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【読書会感想】小僧の神様

 昨年末から月一回程度読書会を開催しており、その報告と広報を主目的にnoteにアカウントを作った。noteの記事が縁で、先日オンラインの読書会に参加する機会を得た。ほとんどノックもせずに上がり込む形だったが、主催の方をはじめ、他の参加のみなさまが優しく迎えてくださった。ありがとうございます。

 課題の本は志賀直哉『小僧の神様』で、みなさまそれぞれの感想が面白く、また私の拙い感想もあたたかく聞いていただき、読書会後再度この短編を読み直して、この小説の魅力がまた一段と私の中で深まったので、その嬉しさを書いておこうと思う。

 読書会では「小僧と貴族院議員では思い描く鮨が違う」という話が出て、そうか、小僧と貴族議員はずいぶん別の人生を歩んでいるのだと思った。奉公している仙吉と、貴族院議員のAではずいぶん暮らしぶりも違うであろう。
 それでも、Aが屋台の鮨屋でお金が足りず鮨にありつけなかった小僧のことが気にかかり「どうかしてやりたいような気」がしたのは、仙吉が鮨を買う行為に、大人の世界に踏み込む冒険心を感じ、それにAが共感したからだろうと思う。ちょうどAにとっても、屋台の鮨屋に入ることは、冒険だったはずである。「何だか可哀想」というのは、きっと自然と湧いてきた心持だ。
 共感と言えば、仙吉がAを神様のように思うに至った心の機微も、Aが変に淋しい気がした気持ちも、私にはわかる気がする。Aの細君の「そういうことありますわ。何でだか、そんなことあったように思うわ」という気持ち。

 私が仙吉の、Aの立場であったなら、仙吉と同じように「あの客」を悲しい時苦しい時の慰めとし、Aと同じようにその秤屋の前を通ったりその鮨屋に行ったりできなくなるのではないかと思った。そういった境遇でそういった場面に出くわせば同じことをするのではないか、という気がした。
 偶々今回は、仙吉が仙吉であって、AがAであっただけで、Aが匿名的に仙吉に鮨を奢ろうとしたのは、偶々今回は私が奢る番だという意識か無意識かが働いたのでないか。そしてそれが結果的に仙吉が「あの客」を無闇とありがたがらせることになった。

 仙吉に御馳走したところから、Aと仙吉は対照的な気持ちを抱くようになる。共感が動機となって匿名的に他人に何かすることが他人の心を支えることがあるが、Aの淋しい気持ちや「あの客」が思わぬ恵みを持って現れることを信じる仙吉の気持ちが、その限界も示している。

 私は、Aが鮨を奢ったことで、仙吉がいつかはまた「あの客」が、思わぬ恵みを持って現れることを信じることになって、よかったと思う。これから大人の世界へ足を踏み入れていく十三、四の小僧にとって、鱈腹鮨を食えた経験は生きる世に対する信頼を育み、その信頼が今後の人生の中に思わぬ恵みを見出させるといったことがあるかもしれないし、ないかもしれない。でも、何だかそんなもののような気がする。

 また次回も読書会に参加出来たらいいなと思っています。オンラインのおかげで遠くからでも参加出来てとても嬉しい!