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介護と研究の両立は綱渡りのよう

50歳を過ぎて大学院に入った私にとって大きな課題だったのが母の介護です。その年代になると親の介護が必要な人は少なくありません。私もそのひとりでした。私が大学院に進学したとき母は70代後半でした。私の父である夫を70歳のときに亡くし、それ以降はマンションに一人で暮らしていました。何でも自分でできました、どこにでも元気に出かけていました。病院にも自分で行っていました。

私は車で30分ほどのところに住んでおり、何かあってもすぐに駆け付けることができました。そんな状態だったので私は大学院への進学にためらいはありませんでした。母が介護をもっと必要としていたら進学したかどうかわかりません。程度にもよると思いますが、ひょっとしたら断念していたかもしれません。

ところが80歳を過ぎたとき母は突然介護が必要になりました。ある日歩行がおかしいことに気づきました。すくみ足になり、家の中でもふらついています。病院に行きいろいろ調べましたが原因ははっきりしません。初めて聞く病名が告げられましたが、少なくとも一人では出かけられなくなりました。頭はしっかりしており、記憶も私より確かなくらいです。でも、からだは以前のようではないことは確かです。いつ転んでもおかしくない状態で、見ていてはらはらします。

母は介護認定を受け、要支援2と判定されました。要介護ではないのでまだ自立が可能です。母と私はケアマネジャーとこれから先のことを相談しました。まず、マンションのリフォームを行いました。手すりを取り付け、段差をなくし、風呂場も改装しました。新しいベッドを購入し、母が一人でも安心して生活できるようできる限りのことをしました。クローゼットの中を整理し、母が日常使うものはいつでも取り出せるところに収納し直しました。

ヘルパーを頼み掃除やゴミ出しなどお願いしました。食事は夕食だけ宅配を利用することにしました。料理が好きな母でしたが台所に立つのは心配です。転ぶ恐れもありますし、ガスの扱いも不安です。母はデイケアにも通いました。少しでも運動すれば歩行の改善につながるかもしれないと思ったからです。外出するための車いすも購入しました。サポートセンターに通じる緊急ベルを設置し、母には携帯電話を持たせました。

私には兄が一人います。私と同じように車で30分くらいのところに住んでいますが、兄には仕事があり、母のところにはたまにしか訪れません。専業主婦の兄嫁も母が元気だったころはいっしょに買い物に行ったりしていましたが、母の身体が不自由になるにつれて顔を出さなくなり、疎遠になっていきました。母と兄嫁の関係がしっくり行っていないことは私にもわかっていましたが、私は介入しませんでした。それは夫であり息子である兄の役目です。いずれにしても母を支えるのは私しかいないと思って私は母を世話しました。母がいちばん頼りにしているのは娘である私だということがわかっていたからです。

母は私が大学院で学ぶことをすごく応援してくれました。喜んでもいました。大正生まれで女学校しか出ていない母は、女に教育はいらないという風潮の中で育った人です。女性は幸せな結婚をするのがいちばんという意識が母の中にもあったと思うのですが、私が18歳の時に4年生の大学に進学したときも、50歳の時に大学院に進学した時も心から喜んでくれました。「あなたの勉強の邪魔にならないよう私も元気でいなくちゃね」と口癖のように言っていました。娘に迷惑をかけてはいけないと思う気持ちが母の中にあることを痛いほど感じました。自分が具合が悪くなったら娘が勉強できなくなる。そう思いながら母は80代の半ばで施設に入居するまでひとり暮らしを続けました。

母の生活は一変しました。それに合わせて私の生活も大きく変わりました。母は複数の医者にかかってましたが、通院はすべて私が付き添うことにしました。私は授業の合間を縫って母の通院に同行しました、毎週のように医者に通うのは正直言って大変でした。

買い物や役所の手続き、銀行預金の引き下ろしなどにも同行しました。気晴らしのため時々外出にも連れ出しました。料理を作って届けることもたびたびありました。身体が不自由になったので母は身の回りのことも思うようにできません。電球が切れた、エアコンの調子が悪い、高いところにあるものを取ってほしいなどと言って電話がかかってくることもありました。娘に迷惑をかけたくないと思っても頼らざるを得ない母の気持ちがわかるので私もできるだけ対応しました。でも時に冷ややかな対応をしてしまうこともありました。その都度自己嫌悪に陥りました。

介護しながらの研究でいちばん大変だったのが学会や調査で海外に出かける時です。国内にいれば何かあってもすぐに行けますが、海外ではそういうわけにいきません。兄に頼んで出かけましたが、特別なことがなければ兄は母のところには行きませんでした。だから海外から毎日のように母に電話をかけました。電話代はすごくかかりました。

私が大学院に行き始めた翌年、知り合いの女性教師が同じように退職して大学院に進学しました。私より5歳ほど年上で、私と同じ英語の教師でした。研究熱心で研究会では活発に活動し、学会発表もよくしていました。「あなたに背中を押されたのよ」と言って院生生活について嬉々として語っていた彼女でしたが、半年ほどして再び会ったときには大学院を辞めたと言いました。理由を尋ねると母親の介護が必要になったからだと言います。「私も母を介護しながら研究していますよ」と言うと彼女は「介護の必要な親をほったらかして大学院に行くなんて娘としてできないから」と言います。私が親をほったらかしにしていると言われているようにも聞こえましたが、私は「残念ですね」とだけ答えました。

彼女の母親がどの程度の介護度かわかりませんし、人にはそれぞれの考え方があります。彼女が大学院を諦めたのは残念ですが、でもそれは彼女が決めたことです。介護をしながら大学院に行くのは確かに大変です。ジレンマも味わいます。けれどできないと思ったら何もできません。できる方法を考えながら工夫してやれるところまでやってみることも大事です。綱渡りのような生活でも工夫すれば両立は可能だと思tっています。

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