ジーンズと革ジャン、そして侘び寂び。
私はかれこれ7年間、毎日ジーンズに黒Tシャツというスタイルを続けている。冬はこの上に黒ニットと黒の革ジャンだ。
それまでは洋服だいすき人間で、毎週のように古着屋に通い、ネットショッピングをしていた。同じコーディネートは2度としたくない!の勢いだ。
そんな私が「スタイル」を見つけたのは洋服に対するストレスからだ。
スラックスを履けば椅子に座るとシワがつく、シャツを着れば、椅子にもたれるとシワがつく、、そもそも着るまでのアイロンがけ面倒くさい、、
この微細なストレスに耐えられなくなったのだ。
我ながら神経質すぎる。
ところが、ジーンズを履けばシワなんて気にならないどころかむしろ「アジ」として肯定される。
革ジャンも同じだ。
革ジャンは基本的にボロければボロいほどいい。
(異論はゼッタイに認めない)
黒のTシャツを選んだ理由は上品な上、汚れも汗も目立たないからだ。
さて、ここからが本題だがこのスタイルを続けているうちに「これは日本でいうところの侘び寂びだなぁ」ということをふと考えた。
Google先生によると、「侘び」とはつつましく、質素なものにこそ趣があると感じる心のこと。 一方、「寂び」とは時間の経過によって表れる美しさを指す。
どうやら侘びは「心」を指し、寂びは「状態」を指すようだ。
私はボロいものをボロいまま受け取って、汚い!と言うのではなく、ボロくなるまでの歴史に思いを馳せたい。時には破れて傷ついたろう、時にはずぶ濡れで寒かったろう。
そんなことを考えているうちに、なんだかいいようのない「人情味」のようなものを抱くことができる。それが日本人が持つ精神性「もったいない精神」なのではないか。
そして何よりも、実際に使い古された「美しさ」というのは科学的に再現できるものではない。というよりも再現されて作られたものは歴史を紡いでないから薄っぺらいものに見えてくる。だからこそお金じゃ買えない価値がある。
そう、どんなにテクノロジーが発達しようと「時」は作れないのだ。
そんなこんなで、初めてのエッセイということもあり「なんの話や!」という内容になってしまったが、少しずつ文筆スキルも磨いていくのでとりあえずこのへんで。
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