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あのころ

#これを見た人は20年以上前の写真を貼る

Xのハッシュタグを見て軽い気持ちでXに古い写真を投稿しているうちに、記憶が戻ってきた。今となっては、もう遠い過去の話だ。時系列は覚えていないので多少適当な部分もあるが、怒涛の数か月を書き残してみようと思う。

発端

2000年の1月、ある寒くて風の強い晴れた朝、入籍した。「強引」といっても過言でないかたちで、私の親が押し進めた結婚である。浮かれた母親はウェディング・ハイになり、なんと注文住宅まで購入を決めた。

これが地獄の始まりである。

結婚式をする予定はなかった。最初は夫婦ともそのつもりだったはず。しかし、兄の結婚式を見て思うところがあったらしく、夫が裏切った。なんと夫の両親がいるところで「実は結婚式したい」と言い出したのだ。義両親、大喜び。義実家で凍り付く私。押し切られて結婚式が決定。

すべてが11月~12月あたりの話だった。結婚式は3月に決まった。そもそも私は結婚願望がゼロだったが、親孝行になるならいいのかとも思った。

結婚するならチャペルでの結婚式と、新婚旅行がしたい。

しかし、ここでも母親が荒れ狂い、神前式に決まる。結婚式や新婚旅行の費用が親持ちだったのだ。本人たちのあいだで結婚の話は出ておらず、貯金もゼロに近い。出資者の意見が尊重され神前式に決定。新婚旅行は結婚式から少し日を置いて、シンガポール経由でバリ島に行くことになった。

この時点で決まっていたことは以下のとおり。

  • 結婚式

  • 歯医者

  • 新婚旅行

  • 注文住宅

当時派遣社員だった私は、結婚を機に派遣社員としては退職。そのまま派遣先でパートとして働いていた。

結婚式の準備をしつつ新婚旅行の計画を立て、隙を見て注文住宅の打ち合わせに行き、合間に歯医者。短期間でやることが多すぎる……。自分の意に反しておそろしい勢いですべてが決まっていくのが怖かった。

電話

そんなある日、電話がかかってきた。以前働いていた職場の先輩が「アルバイトが倒れて人手が足りない。短期でいいから働いてくれないか」と。忙しいからと断ったが、先輩が諦めてくれない。

そして、「新婚旅行の期間は休む」「次のアルバイトさんが見つかったらすぐやめる」という条件で引き受けることにしてしまった。タイムマシンがあったなら、過去の私をぶん殴って「絶対に断れ!!」と言ってやりたい。

結婚式・歯医者・新婚旅行・注文住宅・パート・アルバイト。

移動にはタクシーを使わなければ間に合わない日もあった。このころ使ったタクシーの運転手が、ほんの10分程度の実車中にバナナを食っていたのが忘れられない。ときどきちょっと赤字。日に日に疲れは溜まっていく。

そんなある日、店長から「新婚旅行で7日も休まれたら困るんだけど」と非常に厳しい顔でいわれた。新婚旅行自体は5泊6日だったが、そのまえに東京での結婚式に出席する予定がある。休まなくてはならないのだ。そもそもアルバイトより新婚旅行を優先するという前提でヘルプに来ていたはず。

「では辞めますので次のアルバイトさんを見つけてください」

そんな私に店長は「わかった」と渋々了承した……ように見えたのだが、彼がアルバイトを募集していなかったのと知るのは、ずっとあとのことだ。

過労

50日くらい休んでない気がする。そう気づいたころ、ブライダルフェアがあった。新作ウェディングドレスの試着ができる。相変わらず結婚式は1ミリも楽しみではなかったがドレスは見たい。

ブライダルフェアの会場で、私はトイレに行った。用を済ませて前髪を直そうとして、髪の向きがおかしいことに気づく。

額のすぐ横に、超巨大な円形脱毛症ができていた。500円玉より大きい。

披露宴は2か月後。青ざめて会場に戻り、美容師さんたちに相談。なんとかカバーできるようにするね、といってもらった。まあ当日ちっともカバーできてなかったし、円形脱毛症は巨大化したけれど。

忙しい毎日に皮膚科通いが追加された。パートとアルバイトを掛け持ちしているのに出費のほうが多い気がする。

歯医者に通わなくてはならなかったのは、前歯が変色していたからだ。かなり削って綺麗にしてもらい、ぎりぎりアウトな前髪をごまかして、無事に前撮りが完了。

激痛

終わってみれば結婚式は楽しい思い出だ。親戚や会社関係、友人が大勢集まってくれた。泣きはしなかったが、翌日は頬が筋肉痛になるほど、ずっと笑っていたのを覚えている。ただし、円形脱毛症がひどくなっていて、結婚式の写真の髪型は最悪だった。前髪跳ね上がってるじゃん。

そんな私が激しい痛みに襲われたのは、結婚式の翌朝だ。

顔が痛い。とにかく激痛だ。翌々日にはアルバイトに出たのだが、そこであまりの痛みに気を失ったほど。それでも早退せずに働いた。いろいろ考えて「歯の治療が原因では」と思い至る。

前歯の治療で麻酔を打ったとき、神経を傷つけていたらしい。そこが化膿してガスが発生し、顔の痛みにつながっていたのだ。歯の裏側に穴を開けてもらい、ようやく痛みが落ち着いた。

そのころから、頻繁に40度近い熱が出始める。ほかの症状はない。新婚旅行の前々日も39度を超えて夜間救急病院に行った。しかし原因は不明。なんとなく嫌な予感がしつつ、新婚旅行に出た。

腐臭

シンガポールからバリ島へ。

バリ島につくと、花とガラムの香りがした。まるで楽園みたいに美しい。

異変に気づいたのはバリ島2日目だったような気がする。当時のエッセイを見つけ出せば正確な日付がわかるはずだが、めんどくさいので2日目ということにしよう。

部屋が臭い。っていうか旦那側のベッドあたりがめっちゃ臭い。そこに死体とか埋まってないかな。なんか腐ってるよね絶対。

明らかに腐臭だった。やばい臭いだ。そうして翌日には熱が出て、透明な鼻水が出始めた。ああ忙しかったし、風邪を引いたんだな、そりゃそうだよね。バリ島でポケットティッシュを買ったのを覚えている。お土産物は全部ホテルの近所にある店で買った。ほぼ観光もせず、熱にうなされ、鼻水をかむだけで日々が過ぎていき、あっというまに新婚旅行は終了。

点滴

嫌味をいわれつつ、アルバイトに復帰。しかし熱が下がらないし休ませてもらえない。業務中も鼻水が落ちて来る。さらさらした鼻水で、すすれないのだ。常にバリ島で感じた腐臭がする。

ようやく勝ち取った休みの日、近所にある耳鼻科へ行った。すると医師が「副鼻腔炎ですね。点滴しないと治りません」と大量の薬を処方してくれたのだが、なぜか点滴をしない。点滴をしないと治りません、といってるのに点滴してもらえない、この矛盾。そのころの私は思考力が低下しており、それでも耳鼻科に通い続けた。もちろん熱は下がらないし鼻水も止まらない。何度目かの受診をしたとき、偶然幼馴染に会って「ここ何だかやばい。やぶっぽい」と聞いた。耳鼻科通い、終了。

ふらふらになりながらアルバイトに通う日々。もうひとつのパートは短期だったので、そのころには退職している。とにかくアルバイトがつらかった。先輩がきついと感じる日も増えた。何度店長に「やめたい」と伝えたことだろう。もうどうしたらいいのかわからない。毎日ただつらい。結婚式・歯医者・新婚旅行は終わったが、家の打ち合わせが残っている。パートもある。アルバイトはいつまで続くのか。「やめたい、人を募集してほしい」といっても状況は変わらない。熱も下がらず、どんどん食欲も落ちていく。ああ死ぬかもっていうか、若干死にたい。しかし4年前に父親が自死したばかりだし妹も若いのだ。今は無理だ、と自分を励ましながら過ごす日々。終わりが見えず、どうしたらいいかわからない。結婚ってこんなにつらいのか。

どこでも、誰に対しても、それなりに意見は伝えている。しかし、あまり誰も私の話を受け止めてくれない。伝え方が悪いのかもしれないが、体調が悪すぎてもう頭が回らないのだ。

逃亡

そんなある日、同じアルバイトをしている子から電話が来た。「店長はアルバイトを募集していないし、する気がない。あなたを誘った先輩も、いろいろ悪くいっている。このまま働いてもダメだよ。もう逃げて」と。そもそも結婚式や新婚旅行の予定が決まっている状態でアルバイトの打診があって、条件を伝えたうえで働き始めたはずだった。しかし結果的に私が悪くいわれているだけになっていたのだ。

私は彼女にお礼をいったうえで「もう行かない」と告げた。どうやってバックレたか、もう記憶がない。店長にいっても無駄だとわかっていたので、旦那から「体調が悪く働けない」と伝えてもらい、貸与品を返却したと思う。

いま思えば、私のやり方は間違っている。というのも、私はかつて、この会社で正社員で、リストラされて辞めていた。アルバイトとはいえ、エリアで誰が一番偉いのかも知っていて、面識もある。もっと上の人に「こういう状況で困っている」と助けを求めるべきだった。この点については反省している。病気で思考力が落ちていたのだろう。

休養

バイトをバックレた私が行ったのは、市民病院である。当時は紹介状がなくても診察してもらえたのだ。長い長い待ち時間を経てレントゲンを撮り、医師の診察を受けた。

レントゲンを見た医師によると、「顔の左側の筋肉が全部膿になっています。手術はしなくても大丈夫だけど、かなり悪い状態。なぜ耳鼻科で点滴をしてくれなかったのかわからない。原因は歯科医での麻酔で、神経に傷をつけ、その傷が化膿したことだろう。開業医の先生たちはかばいあうところがあるから耳鼻科ではいわないだろうけど」ということだった。

その日から1か月近く、毎日のように点滴をしてもらった。やがて鼻水は止まり、熱も出なくなった。もっと早く点滴をしていたら、あんな思いはしなくて済んだことだろう。

すっかり体力を失っていた私は、そこからしばらく休養。数か月は何もせず、ドリームキャストで毎日シーマンに「うんこうんこー」と声をかけて嫌がられるなどして過ごした。思考力1くらいだったので、ほかに何も思いつかなくて。

砂糖

やがて家が完成し、犬を連れて夫婦で引っ越した。新しい家は快適だったが犬も私も慣れず、旦那はアジア大会の影響で夜間作業や休日出勤ばかり。ストレスから解放されたはずなのに、なんだかつらくて泣いてばかりいた。

時期は覚えていない。しかし、ある日、服のサイズが合わないことに気づいた。おかしいな、と体重計に乗ったら、10キロ痩せていた。体重計が壊れたのかな、と新品の砂糖(1キロ)を測ってみたが、合っている。激務と病気で激やせしたらしい。体重の低下は止まらず、55キロくらいあった体重が39キロくらいにまでなった。

そこからどうやって過ごしたのかあまり覚えていない。PC教室の講師補助をしていたのは覚えている。ダブルクリックできないおじいさんに、こうやるんですよー、と手を添えて教えて、ふと振り返ったらよだれが30センチくらい垂れていた。怖い。

あちこち試験を受けて契約社員の仕事が決まり、働き出して2週間くらいで体重は戻った。一瞬の栄華である。

後日談

結婚が決まってから副鼻腔炎だと診断されて休養するまでのあいだは、わずか半年くらい。まさに怒涛だった。他人のせいにしたくないから都度それなりに意見を述べていたはずだが、何も伝わらない日々だったなという印象。

新しい会社は居心地の良い場所で、そのままそこで10年働いた。とにかく激務でつらい時期もあったが、あの会社で働いてよかったと思っている。

当時のアルバイト先は私が辞めて数年で、その建物から退店した。さらに時間が経ってから働いた会社で、偶然その店で私のあとにアルバイトをしたという女性と知り合い、その店で何が起こったかを聞くことになるが、ひどすぎて書けない。

数年は体調を崩すたびに、あの腐臭を感じた。今は落ち着いている。体重は増える一方だし、私も老いて、このことはほとんど思い出さなくなった。

新婚旅行の件は、後悔しかない。二人でゆっくり海外旅行なんてあまりできないだろうから、と選んだのだから。

「いつか定年退職したら、またバリ島に行こう」と思っていた。ところが、夫は昇進して私は独立し、ふたりとも、もう定年退職はない。バリ島旅行は叶わないだろう。残念である。







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