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浄瑠璃寺〜京都の山里に浄土を見た〜

こんにちは!ぽてこです。
前回から実に1年半ぶりの更新になりました。
昨年は日々にてんてこまいで国宝建築どころではなかったのですが、
2024年GWは久々に国宝建築巡りの旅へ。
日々の慌しさはしばし忘れて、長い年月の中で育まれてきた建築の魅力を
存分に堪能してきました。
その中でも今回は特に印象に残った、京都・浄瑠璃寺についてご紹介します。

浄瑠璃寺(じょうるりじ)について

■名称 小田原山 浄瑠璃寺
■開祖 僧行基(詳細は不明)
■所在地 京都府木津川市
■本堂の建立  1157年(平安時代)
■三重塔の建立 1178年(平安時代)

浄土思想

浄瑠璃寺が創建されたとされるのは、平安時代後期の藤原時代。
それまで唐の影響を受けていた文化が徐々に日本「風」になっていく国風文化が花開いた時代でもありますが「仏の救いも届かないこの世はもう終わりや…」という諦めモードの末法思想の広がりから「阿弥陀様、どうか極楽浄土へ連れて行ってくださいませ」という、極楽往生を願う浄土信仰が大流行した時代でもありました。
貴族を中心とした「極楽へ往生したい!」という強い願いが、当時の寺院建築や仏像などの造形を生み出すエネルギーになっていたと考えられますが、(その代表的な建築は宇治の平等院)浄瑠璃寺も浄土思想を色濃く表しています。

伽藍配置

寺院というより、里の庵のよう

緑いっぱいに囲まれた長閑な参道を抜け境内に入ると、まず目に入るのが静かに水を湛えた池。その右側(西)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂、左側(東)に薬師如来を祀る三重塔が配置されています。
薬師如来は現世から送り出してくれる仏、阿弥陀如来は来世に連れていってくれる来迎仏とも言われており、池はこの世とあの世を隔てる三途の川のような存在で、此岸、彼岸を表しています。実際に彼岸の日には塔の東から朝日が上り、阿弥陀堂の真後ろに夕陽が沈むそう。
庭園は1150年興福寺の僧が入寺した際に整備したもので、その後鎌倉の初めに別の僧により補強されたものの、文献や記録はほぼ残っておらず、昭和50年代に大規模調査、整備を経て往時の姿に蘇らせた経緯があるようです。
(参考:「浄瑠璃寺」発行・浄瑠璃寺)
訪れた日は気持ちのいい五月晴れで、伽藍を囲む木々の新緑が太陽に照らされ池に反射し、それはそれは眩いほどの緑色の輝きでした。

本堂

見た目地味ですが国宝です

国宝九体阿弥陀如来を祀る本堂は、1107年に完成、1157年に移築されたとされています。前述のとおり、平安末期は浄土信仰の広がりを背景に九体阿弥陀仏、そしてその仏様をお祀りするお堂も沢山作られたそうですが、唯一現存しているのは浄瑠璃寺のみ。
造りは寄棟造、梁間4間、桁行11間で見た目は簡素で小ぶりな印象。
ですが、堂内に入ると黄金に輝く九体阿弥陀如来の存在感も加わり、1000年近い時を経てきた建物の威厳のようなものが感じられ、自然と手を合わせて拝みたくなるような恭しさでした。
慈悲深い表情の阿弥陀如来様も必見です。

三重塔

朱!緑!眩しいッ

池の周りをぐるりと半周すると、目の前に国宝・三重塔が出現。(新緑の青紅葉の中に塔の朱色が映え、思わず感嘆の声が出てしまったほど)
1178年に京都から移築され普段は非公開の薬師如来が祀られています。
建築様式は和様に分類されると思われますが、手先もおとなしめで印象としては可もなく不可もなく普通の三重塔といったところ(笑)
ですが、本堂と同様1000年も前から姿を変えずに残っていることが尊いのですね。
塔を囲む紅葉の配置は意図的なものなのかわかりませんが、秋には真っ赤に彩られ、塔の朱色との相乗効果でさらに極楽を思わせる光景になるのでしょう。当時の貴族や僧たちは伽藍を構成するすべての要素を極楽に仕立て、浄土への思いを馳せていたのかもしれません。

この世からあの世を覗く

浄瑠璃寺が位置するのは、京都と奈良の境の山里。創建当時から山奥の里であったようですが(「古来より南都(奈良)仏教の聖地として大寺の僧が世俗の喧騒を離れ修養、研鑽のため出入りをした地域で小田原別所と呼ばれていた」※拝観パンフレットより抜粋)現代でもその風情が色濃く残っているのどかな場所。本堂も三重塔も、国宝建築、というにはいささか派手さはありませんが、山奥で静かに時を刻んできた静謐な姿、その尊さが国宝たる所以なのでしょうね。

「いつまでもみんなの力で守らなければならない」

一服の静けさと安らぎを与えてくれる現代の浄土、日々の喧騒を忘れて心を落ち着かせたい時にぜひ足を運んでみてください。

本日はこれにて。それではまた!




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