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デザインは理屈よりも感覚が上回る世界がくると思う話

近年、AIの台頭によりほぼ全ての仕事がAIに代替されうる世界に突入している。

デザイン業界も例に漏れず、仕事が無くなってしまうリスクが常にある業界だ。(まあ別にそれでいいと思うが)

その上で次の10年は、デザインにおいての知識(技術)はもちろんのこと、それ以上にこれまで培ってきた感性・感覚で差別化をはかるしかない時代が訪れるような予感がしている。

なぜなら知識や技術は「論理」で固められていることが多いため、AIで再現可能だからだ。

「これがこういった理屈で、このデザインが出来上がっています」や、「ここがこういった理屈で、このデザインは優れています」と説明できてしまえば、「じゃあそれAIに投げればいいじゃん」となってしまう。

法則やルールがあるものはAIの得意分野だ。

今の段階だと、「そうはいっても人間がやったほうがクオリティ高いしいいよね」となるが、それがくつがえる瞬間は絶対にくる。

だからこそその中でたたかっていくためには、その人にしか説明できない感性・感覚が大切だと思うのだ。

例えるなら、「なんかこんな感じ」だ。

ではその感性・感覚はどのように形成されるのか。

それは「無意識・なんとなく」の連続であると私は考えている。

美術館でいいものを観る、往年の名作とされている映画を観る、誰もが知っている文学作品を観る。自分が素晴らしいと思う作品をとにかくひたすら観る。

「頭で考えながら」観賞することはもちろん大切だが、そんなこといちいち考えないでひたすら数をこなして見ていけば自然と「審美眼」のようなものが形成されていくように思う。

いいものに隠された「リズム」や「共通点」を無意識に吸収していっている感覚だ。

もう少し例え話をすると
「あなたの性格や個性はいつどうやって形成されましたか?」

と質問されても

「なんとなく生きていたらこうなった」
としか答えようがないように思う。

つまり無意識に取り込んでいったものの最終形態が今の自分となったわけだ。

ここで無理に、その感性を言語化しようとすると、再現性が生まれ没個性となってしまう。

その人にしかわからない感性だから、他の人が再現できないトガッた個性が生まれ、それがスタイルになっていくのではないだろうか。

そんなことを考えた休日だった。

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