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エホバの証人の家に生まれて②父との関係

 前回のnoteでは、母との関係についてお話ししました。
 今回は、父がエホバの証人になった経緯と、私と父の関係についてお話ししたいと思います。

 父は、中学生の頃に親友を亡くしました。嘆きと悲しみの只中にいたとき、すでにエホバの証人になっていた父方の伯父と伯母(父からすると年の離れた兄と姉)から、楽園と永遠の命の希望を聞かされて集会に通い始めたそうです。
 伯父伯母がエホバの証人になった経緯については、私は知りません。ただ、伯父伯母が集会に行き始めたばかりの頃に、父方の祖父母が集会に乗り込んで「うちの子達を返せ」と大騒ぎしたことがある、という話は聞いたことがあります。伯父伯母からも、祖父母からも聞きました。同じときの話でも、話す人の立場が違うとこんなにも違って聞こえるのか、と驚かされました。

 父は、真面目で、嘘がつけなくて、だまされやすくて、何かを決めたり選ぶのが苦手で、何でもゆっくり丁寧に取り組まないと気が済まない性格でした。明らかに一般社会では生きにくいタイプの人でしたが、エホバの証人としての適性は高い人でした。
 ただ、夫としてエホバの証人が言うところの「頭の権」を行使し、妻子を強権的に導くことは、とてもできない人でもありました。むしろ逆に、いつでも導き手を求めていました。
 模範的な兄弟でありながら管理してくれる人を必要としている、というのが、母方の祖父が父を婿に選んだ最大の理由だったのではないか、と思っています。

 前回のnoteでも少し触れましたが、父は文才が全くない人だったため、講演や割当の原稿は、全て母が代筆していました。 
 群れの集会の司会も、事前に母からレクチャーを受けて臨んでいました。私たち子どもも付き合わされたので、毎週群れの集会を2回やらされているようなものでした。本番の集会の退屈さが増して、眠らないようにするのが本当に大変でした。
 群れの集会では、母オリジナルの手書きの資料(聖書の預言とエホバの証人の歴史と一般的な歴史の比較年表など)のコピーも、父の作った資料として配布されました。

 会衆の中では、少し馬鹿にされてはいるものの、決して嫌われてはいない、気のいいイジられ長老という感じでした。
 公開講演の後は、お礼に来た兄弟姉妹から内容について突っ込んだ質問をされると、とんちんかんな返答をして、周りの人たちに忍び笑いされているのが、いつものことでした。
 私はそれがとても嫌で恥ずかしかったですが、父本人は「僕が馬鹿なのは本当だから」と、苦笑いするばかりでした。

 手先が器用で工作が得意だったため、会衆の子ども達からは人気がありました。
 いつも群れの集会の後には、大人のおしゃべりが終わるのを待たされている子ども達と、折り紙や塗り絵をしていました。
 父本人も、大人と話すより子ども達に何か遊びを教える方が好きだったのではないか、と思っています。

 私も幼いうちは、父のことが好きでした。
 今でも、即席で作れるオシャレな折り紙をたくさん教えてくれたことや、ありとあらゆる外遊びを全力で一緒にやってくれたことは、心底感謝しています。おかげで今、小さな子どもと関わるとき、ネタに困らずに済んでいるので。
 でも、大きくなるにつれて、だんだん父の困った面の深刻さがわかるようになっていきました。
 父は嘘がつけない人で、思ったことを黙っていることもできない人でした。噂好きの姉妹に「姉妹も本当に性格が悪いですね」と言ったり、運動会までに骨折が治るか心配している子どもに「それは間に合う訳ないよ。残念!また来年!」と言ったり…そんな様子を面白がってくれる人もいましたが、深く傷つく人もいて、私達実の子ども達も何度もグサグサ刺されました。
 裏表が全くないので、会衆にたくさんいた裏表の激しい兄弟姉妹ほどには、緊張感なく接することができましたが、違う意味で疲れさせられました。

 何より、父には自分の考えというものが全くありませんでした。
 何を話しても、根拠は新世界訳聖書や出版物や母の言葉で、父本人の思考から出てくる内容は全く聞けませんでした。
 いつも、ひとりの人と話している、というより、聖書と話しているような、手応えのない不思議な感覚でした。
 そういう意味では、母との方がまだ建設的な話ができていたように思います。もっとも、母は母で、最終的には子どもの意志を完全に潰してしまう方向にしか話が行きませんでしたが。

 父は、本心から鞭がしたかった訳ではないようです。父から鞭の宣言がされることはまずなく、母が「今日はお父さんの鞭」と言うとやる感じでした。お尻の跡を確認した母に「生ぬるい」とやり直しさせられていたことも、ありました。 
 鞭をする前も、終わった後も、目にいっぱい涙を浮かべていて、ときどき本当に泣いてもいました。ためらってなかなか始められないときには、母から「何してるんですか。早くしてください。子どもを愛しているならできるはずですよ」と責められていました。

 そんな様子から、父が私達子どもを父なりに愛しているのだということは、伝わってきていました。
 でも、だからこそ余計に厄介だったのだと、今では思っています。
 母は、鞭のときずっと無味乾燥な無表情で、冷たい目で私を見ていました。だから、母は子ども達を好きではないのだ、と諦めることが早いうちにできました。
 父への思いは、折り合いをつけられるまで、長い時間が必要でした。
 困った人で、話が通じない人ではあるが、私達を愛してくれているのだから、何とか上手く付き合っていけるのではないか。そんな風に思ってしまって、なかなか離れる決心がつかず、近づいては傷つけられ、近づいては傷つけられ、を何度も繰り返してしまいました。

 愛が感じられないのもつらいものですが、愛があれば良いかというと、そうとも言いきれないのではないか、と私は思っています。
 子どもを本気で愛しているからこそ、宗教を強制しようとしてくる親というのは、本当に厄介です。
 子どもの方に信仰心が根付けば上手くいくのかもしれませんが、根付かなかった場合、お互いにとことん傷つけ合う関係性になってしまうのではないでしょうか。
 私と父は、そんな親子になってしまいました。

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