白川 烈
食べたら、でるもの。なにかを食べては、今日も出す。 2018年4月16日よりまいにち更新される、白川烈が書くエッセイです。 クサいときもあるかもしれませんが、それはご愛嬌で。 2020年9月17日以前の記事は、こちらからどうぞ。 https://library.y-pu.jp/kyo-no-unchi/
エッセイをまとめてみました。名前はまだない。
ぼくが聴き手となり、さまざまな人にインタビューをした特集たちです。不定期に更新されます。
「夏は頭上から暑いのに、冬は足元から寒いよね」 高校生だった彼女が、座ったまま唐突に口にした。あの頃、僕らはまだ高校生だった。もう高校生だったのかもしれないし、ちょうど高校生だったのかもしれない。 彼女と会う場所はいつも、彼女の家の下の公園だった。公園といっても、短いベンチとイチョウの木が何本かあるだけのがらんとした広場で、地域の余り物のような場所だった。僕の家から彼女の家が近いわけでもなく、いつも電車で十五分かけて彼女の家の下まで足を運ぶ。今思えば、彼女と彼女の家の下以
*「人生すごろく」というゲームを試しに考えてみた。そう、あの、きっとほとんどの人がやったことのある「すごろく」です。サイコロを転がして、出た数字の分だけひょいひょいと進んでいくアレね。マスに「一回休み」とか「ふりだしに戻る」とか「豆腐の角でヘドバンする」とかなんやかんや書いてある、アレね。 その「すごろく」を、リアルで実際に作ってみて、1年間かけて遊んでみようというものだ。まず参加者を数人募る。6人〜10人までがちょうどいいかもしれない。その参加者で、月に1度は集まって、1
*人付き合いがそれなりに苦手で、知人はほどほどいるのに友人が少ない。これは自分の欠点であると自覚しているのだが、30年生きていても治らないので、この先もそうなんだろうなぁとなかば諦めかけている。いや、本気で治そうとしていないんでしょ?と言われれば、それまでだし、本当のところはそうなのかもしれないけれど。 そんなボクでも、人付き合いにおいて、奥の奥の方、水脈に近いところで意識していることがある。誰のことばかはもう忘れてしまったのだけれど、「これを言ったら相手がよろこぶだろうな
*今も健在なのかまでは知らないけれど、少し昔の広告論かナンカで「人が集まる場所には湯気を立てろ」という教えがあったそうな。これを聞いたときには、なるほどなぁと膝を打った。湯気があるだけで、そのものが「出来立て」だということが伝わる。そして、黙っていてもやり過ごせるような「焚き火」と似たような効果がある。湯気ひとつあるだけで、「おっ、なにかやってるな」ということだってわかるもんだし。 僕なりにその「湯気」について考えてみたのだけれど、湯気が持つ効果として、やっぱり「臨場感」っ
*単語とか、ことばとかで、いいなぁと思うものってあるじゃないですか。それがね、界隈とかでちょっとした「流行語」になったりもしますよね。例えばまちおこしやクリエイティブの業界では、数年前に「文脈」という言葉が流行ったし、なぜかはわからんが今僕の周りでは「共感性羞恥」という単語が流行ったりしている。言葉の持つ意味合いや響きが、なんだかいいなぁということで、それを聞いた人たちが続けて使って行きやすいものが、それなりに流行ったりするわけだ。 僕が昔っからいいなぁと思う言葉が「たおや
*数日間の九州出張で、本を忘れてしまったので、帰りの新幹線で何かしら読もうかと書店に行った。じっくりと選んでいる時間もなかったもんだから、文庫本で何かしら買おうかと迷っていたところ、「そういえば、文庫本ってどうしてあるんだっけ?」と疑問が浮かぶ。当たり前のように「文庫本」の存在を受け入れているが、それがどうしてあるのか?と考えたことは、そういえばなかった。 単行本よりもサイズは小さく、また価格帯もたいてい数百円程度と、単行本の1/2から1/3くらいに抑えられている。もちろん
*「気遣い」ということについて、僕はそれなりに早くから考えてきたように思う。これは別に自慢でもなんでもないし、早く考えたからと言ってなんなのだ、ということなんだけれどね。それでもやっぱり、高校生の頃から部活の先輩と一緒にいることが多くなって、それなりに「気遣い」の場面には多く出くわしてきたと思うのだ。 高校生の頃は、一緒にいる先輩たちの靴をすぐに揃えたり、荷物をまとめたり、水がなくなったらすぐに入れたりなど、そういう教科書の1ページ目みたいな気遣いがほとんどだった。いわゆる
*さいきんになってようやく気付いた、自分の中での「方程式」というか、ゾーンの入り方というか、コンディションの整え方のようなものなんだけれど、おいら、疲れてるとわりといい文章が書けるんすよ。一日中仕事してたり、動き回ってたりして、くったくたの状態で机に座って、こうしてパソコンに向かっているとだね、もう余計な力が入らずに、心と手が一心同体になったような感じで、サクサクと思っていることを書けるんです。 これ、いかに平常時に余計な力が入っているかがよくわかるよなぁ。要らない筋肉まで
*そういえば、僕はよく夜中に料理をする。晩御飯を食べ終わって、ちょっと横になってSNSをパトロールしたり、本を読んだりして、寝るまでの間に、冷蔵庫の中身をチェックして「ふむ、これとこれで、これができるな」なんてのを考え、のそのそと台所に立つ。そして大抵、スマホでラジオかなんかを流しながら、食材を切ったりこねたり、炒めたり煮込んだりする。 そのため、作った料理を食べるのは、一晩寝た次の日からになる。これは僕の生活リズムが大いに影響しているのだけれど、午前中に仕事をして、お腹が
*おう、どうだ、せがれよ。 最近はなんだ、その、元気にやってるか。 そういえば今日はお前の30歳の誕生日だろう。 忘れてないだろうな? 忘れてないか、そうか。 うん、寒いからこたつにはいれよ。 ほら、みかんもあるぞ。 せがれよ、急になんだがな、 「許す」って、どういうことなんだろうな。 「許される」って、どういうことなんだろうな。 おまえはなんだ、その、人を許したことがあるか? うーん、そうか、ないか。 それは許してないってわけじゃなくて、 まだそういう状況を体験したこと
*とある冊子の企画で、占いのような、診断のような企画をつくっている。いわゆる診断チャートみたいなものを作って、あなたは〇〇タイプ!という着地でそのタイプについての説明をするのだけれど、単なる心理テストみたいな紹介じゃおもしろくないので、ちょっと占いの要素を交えたようなものにしていて、それの中身を考えるのがとにかくおもしろい。好きだし、向いているんだろうなぁと思うほどだ。 書き出しでワケのわからないことから始まった方がおもしろいよなぁと思って、自転車競技のことを書いてみたり、
*少し前の仕事で、あれはもっとできたなぁと後悔したことがあった。とある冊子の、コンセプトにあたるページをつくらせてもらえることになったんだけれど、それなりにいいもの、まあヒットくらいは打てたかな、と思っていたのだが、今改めて考えると、もっと広い世界を表現できたじゃないか!と気付いて、自分にがっかりしてしまった。 その案件の商品や、業界という舞台でしか、ものごとを考えていなかったのだ。いわば、日本の商品だから、日本で表現しようというくらいの舞台の狭さでしか考えていなかった。も
*仕事で東京に行った。神戸で生まれ育って、二十歳からあらゆる町に移り住んだりしたけれど、東京という街にさほど憧れはなかった。そこまで東京のことを知らなかっただけかもしれない。ただ数年くらい前から仕事でちょくちょく東京に行くようになって、東京をそこはかとなく好きになった。 面積と人数が明らかに合っていない人の多さ、ダンジョンとしか思えない駅と路線図、ネオンひしめくビル街、すれ違う人の半分以上は外国人。コーヒーは平均800円ぐらいするし、ランチは余裕で1000円を越える。なぜか
*ぼくが好きなものたちの共通点として「世界観」がちゃんとある、ということに気付いた。糸井さんにしても、小林賢太郎にしても、それぞれが持つ「世界観」を、これでもかと表現しているのだ。 音楽にしても、何かしらの表現にしても、やはり「世界観」があるものは強い。手先や目先のこと以上に、つくりたいものの大きな骨組みが見えると、より鮮明に、そして自分の中の似ているものたちと共感しやすくなる。「どういう世界に生きているか」をきちんと表現することができれば、それを見ている人たちも、その世界
*どうなったらこのプロジェクトは成功か?が、例えば「人とのつながりがたくさんできた」なら、それは具体的な数字に落とし込んだ方がいいだろう。名刺交換を何人としただとか、その後も連絡を取っている人が何人いるだとかね。具体的に数字に落とし込めるものは、しておいたほうがいいというのが僕の持論だ。じゃないと、ふんわりしてしまう。 しかしまあ、その成功の基準やイメージが、どうしても抽象的にしか出せない、もしくは抽象的なままにしておいがほうがいい場合だってあることはある。みんなが幸せそう
*「世間」と「世界」は違うことを、ゆめゆめ忘れてはならない。 狭いのは世間であって、世界ではない。逆に、広いのは世界であって、世間ではない。自分に言い聞かせるように書いてみるけれど、本当にそうなのだ。この違いをわかっておかないと、自分の身の回りや、見ている(見えている)範囲で起きていることが、世界の意見のように勘違いしてしまう。 例えば「炎上」という言葉は、わりかし最近できた言葉だろう。SNSとか、ニュースだとか、情報がネットを介してやりとりされ、発信ができるようになって