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#220 母の日だった。

 そういえば、今日は母の日。何も用意していないので、せめて記事にでもしておこう。母とは毎日、メッセージアプリで会話をしている。話していると、いくつになっても母は母で、子は子だということがよくわかる。わたしもいい歳して、マザコンが如くである。

 その母から最近聞いた、母方の祖父の話をさせてほしい。母の実家は地方の、山間を流れる小さな川に沿って奥へ奥へと進んだ先の、もうこれ以上奥に人は住めんだろう、というくらいの場所にある。さながら忍びの里である。

 そうした地方人によくある話で、祖父は山を所有していた。猟犬を引き連れて山に入り、猪を獲る。子供の頃、何度か食べさせてもらったことがある。リアル猟師めし。きわめてワイルドな味わいだったと記憶している。そんな祖父だが、体力的な衰えを感じたあたりで猟は引退。犬は2頭を残して、あとは人に譲ったそうだ。

 あるとき、その2頭の犬と山に行き、犬を放したら呼んでも返ってこなくなってしまった。むしろ、犬のほうが呼んでいるので探しに行くと、谷の水辺に猪を追い込み、1頭は首に噛みつき、もう1頭が呼んでいたようだった。

 犬は、捕らえた猪に食いついて離さない。しかし、祖父ひとりではどうにもならない。仕方がないので「仕事中にすまないが…」と仲間に電話をしたところ、皆が仕事をほっぽり出してすぐに集まり、その日は大宴会。ええ犬や!等といいながら、盛り上がったそうだ。

 祖父は既に故人だし、とても無口で山に住みついた高倉健みたいな印象しかない。そんな祖父の面白エピソードを母から伝え聞き、わたしの中にモヤモヤしている「労働とは?」という問題に接続される。

 もう一つ。その山は「風力発電所を建てたいので売ってくれ」と打診を受けたことがあるそうだ。低周波音が及ぼす健康被害が出ることを懸念し、売らないと回答したそうである。

 その話を聞いてわたしは思った。あんなに消費電力の少なそうな集落に発電所を新設するなんて、いったいそれは誰のための施設なのだろう?と。このエピソードもまた、わたしの疑問に接続される。

 電力というのは、発電所があることによる悪影響を人口の少ない土地に転嫁し、その恩恵(発電された電気)は消費電力の多い都市部で使う構造だ。東京電力の所有する原子力発電所は新潟、福島、青森にある。火力やその他の発電所は首都圏内にもあるが、原発については東京電力の管内には一機もない。

 福島原発事故後に、遠く離れた首都圏で電力が逼迫、計画停電が行われた。そのことにより「眠らない街」がアホみたいに電力を使うリスクを、誰が背負っていたのかが詳らかになった。

 祖父の風力発電の話も、規模は小さくとも同じ話である。祖父はきっと、知識としての「風力発電所の近くに住むことの影響」とは別に、「山の所有者として、自然を維持する責任」を感じたのではないだろうか。高倉健が、「おれは不器用だから、山を売ります」等と言うわけがないのだ。

 わたしは「土地を所有する」という概念そのものに反対だ。どう考えても個人の所有物たりえないもの(地球の一部)だし、売買の対象にすべきではない。だからといって、それが国家のものという訳でもない。

 土地は、そこに生きる人や動植物を含めた大きな括りとしての「地域の共有財産」であるはずだ。しかし、それを所有しているのであれば、その責任を負わねばならない。これは、先日観た映画『悪は存在しない』にも通ずる話だ。

 母はエコロジストではないと思うが、田舎育ちによる「天然のエコ感覚」を持っていると思う。だからわたしに、上記のような話をしてくれるのだろう。本や映画で仕入れた知識ばかりの、頭でっかちなわたしにとって、リアルな話は大変興味深いものだった。

 という訳で、母から仕入れたエピソードをここに残すことが、母の日のプレゼントだという話である。

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