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愛の讃歌

 私はあの人の歌う愛の讃歌がこの世で一番好きだった。
 男性とは到底思えない柔らかくまろい声がため息を吐くように吐き出される。甘い綿飴で焼き焦がされるようなあの歌い方が死ぬほど好きだった。私は時々、あの人の愛の讃歌を思い出してはインターネットで検索をかける。あの甘美な味をもう一度味わいたくて仕方がないから。しかし、今日に至るまでその代替に出会うことができていない。女声とも男声ともどちらにも振り切れず、かつシャンソン、まして愛の熱情を、テンポを激しく揺らさずに歌う人なんていないからだ。だから今日も私はあの人の愛の讃歌に飢えている。
 あの人は先生だった。私の通う高校の音楽の先生だった。先生とはいえど、正規雇用の教諭ではなく、いろいろな高校の音楽の授業だけを担当する非常勤講師だった。
 私はあの人との生活をよく覚えている。あの人は毎週火曜日の音楽のある時間と吹奏楽部の活動時間に不定期に現れる。私が初めてあの人に会ったのは後者の方だった。春の陽気が心地いい放課後、体験入部の時期だった。中学校から続けていた吹奏楽をやめる気など毛頭なく、高校でも続けることはもう決まっていた。なんならこの高校に入ったのは吹奏楽部のためと言っても過言ではない。中学2年生だかに聴きに行った定期演奏会で、この部のサウンドに心底惚れ込んでしまったのである。私は別の部の見学に行こうという友達と別れ、毎日のように通い詰めた。
 あの人に会ったのは2日目だったと思う。高校でもサキソフォンを続けるつもりで、先輩から一本借りて吹いていたときだった。椅子をずりずりと引きずりながら、あの人は話しかけてきた。初見の楽譜を渡され、演奏してみろと言われたのだっけ。私は読譜が大の苦手だった。長年習っていたピアノすら、ほぼ全て耳でトレースして弾いていたようなもんだった。だからそれはそれは酷い結果だったと思う。拍が取れずに崩壊するメロディを聴いて、あの人は、じっと私の顔を見た。そして、抱えていたチューバを鳴らし、「同じ音を出してみて」と言った。私は不思議に思いながらそれをなぞる。あの人は少し考え込んだ後、「君、耳はいいね」と褒めた。それに気をよくしたのが全ての間違いだったと思う。

 あの人は悪魔だった。外道だった。人間の尊厳を言葉で殴り殺し、小さな「吹奏楽部」という箱庭で生徒を妄信的に従わせる天才だった。まだ自分の身の守り方を知らない少女たちを朝から晩まで毎日、暴言の嵐にさらしました。そうして、少女たちに「自分は無能なんだ」と心の底から信じ込ませ、自分の存在を「無能な私たちを勝利へと導いてくれる指導者」と刷り込みました。時には、少女たちの大切な「モノ」を提出させ、それを「努力できないのなら処分する」と人質に取りました。今思えば、おかしなことだらけですが、まだ俯瞰視が苦手な高校生は純粋に「自分が吹奏楽部で輝くためには必要なこと」「先生に従うことが勝利への近道」だと信じ切っていました。中には私のように、そもそも服従関係に置かれていることすら気づかず、「先生は私たちのために尽くしてくれているんだ。先生が怒るのは私たちが怠惰で無能だからなんだ」とすら思っている子もいました。そもそも、あの人という教育者以外にまともな音楽的知識、技術を得る方法がない田舎の子どもが、先生無くしてまともに「吹奏楽」をやれるでしょうか。市内にヤマハとカワイのピアノ教室が1件ずつしかない田舎の、音楽的素養を磨けるはずのない環境の子どもが、自分の力で上達できますか。はっきり言いましょう。無理です。そういった環境も、我々生徒があの人に絶対服従することとなった一つの要因かもしれません。
 とある先生は飲み会の席で、あの人の政権のことを「〇〇教」と茶化しました。あながち間違いではないと思います。あの人は人身掌握術が非常に長けていました。毎日厳しい言葉で精神の果てまで追い詰めるくせに、時たま別人のようになって、「君たちは本当はできる子なんだよ。優秀なんだよ。」と私たちのことを褒めちぎるのです。そして、私たちと同レベルまで堕ちてきては、手持ちのお菓子を片手に雑談を楽しみます。まさに飴と鞭が上手いとはこのことです。限界まで身を削らせて、耐えきれなくなった頃に、人間性を出し、優しさという褒美を与える。同じ「金賞」を目指す仲間として隣に立つ。カルト宗教の教祖をやらせたらあの人の右に出る人はいないでしょう。保証します。
 部活では毎日悪魔のような教祖をやっていたあの人ですが、音楽の授業の時だけはそうではありませんでした。どこか諦めを含んだような目で、気だるそうに教壇に立ち、授業を始めるあの人は部活動の時とは違い、我々を厳しく指導はしませんでした。どんなにクラス全体のテストの点が低かろうとちっとも怒りませんでした。ただ、淡々と授業を進めていくだけでした。
 あの人は音楽の授業で、ピアノを弾きながら歌を聴かせてくれることがありました。確か、暑い湿気が教室を生ぬるく通り抜けていくような、そんな初夏の日だった気がします。あの人が「愛の讃歌」を聞かせてくれたのは。シャンソンの王道曲ということで紹介されたそれを見て、私は顔を赤らめました。歌詞があまりにも情熱的だったからです。あなたがいれば何もいらない。そう破滅的なまでに愛を叫び、触れ合う互いの頬、腕、唇を生々しく描写する。文字から触れ合う肉の感触が伝わるような詞に、背筋が焼かれるようでした。当然、あの時の私は他人の肌の感触を味わったことがなかったものですから、想像力が余計に働いたということもあるでしょう。こんなハレンチな歌を歌えというのか、と羞恥から怒りすら湧きました。
 しかし、その気持ちは直後に消え去りました。あの人はこの歌詞を愛欲で歌うことはなかった。スウッと深く、肺の奥底まで空気を吸い込み、吐き出す歌い出しは酷く苦しげでした。普段、歌う時にあの人は、絶対に喉に力を入れません。力んで出す歌声ほど醜いものはないからです。それを部活動であの人に骨の髄まで教え込まれていたからこそ、その歌い出しに余計に衝撃を受けました。
 愛しているからこそ苦しい、重い悩みに悩んだその苦痛を吐き出すような発音。苦しげといえど、歌声は綺麗で豊かさを決して失わない歌い方。現実に叶わないからこそ、「あなたと二人だけで生きてゆけたら」という歌詞が輝く。私がいやらしいと感じた歌詞は、少しでも不埒だと思ったこと自体が思ったことすら間違いだと思わせるようだった。人が他人と触れ合うことの喜び、悲しみ。五月雨のように降り注ぐ音が、臓腑に染み渡る。人間の営む喜びのすべてが、綯い交ぜとなった感情と共に歌いあげられる。天上に響き渡るオルガンの音よりも柔らかな歌声に、私は永遠にこの歌が続けばいいのにとすら願いました。かのマリア様より神聖で、何よりも温かな音楽に包まれて、私はふと、「父性」というものはこういうものなのかもしれないと感じました。

あの人は夏の大会の後、吹奏楽部の講師を外されました。
その後のことは知りません。
時々、校舎の廊下ですれ違いましたが、互いに居ないものとして扱いました。

今、私は教育実習で母校に来ています。毎日毎日授業の準備に追われ、まともに眠ることすらできない辛い日々ですが、それと同時に教員という仕事の充足感と楽しさを感じて過ごしています。そのような日々の中で、生徒との向き合い方、「良い教員とは何か」と悩むことがあります。そんな時、私はあの人のことを思い出します。
 私は、どうしてもあの人のことを憎みきれないのです。あの人は確かに教育者としては失格でした。生徒に精神的DVを行い、半洗脳下に置き続けたのですから、顧問解除は間違っていなかったと思います。しかし、あの人は本当に私たちを支配して虐め続けることに快楽を見出してあのようなことを行なっていたのでしょうか。
 私はそうは思いません。あの人は今の自分のように心身を削って教材を準備してくれていました。寝る間を惜しんで練習用音源を作り、教育法を学び、我々に無償で提供してくれていました。指導に来てくださった外部の講師の方々は口を揃えてこう言います。「あなたたち、〇〇さんに教わることができてラッキーだね。」「〇〇先生ほど勉強家な先生はいないよ、努力の鬼だよ。」あの人が我々の洗脳をし容易くするため、外部講師らはこのような言葉を言ったのでしょうか。私は違うと思います。外部講師の人たちは我々が見えていないあの人の努力を知っていて、我々に言ったのだと思います。
 多分、あの人はすごく不器用な人なのだと思います。あの人はあの人なりに生徒の気持ちに向き合い続けたのでしょう。私たちが「金賞を取りたい」と言ったばかりに、その目標に達することができるように、全力を尽くして向き合い続けてくれたのでしょう。だって、ただ自分の快楽のために生徒らを精神的支配下におきたいだけなら、毎晩パート別の練習方法を考えたり、練習用機材を準備する必要はありません。様々な楽団の録音音声から理想の音色をピックアップして生徒に聞かせるために編集する必要もありません。ただ、自身の技術と知識を盾に威張り散らしておけばいいのです。無知な地方の高校生はそれでもついてきます。でも、あの人はそんなことしなかった。ちょうど私が今、身を粉にして授業を作っているのと同じように、生徒がどうすれば知識と技術を得られるのかだけを考えて勉強してくれていた。そして、我々の夢を叶えるために、目標ラインに届くよう指導した。そう考えると、授業での無気力さにも説明がつきます。どれだけ出来の悪い生徒が出ようとも、音楽の授業は誰も困りません。しかし、吹奏楽では違う。一人の一瞬のミスが、技術不足が夢への道を断つ。だから全員を一定レベルに押し上げなくてはならない。本番で指揮を取るのはあの人ですから、指揮が操れない奏者というリスク要因を出来る限り減らす。いかに生徒の能力底上げをし、本番で失敗がないように操れるか。その答えがあの人の悪魔的振る舞いだったのではないかと今になって思います。教員として生徒の願いを叶えるべく、奔走した結果があれだったのではないか。
 確かにあの人の指導は間違っていました。しかし、私はあの人の努力の恩恵を確かに受けていた。あの人のおかげで県大会に出ることができた。最高の青春を味わえた。それだけは変わりません。だから私は今もあの人の愛の讃歌を思い出しては憎しみと愛しさにごちゃ混ぜになります。不器用な愛情で包んでもらったのを思い出すからです。
 一度、音楽室近くの廊下であの人とすれ違いました。まるっと丸まった猫背に大きいレンズの眼鏡とガニ股。記憶の中の姿と全く変わっていなかった。懐かしさが一気にこみあげ、声をかけるか迷いました。でもやめました。私はあの人に教えてもらっていた時、本当に目をかける価値すらないぐらい下手くそでした。幾千もの生徒を見ているあの人の記憶には絶対に残りません。しかも、ロングだった髪を短く切り、メイクをしている。姿が変わってしまった私をあの人は絶対に覚えていません。あの人は外ヅラがいいから、覚えていなくとも「どうしたの、立派になっちゃって」ぐらいは返してくれると思います。でも、そんな言葉で慰められるくらいなら声をかけたくないと思いました。
 教育実習生控室は音楽室とは階も位置も対角線上の一番外れたところにあります。クーラーの付いていない古いカビ臭い部屋です。私たちはそこにこもって毎日授業の準備をしたり、他の先生の授業を見に走って行っては、戻ってきて、日誌にその感想をびっちりと書き込んでいたりします。あの人のいる部屋と一番遠い部屋で忙しい日々を過ごしています。もうあの人と関わることは多分ないでしょう。しかしこんな距離の離れた部屋でも、窓を開け放てば音楽室の歌声が聞こえるのです。今は夏に向けての授業でしょうか。生徒らが「少年時代」を歌うのが聞こえます。それを聞きながら、風に乗ってあの人の愛の讃歌がもう一度聞けないかと耳をすませてしまうのです。


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