#211 映画 『悪は存在しない』 字義通りに捉えるか、それとも狂気の文学か(少しネタバレあり)
『ドライブ・マイ・カー』で第94回アカデミー賞(国際長編映画賞)を受賞し、若くして世界の注目を集める、濱口竜介監督の最新作。昨今の流行とは真逆のゆったりとした映像、長大な間と、文学的ともいえる会話劇。
映画ファンに「邦画界に、商業より芸術を重視する明確な姿勢を持つ監督が現れた!」として認知された彼の新作を楽しみにしていた。
ひたすらに美しい大自然の風景が何度も繰り返し映される。住民は自動車もスマホも扱う現代人だが、明らかにプラネタリーバウンダリーを超えない、持続可能な共生関係の元で、自らも自然の一部として暮らしている。
そんな街に持ち上がる、補助金目当てのグランピング場開発計画。住民との間で行われる説明会の模様は、極めて地味ながらも、現代的な問題を凝縮したやり取りが行われ、目が離せない。
その計画は、コンサルに勧められるがままに、補助金目当ての事業を進めようとする経営者の希望。説明会で住民からコテンパンにされる担当者はなんとも不幸な存在である。彼等は、住民の主張を聞いて内心「もっともだ」と感じながらも、このブルシット・ジョブを前進させようと、更なる対話を試みる。
結局のところ、生活とレジャーには決定的な質的相違が存在する。その土地に責任を持つ共生関係となるか、地球環境を消費するだけの無責任な存在となるか。グランピング場の計画は、既存の住民が生業としていることとは、その精神からして全く異なる、後者のものであることは明らかだ。
ところで、自然を体験するレジャーというのは、ヒトが動物としての本来のサイズ感で生きていれば自ずと体験することを、社会が外部化したために存在する娯楽である。
つまり、わたし達のほとんどは蛇口をひねって水を出すし、ガスや電気を使って火や熱を利用する。こうしたインフラが「あたりまえ」の暮らしは、湧水を汲み出す労働や、薪を割って燃料にする労働を不要にする。
おそらくは、ヒトにはある程度、そうした「豊かな不便に触れたい欲」があり、そこに資本の論理を重ね合わせることで「レジャー」となる。
住民は湧水の出る「上流」に住む責任を果たすため、水源を汚さないよう大切に扱っている。この「上流に住む者の責任」についての会話も、示唆に富んでいて実に面白い。
さて、そのような具合で極めて社会派の映画であると唸りながら鑑賞していたのだが、エンドロール後には、わたしの中にある鬱蒼とした森がざわめき始めた。そのラストと、改めて提示されるタイトル『悪は存在しない』には、これから数年間をかけて悩まねばならないだろう。とにかく、素晴らしい作品であった。
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