
 小説の中の「会えないけれど繋がっている」描写に心を寄せる方が多かったです。登場するキャラクターの自分に正直に堂々としつつも相手に優しさを向ける振る舞いが、素敵だなと思いました。

なおちゃん:ジョージ・オーウェル『動物農場』
 人間を農場から追い出し、動物たちの平等な農場とするも、知力に優れたブタが指導者に選ばれどんどん独裁的になっていく話。小学生の頃に読んだことがあり、ザ・ハントを観てそこに登場する”スノーボール””ナポレオン”に覚えがあって、読み返したとのこと。

はなたん:植松努『「どうせ無理」と思っている君へ 本当の自信の増やしかた』
 「こんな田舎からロケットを作るなんて夢みたいなこと出来るはずがない」と教師から言われてしまった植松少年。それでも、作り工夫し続けた結果、ロケットが宇宙を飛びました。学校が得意でなかった自分にとって、とても励まされる本、だそうです。

 今回は、初参加の方がおひとりと、何度か参加いただいている方が3人の、5人の読書会となりました。
 本を紹介する順番は、いつも迷うのですが、だいたい私が最初に本を紹介して、あとはZoomの画面表示の順番で決めています。初参加の方がいきなり紹介するのはやりにくいだろう、というのと、順番が最初にわかっていた方が話を聞きやすいかな、というのと、私のグダグダした紹介の後だと、みなさんのハードルが下がるのではないか、という私なりの配慮があるのですが、私が最初に話すことで、その時のモードが決まっちゃうのではないか、という一抹の不安があります。一抹なのは、特にそんなの関係ない気も一方で少ししているため。
 私は、選んでいる本や話し方からもわかるかもしれませんが、抽象的なぼんやりした話が、するのも聞くのも好きで、読書会の間はそんなことばっかり言っていると思います。私の語尾がごにょごにょするのは、少しは自覚があって、これがなかなかまあ治らないです。ごにょごにょの理由は、聞き手の空気を読んでのこともなくはないのですが、どちらかというと断定したことを言う自信がないことからきています。

 好きな作家さんの好きなところの話や、はなたんの持っている本をしゅんごさんも持っている偶然があったり、よりこさんが研究(科学哲学、初めて聞いた!)で読んでいる本を部屋の本棚から出して見せてくれたり、今回もみなさんのお人柄や今やっていることなどがわかる話が出てきて、とてもよかったです。

 私としては、そんなに強く読書や本を勧めたい、という思いのない読書会なので、読書好きはもちろん、あまり本は読まない、という方も、是非お気軽にご参加ください。
 と、こう書くと、カコメンにおススメの本を紹介してくれとお願いしていることに反するようですが、私の中ではあまり矛盾はなく、どんな本が紹介いただけるのか、毎回心底楽しみです。参加したことのない方には、一度でいいから顔出してもらえると嬉しいなあと、回を重ねるごとに思っています。

 以下は、いわゆる私のお気持ち文です。時間のある方だけどうぞ。

 読書会後、参加の方から「友達にも話したことのない自分でもすると思っていなかった話を話していた」という感想があって、私もそういうことがあるので(第2回読書会報告参照)、それはこの場ならなんとなくそういう個人的なことを話しても大丈夫、という気持ちがあってのことだと思う。過去5回読書会をやってきたが、いつも聞いてくれる相手に安心感があるので、カコメンすごいなと思っているし、参加してくださる方もそう感じていると思われる。そういうこともあって、私は聞きたいと思ったことは聞くようにしているが、そこには「どうしても言いたくないことならばきっと相手は言わないであろう」という信頼があるので、「突っ込んだこと聞くなぁ」ともし感じたとしたら、そう言ってくれたり言えることを言ってくれたりしていただけると助かる。
 それにしても、「思いがけず話してしまう」って何なんだろうか。自分が話しているんだけど、話をさせられている感覚の時があり、北海道弁の話ささる?というのが正しいのか、自動的に自分の中から言葉が出ているようなことが瞬間というよりは一定の間持続して起きて、「する」と「させられる」がまじりあうような感じ。話している自分は誰なんかな、とか思う。

 今回「学校に馴染めなかった」という話題が出た。
 学校から離れてずいぶん経った今、学校に馴染む、馴染めないは程度の問題で、どうしても今の場所が難しければ、違う場所や休む場所があって欲しいとシンプルに思っている。
 私には小学5年生の甥っ子がいるが、彼は毎日暗くなるまで友達と遊び、学校も放課後の児童会館も彼が嫌だと言ったことはあまり記憶にない。彼には「学校がすごく好きなら、なぜ好きなのかよく考えなさい、普通なら、学校が嫌になったら言いなさい、ちょっと嫌なら、嫌な気持ちを解決するなりやり過ごすなりして学校に行きなさい、すごく嫌なら、別に学校に行かなくてもいいので、毎日歩くか泳ぐか走るかしなさい、とても疲れているなら休むこと」と言っている。私自身は小・中・高を通して、学校がすごく好きだったときもすごく嫌いだったときもあるが、ほとんどがそのどっちでもなくて、まあまあやり過ごせていたのだから、幸運だったのだと思う。幸運だったと思うから、甥っ子には前記のようなことを言ってしまう。
 私は初めて中学の制服を着たとき嬉しかった。大勢の中に紛れられると思った。中学の教室で一人読書が出来る女子はちょっと怖かった。一人で読書ができる子が怖かったのは、自分がひとりで行けない場所に先に行ってしまっている感じが怖かったのだろうな、と今は考える。同い年の彼女が、自分で自分の行動を決めていることが、そうしていない自分にとって脅威だったのだろうと思う。私の通った高校は私服通学だったが、その頃には制服はあってもなくても別にどっちでもよかったし、クラスメイトが一人で読書しようが寝ていようが早弁していようがあまり何とも思わなくなっていた。
 私はその頃よりずっとずっと年を重ねたけれど、あの頃彼女に向けたまなざしを、今も誰かに投げかけていはしないだろうか、とときどき思う。怖さは、それがどこから来るのか考えた方がいい。ちなみに、過去に私の着ていた制服はクソダサい。どうやら今も同じデザインで変わっていないらしい。最近知って大変驚いた。

 甥っ子に学校のことを聞くと、「学校は友達と会えるから楽しい」と言うので、そういう人もいるんだなぁ、と思っている。「友達と遊ぶって言っても、楽しいばかりでもなくないか?」と聞いたら、なんやかんや言っていたが、要約すると「最後は楽しいから友達なのだ」的なことを言ってきて、もう、それはよかったねえとしか言えない。どの子どもも、今いるところが辛過ぎないものであって欲しい。