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#177 その「お得」は誰のために?

 映画の鑑賞料金が2,000円になって久しい。それでも、何億円もかけて制作された総合芸術を鑑賞できるのだと思えば高くはないが、一方で、ほとんどの映画館にはサービスデーや会員デーなどの割引が存在する。

 そうした施策はもちろん、人出の少ない平日の集客を狙ったものだが、あくまで映画館の都合によるものだ。あらゆる施策をやめて、料金をフラットにした場合、いったい映画はいくらになるのだろう?TOHOシネマズの長い長い幕間の時間に、いつも不思議に思っていることだ。

「お得」への誘導と、やがて来る結末

 お買い物をすると、ポイントが貯まる。今や、これを使いこなすことが、賢い消費者の証となっている。お店のポイントを貯めて、更には決済そのものにもポイントが貯まる。二重取り、という行為だ。それは不正でも何でもなく、むしろ賢い生活術として推奨されている。

 ただ、決済にかかる手数料を販売店が負担して、更にはポイントやスタンプカード、割引券などの「お得」が提供できない店ならば、顧客が離れていくだけの話である。だから、その負担に耐えられる、資本力のある企業が勝ち残り、そうではない企業は淘汰されるか、巨大資本の傘下に入るかを迫られる。個人商店など言わずもがな、「長年の地元付き合い」の相手が減り行き、やがては廃業して行く運命なのだ。

 消費者は市場の論理に則り、お得な方を選択し続ける。その結果が、巨大企業のみが勝ち続ける、現在の日本の姿である。どのスーパーも、イオンやヨーカドーのような企業には勝てないし、今や商店街の電気屋で、家電製品を買う人などいないのだ。彼等の作るショッピングモールは、巨大な建物に有名なテナントがひしめき、子供の遊び場や映画館をも併設する、さながら消費のテーマパークであり、そうしたものに、太刀打ちする術はない。

 これは、当たり前な話のようでいて、しかし不思議なことでもある。やがてイオンが撤退する時が来たならば、暮らしの基盤があっという間に消えてしまう、と言うことなのだから、大変なリスクのあることなのだ。その後、かろうじて生き残っていた商店があったとしても、毎月2度の「お客様感謝デー」を開催するのは、おそらく困難であろう。

富山市の「コンパクトシティ政策」

 富山市は、わたしの「旅してみたい街リスト」に入っていた土地だ。特に、黒部ダムが見たい訳ではない。気候危機と超高齢社会の時代における都市のあり方、その理想として掲げた「コンパクトシティ政策」を見に行くためだ。

 市街を中心に、集中して都市を整備することで、自家用車による移動(CO2排出量)を減らし、かつ広範に渡るインフラ整備の費用をも削減する。路面電車やバス、あるいは徒歩圏内で暮らしが完結するから、高齢者にも優しい。これこそまさに、地方都市のあるべき姿ではないかと思ったものだ。

 しかし、その目論見は外れたようだ。強制力を持って移住させることは憲法違反(第22条 居住の自由)にあたるうえ、富山県は「持ち家率」が全国トップクラスにあたる。高くて狭い都市のマンションより、郊外の一軒家を好み、自家用車で移動をしたいのだ。いったいどこに行くのか?もちろん、コンパクトシティの外にある、巨大なショッピングモールに決まっている。理想的には、その近辺に住みたいとさえ思うことだろう。

 そして、これは富山市だけの失敗とは言えず、同じくコンパクトシティを標榜した他の都市においても、事情は変わらないようだ。

このように本格化してきたコンパクトシティ政策だが、その効果には疑問の声もつきまとう。

今年7月、総務省が行った「地域活性化に関する行政評価」で、「中心市街地活性化基本計画」は評価対象とした44計画のうち目標を達成できた計画が「ゼロ」と判明。

他の地域活性化手法と目標達成度に明らかな差異があることを重く見た高市早苗総務相が、関係省庁に改善を勧告する事態となっている。

Yahoo!ニュース 2016/11/08(火) 14:00 配信
コンパクトシティはなぜ失敗するのか
富山、青森から見る居住の自由
 より引用
※筆者にて改行のみ行った

 地方都市の暮らしは、イオンやセブン&アイをはじめとした、巨大企業が握っている。政府が推進し、市が本気で取り組んだところで、到底敵わない相手だろう。彼らは消費者の求めるものを、熟知しているのだから。更には「お得」を提供できる資本もノウハウも、段違いなのである。そうして更に進んでしまう郊外化に対して、行政はインフラ整備の負担を負い続けることになる。

 未来を見据えた都市計画を、民間企業が台無しにする力がある。こうしたこともやはり、不思議な話だと思える。力関係が逆転しているではないか、と思わざるを得ない。(もっとも、金儲けを束縛しないことが、経済的自由主義の根幹である。しかし、それが将来、廃墟と化したモールと、大量の空き家問題を発生させるとしたらどうだろうか?)

 話をさらに大きくしよう。わたしが日々の暮らしにおいて感じる違和感、思いを馳せた富山市への落胆、その根本となるものは、何であろうか?

現代の資本主義経済は、泳いでいなければ窒息してしまうサメのように、存続するためにはたえず生産を増大させなければならない。

とはいえ、ただ生産するだけでは足りない。製品を買ってくれる人もいなければ、製造業者も投資家もそろって破産する。

そのような惨事を防ぎ、業界が何であれ新しいものを生産したときには人々がいつも必ず買ってくれるようにするために、新しい種類の価値体系が登場した。消費主義だ。

サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福
河出書房新社 (2016/09/15)
第17章 産業の推進力 ショッピングの時代 より引用
※筆者にて改行のみ行った。また、上記リンク先はAmazonの販売ページ(アフェリエイト)である。

 「サピエンス全史」(名著です)の著者、
ユヴァル・ノア・ハラリ氏によれば、現代のわたし達には基本的なイデオロギーとして、「消費主義」がインストールされているようだ。わたしは、これが数々の不思議な事象の根源だと見ている。

 ここまで散々、「不思議だ」と言ってきたのは、いま合理的だとされていることが原因で、将来大きな不合理を招くと感じているからだ。特に、経済格差・地域格差が広がり続け、持てるものと持たざる者の、価値観の地割れが起こった時に。

 それは、映画館の話なら「(利用者側から見て)公平性に欠くのではないか?」と言われかねないし、ポイントの話であれば「スマホを使える人や、クレジットカードを持っている人だけが特をするのは、おかしいのではないか?(そうではない人々こそ、むしろ積極的にお得を享受するべきではないのか?)」という視点が支持される可能性も、あり得るのではないか、ということである。

 また、ショッピングモールと都市計画の話なら、「そのツケは、将来世代の負債として返ってくるのではないか?」という疑問が沸く。巨大モール頼みの街作りは、住民の高齢化とともに幕を閉じるかもしれない。その命運を、一企業に握らせるというのは適切なのか?

 もちろんこの話は、首都圏で生活するわたしが、ある種の安全圏から(消費主義的には危険地帯なのだが…)書いている戯言に過ぎない。おまけに、かく言うわたし自身が、消費主義の権化と言える暮らしをしている。ただし、現在の自分を肯定するために、疑念を無視しようとは思わない。

 その「お得」は誰のために?それは、未来を放棄して現在のみを生きる、消費主義に取り憑かれた、わたしたちのためだけにあるものだ。

 大量生産・大量消費が気候危機を生んでいるようだが、それとは全く別に、数知れない多くの土地で、必要な消費ができない危機も生まれている。未来のためには、人口減少の現実を踏まえた都市計画の実現が、やはり必要だと考える。

 また、QRコード決済に代表される資金移動業は、「フィンテック(ファイナンス・テクノロジー)」などと呼ばれ、持て囃されているが、しかしどの企業も、真のイノベーションを成し遂げているとは思えない。誰もが公平に、その利便性を享受できるほどではないためだ。それを扱える者だけが、「お得」に目が眩んで、そのような格差(デジタルディバイド)が見えなくなっているのではないだろうか。

わたしにとっては、懐かしの味。

 実のところこの記事は、母から送られてきた、このカップラーメンに端を発するものである。おそらく、東海地方に住む方にとってはきっと、わざわざカップラーメンで食べるものでもないだろう。

 わたしが幼少期から上京までを過ごした街の大型スーパーにスガキヤの店舗があり、何度となく食した記憶がある。その店は既に無く、イオン傘下となったそのスーパー自体も無くなるらしい。今や、近所で食料の調達をするならば、大型ドラッグストアに行くそうだ。もっとも、まだ車の運転ができるので、多少は遠くにも行けるのだろうし、生協があるため心配しすぎることもないのだが、あの大型スーパーが無くなるという事実が、単純に少し、寂しいと感じた。

 実は、記事の分量や本の記述を調べる等で結構時間を使ったもので、有料記事にしたかったのだが、有料noteの購入方法が分からない母にも最後まで読んでもらいたく、全文を表示した上で、最後に有料エリアを設ける形で公開した。

 そのため、もしこの記事を読んで、わたしにコーヒーを奢ってくださる気になった、消費主義者の方がいらっしゃれば、購入していただけると嬉しい。

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