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映画『伊豆の踊子』 の感想

川端 康成の名作『伊豆の踊子』をこのために3周し、そして今朝、吉永小百合・高橋英樹主演の映画版伊豆の踊子を観た。ここではその感想を書く。

18歳の吉永小百合さんが可愛すぎてあな番現象(西野七瀬さんが可愛すぎて内容入ってこなかったやつだ)と同じことになるかと思った。

が、今回は本を片手に時には再生を止めるくらいしっかりと内容・登場人物の心情や映画のつくりに注意しながら真剣に鑑賞した。

新潮文庫の『伊豆の踊子』にある重松 清さんの解説がとても良いので、それも参考にしつつ映画を楽しんだ。

踊子が気になってしょうがない学生のソワソワ感が良い

紙屋と囲碁をやっている途中、外から座敷の賑わいと太鼓の音が聞こえてくる。

部屋の向かいに見える踊子が気になってしょうがない。囲碁の手も止まる。

夢にも踊子が出てきて悪夢にうなされ眠れやしない。

踊子のことで頭いっぱいなんだ。

この学生のソワソワ感、そして次に話すシーンは小説そのままだが、これらのシーンに関しては映像で見たほうがよりグッとくる。

薫との囲碁のシーンがやはり良かった

薫が風呂から戻ってくる足音を聞くと、学生は身の回りを整え、吸っているタバコを捨て、咄嗟に本を開き、ずっと勉強していたかのように繕う。

薫に対する自分の印象を気にしているということがわかる。

すなわち、薫に対する学生の心の何がしかがすでに動いていることがこの行動からわかる。

「お風呂済みました!」という薫の言葉を一度無視するほど、周りが聞こえないくらい勉強に集中しているということを示すほどである。

(前後するが)

薫は雀の行水と言わんばかりに、湯に浸かるといい加減に体を拭きすぐ上がってしまう。

学生と一緒に遊びたくてしょうがないんだ。

そうして学生と五目をし始めるその薫の表情がまぁなんと嬉しそうなこと。

とても楽しそうに五目をやる薫の表情が、観てるこちらの気持ちも晴れやかになる。

原作の言葉を借りると、本当に花のように笑う

花のように笑う薫(役の若き吉永小百合さん)のその笑顔を見れることが、鑑賞者の私にとってどれほど嬉しいことか。

初めのうち彼女は遠くの方から手を伸ばして石を下していたが、だんだん我を忘れて一心に碁盤の上へ覆いかぶさって来た。不自然な程美しい黒髪が私の胸に触れそうになった。

小説『伊豆の踊子』より

ここは映像で見た方が良いなぁ:

五目に夢中になっている薫の様子がこれまた可愛い。

折鶴の演出が素晴らしい

学生が宿に戻る様子を階上から見つけた薫。

嬉しそうに微笑み、今作っていた折鶴に息を吹き入れ学生の足元にひょいとその折鶴を投げる。

すると学生が落ちてきた折鶴を手に取り、薫に向かって「活動に行きましょう」と誘う。

またもや嬉しそうにしながら薫は「そこで待っててくださいましね」と本当に嬉しそうに言う。

薫が学生と一緒に行くのをすごく楽しみにしているのが伝わってくる。

しかし次に話すように、それを抉(えぐ)ってくる物語が辛すぎる。

ここが一番心苦しい

こんなにもニコニコ嬉しそうにしている薫。

しかしそこで急に座敷の仕事が入ってしまう。

さらに薫はおふくろと栄吉の会話を聞いてしまう:

「(学生さんと)活動に行くからこそいけないんだよ!」
「旅芸人の娘が、学生・学者さん(一高生のエリート)に惚れたってしょうがないよ。」
「学生・学者さんが大島まできて、薫の気持ちがもっとどうにかなったらどうするんだい?」
「踊子と学生さん…世の中には良い人が何百人いたってどうしようもないこともあるんだよ。」

これを聞いている薫の表情が、もう観てるこっちにまで伝わってきてすごく悲しくなる。

薫の心をさらに苦しめることが続く。

急に学生が東京に帰ることになった。明日の朝はやくから出るという。

それを聞いた薫は居ても立っても居られなくなり、部屋に戻ってしまう。

この二重の苦が薫を落涙させる。

はぁ…悲しすぎる。

薫の表情のシーンが何度も描写されるが…、これは本当に悲しい。

その後の座敷で薫が上の空であることは言うまでもない。

こんな心情で仕事などできるものか。

はぁ…なんでこんなに悲しいんだよ。重松 清さんの解説にある次の文章を載せておきたい:

幸福感に抱かれた場面の直後…大げさでもなんでもなく、百万言を費やすよりはるかにずしりと来る重みと苦しみが読者の胸に残るのだ。
ああ、これが川端康成なのか。
なんと怖い作家なのだろう。いや作家とは本来怖いものなのだ。たまさかフィクションのお話を書いて生活が成り立っているというだけの「職業作家」とは違う、売れようが売れまいが大きなお世話の「存在作家」にしか出せない殺気なのである。

『伊豆の踊子』(新潮文庫)重松 清さんの解説より

ここで再び折鶴の演出が際立つ

そんな状態で薫が座敷をしている頃、学生は部屋で薫の作った折鶴を片手に、それを眺めながら寝転んでいた。

もう会えないであろう苦しみ、明日でここを去ることになる複雑な心情が、折鶴を眺める学生の目から感じられる。

決心がついたのか、学生はその折鶴を投げて捨ててしまう。

ここで、ただ捨てるのではない。

しっかりと握りつぶして(わざわざその折鶴を握りつぶすシーンをしっかり撮っている)それからその握りつぶした折鶴を投げ捨てる。

これまた悲しい。

惚れたあの踊子が作ってくれた折鶴を握り潰すその気持ちよ。

(ちなみにこの折鶴の演出は小説にはない)

映像あり:

最後の別れのシーン

朝早いため、栄吉だけが港まで見送りにきた。

船が出発すると、学生は栄吉からもらったカオールを取り出して終始眺める。

最後の別れ際にでも薫に会いたかったのだろう。彼女のことが忘れられない学生の気持ちが伝わってくる。

すると、こっそり部屋を抜け出してきた薫が港へ走り込んできた。

船の汽笛を耳にすると、薫は動き出している船に少しでも近づこうと走る。

持っていた白の布を力いっぱい大きく振る。

あぁ、学生に気づいてほしいんだ。

薫も学生に対する気持ちが強く、最後の別れくらい顔を合わせたい、気持ちを伝えたいというのがその布の振り様から感じられる。

船上でそれに気づいた学生は制帽を持って大きく振り返す。

はぁ良かった…。

観てるこちらとしても嬉しい。

振り返してくれたことに喜び、笑顔になる薫。

こちらも薫の笑顔が見れて本当に良かった。

その後、すぐに薫が泣き出す。

やはり学生との別れが悲しかったんだな…。

かぁー辛い。

そして旅芸人に対する社会の偏見により、将来を共に彼と過ごせる可能性がほぼ無いという現実を考えると、さらに悲しい。

これは泣ける。

踊子がメインな感じがして仕方ない

小説と違って、踊子の方にカメラがあたりすぎな気がした。

踊子の表情・発言・動作の描写がかなりあった。

小説を読んだだけだと、男の学生が薫に惚れて別れが辛くなるという印象。また、薫が学生のことを好きになっているというような描写はそこまで多くないと思う。

しかし、映画では学生は涙を流さないし、薫が学生にすごくアプローチするし、最後の別れですごく悲しむ。

確かに重松さんの解説にある通りだなと実感した:

映画『伊豆の踊子』は、あくまでもヒロインの魅力を見せる映画だった。

映画の印象が強いあまりに、「踊子と一高生の淡い悲恋の物語」として受け止められがちである。しかし、一高生の<私>の視点で語られる小説は、<私>の頑なな心が踊子との出会いによって救われ、そして世界と和解する物語ではないだろうか。

『伊豆の踊子』(新潮文庫)重松 清さんの解説より

そうだよなー。

薫役の吉永小百合さんが可愛すぎたし、しかも若かった。

『伊豆の踊子』は6回映画化されているが、一作目の薫役の24歳から、美空ひばり(17歳)、鰐淵晴子(15歳)、吉永小百合(18歳)、内藤洋子(17歳)、山口百恵(15歳)と、その顔面偏差値と若さを追求しているのが見てとれる。

これがアイドル映画なんだ。

皆その人にしかわからない物語・記憶がある

この映画は、この物語の学生が教員となった今、「40年前にこんなことあったな」という回想として描かれている。

(カラー映像が回想、現代を表す映像は白黒になっている)

そして、最後の学生と薫が別れたシーンの後、再び現代に戻りその教員の表情が映し出される。

その表情が良い。

(宇野重吉の演技力。その表情の表し方が素晴らしい。)

「はぁあんなことがあったなぁ」という表情。

これを見た俺は、「誰しもこういう、他人が知り得ない記憶、心が動いた過去の出来事を持っているものなのか」と感じた。

何かそれがすごく良いんだよなぁ。

最後に

この後にもう一回『伊豆の踊子』を読む。

今度はしっかり頭の中で映像を想像しながら読めるのが良い。

新潮文庫の『伊豆の踊子』は「伊豆の踊子」という作品を含め4作収められている。

でも伊豆の踊子が良すぎて、また重松 清さんの解説が良すぎて「伊豆の踊子」の部分だけを何周もしてしまい「温泉宿」以降へ進めない😅。

残りの3作もこれからゆっくり読んでいきます。

(この前は『若きウェルテルの悩み』を読み、そして今回は『伊豆の踊子』を読み。有名恋愛・青春文学に出会うのが遅れた…。
最近映画とか音楽とか恋愛で感動できるようになった。学生の頃はそれらが理解できなかったのだが…。なんだか人間味が増したようでよかった。)

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