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エホバの証人の家に生まれて①母との関係

 私が生まれたのは、1990年代初頭の春でした。記念式の当日に生まれたため、母はその年の記念式に出席できませんでした。そのことを「あなたがあと1日待ってくれていれば」と、毎年責められて育ちました。

 母もエホバの証人2世として生まれました。
 母方の伯母(母にとっては親子ほど年の離れた姉)は、非常に苦痛を伴う先天性の病を持っていて、祖父母はそんな伯母の闘病を支える中で、楽園と永遠の命の希望に魅入られてエホバの証人に加わったそうです。おそらく祖父母にとっては「自分達が死んだ後、病気の娘と関わり続けてくれるコミュニティ」としてもエホバの証人は魅力的だったのではないか、と私は思っています。
 そして、母方の祖父は、そこそこの規模の会社を経営していて、エホバの証人の兄弟姉妹を多数雇用していました。
 病身の伯母と、会衆の兄弟姉妹のためにも潰す訳にはいかない会社。両者を背負って生きることを期待されて生まれてきたのが、私の母でした。
 祖父母としては男の子を切望していたそうですが、生まれてきた待望の第二子は女の子。祖母はもはや、それ以上の出産に耐えうる年齢ではなく、「仕方なく」母を後継者として育てつつ、母が成長するまでに婿にふさわしい兄弟を見つけることにしたそうです。
 このような話を、何の悪びれもなく孫の私に聞かせるような祖父母でしたから、きっと母も幼少の頃から何度も聞かされていたのではないか、と思います。その点には深く同情します。

 母は、会衆ではいつも人に囲まれていましたが、どこか腫れ物にさわるようなあつかいを受けてもいました。
 模範的で、父親も夫も長老のエリート姉妹。そして、何人もの会衆の成員の実質的な雇い主。
 表面上、祖父の会社は婿養子の父が受け継ぎましたが、実権が母にあることは、周知の事実でした。父の公開講演や割当の原稿が、実はほとんど母の手による物だということも、暗黙の了解でした。
 母本人に落ち度があったというより、そうした様々な事情から遠慮や忖度がはたらいて、あのような距離感になっていたのだ、と今ならわかります。
 期待に応えるに十分な能力を持ちながら、女性として生まれたこと。それが母にとって最大の不運でした。もしも男性に生まれていれば、誰に憚ることなく、存分に能力を発揮できたでしょう。

 母は、私たち子どもに対しては、非常に厳しい親でした。母が育ち、私が生まれた会衆は、90年代になっても鞭部屋が王国会館に存在していて、オムツが取れていないような幼児でも、居眠りや手遊びを理由に鞭をされるような会衆でした。
 とはいえ、時代に即して少しずつ緩くはなっていたそうで、「ノートは取らなくても眠らず話を聞いていれば良い」「その都度鞭ではなく、家に帰ってからまとめて鞭すれば良い」といった家庭もあったそうです。
 しかし母は、「ノートに少しでも手抜きがあれば鞭」「居眠り、手遊び、姿勢の崩れに気づいたら即鞭」「不従順と見なせる言動があれば即鞭」という方針を、絶対に崩しませんでした。
 やりすぎだ、と祖父母から苦言を呈されても、「お父さんとお母さんが私にしたのと同じことをしているだけですよ?いったい何がいけないんです?聖書にも出版物にも書いてあるでしょう?」と、聖句や出版物の記述を諳んじて、論破していました。
 推測ではありますが、母は私たちを自分と同じように育てることで、祖父母が母にしてきた育児がいかに異常で苦しいものだったか、思い知らせたい、と思っていたのかも知れません。
 祖父母からは何度も謝られましたが、そういえば母に謝る姿は見たことがなかったように思います。母に直接謝ったことは、あったのでしょうか。もしなかったとすれば、一度なりと母に謝ってくれていれば、少しは私たちの子ども時代も好転していたのではないか、と今更になって考えてしまいます。

 私と母の関係は、決して良いものではありませんでした。
 私は生来、疑問や違和感を黙っていられない性質の子どもで、ものみの塔や聖書の矛盾点や違和感を見つける都度指摘してしまいました。実は母も同じような子どもで、指摘を口にするたびに祖父母から鞭されていたそうです。当然、私も同じように母から鞭されました。
 私からすれば、理不尽以外の何物でもありません。母への情は、少しずつ、しかし確実に目減りしていきました。決定的なできごとが小学校1年生の年に起きたのですが、それについては、文字にする勇気が持てたら、別のnoteにまとめます。

 母の方もまた、私をあまり良く思っていませんでした。私の肉の兄弟たちも、邪険にはされないが深く関わることもされない、という距離感でしたから、元々あまり子どもへの興味関心がなかったのかも知れません。
 祖父母の両方が亡くなるまでの間は、相当な干渉を受け、厳しく当たられましたが、祖父母の死後は何の接触もなくなりました。他の兄弟たちも同様だそうです。
 このこともまた、母の子育ては祖父母への当てつけでしかなかった、という推論の根拠です。
 母はずっと、祖父母の愛を求める子どものままだったのです。はじめから、私たちの母親ではなかった。そう思えば、全てのことに納得がいきます。

 ひとつだけ、「良い」と言える思い出があります。
 母は生き物には非常に愛情深い人でした。犬猫のみならず、亀や虫や魚、飼育する生き物すべての世話に一切手を抜きませんでした。
 母が20年以上飼育してきた犬は、私にとっては生まれた時から一緒の兄も同然の犬でした。その犬が亡くなったとき、思わず「動物も楽園に行けたらいいのに」と言ってしまいました。
 しまった。言ってしまった。鞭を覚悟して恐る恐る母を見やると、母は虚ろな目で、しかし確かに薄らと微笑んで頷きました。
 「そうね。行けたらいいのにね」
 私が不用意に口にした言葉に、母が無条件に同意してくれた、唯一のできごとでした。


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