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くり返すというよりも、くり返してしまう

 創作と読書と夢に耽っているとき、人は似た場所にいる。自分以外の何かに身をまかせている、または身をゆだねているという点が似ている。

 そこ(創作、読書、夢)で、人は自分にとって気持ちのいいことをくり返す。気持ちがいいからくり返す。というより、くり返してしまう。

 創作であれば、その「くり返してしまう」が作家のスタイルになり、読書であれば、そのこだわりが読み手の癖になる。夢はその人の生き方と重なる。

 今回は、そんな話をします。二部構成ですので、お読みになる前に、以下の目次をご覧ください。


*「言葉の切れはし」としてのロラン・バルト

 以下は、蓮實重彥著『批評 あるいは仮死の祭典』からの引用です。蓮實重彥によるロラン・バルトへのインタービューのなかでのバルトの回答なのですが、大学生時代に読んでからずっと気になっている部分です。

 わたしは、自分に関する限り、つまり生き方の問題として「影響」の概念を否定します。それは、もちろん、わたしがある種の影響から隔絶して生きるということではないし、またある影響がこれこれしかじかのものであったということさえできもします。だが、それでもわたしが「影響」の概念を排斥しようというのは、そこに一つの理論というか、ある言語活動の論理学というものの作用によってにほかなりません。わたしは、人間的なコミュニケーションの世界を、本質的に言語活動の水準で生きております。それは、ものを書きはじめてから今日まで変わっていませんし、その点をもって、他の人との区別が可能となる標識のようなものですらあります。わたしにとっては、ある思想の継承とか、思想の影響は存在しない。正統的なやり方で、自分の思想がここにあると指摘することは自分でもできないのです。しかるべき人間、作家、同時代の思想が真にわたしに影響を及ぼしたとは申せません。わたしの中に入りこんでくるのは、言語であり、言語の切れはしなのです。
(蓮實重彥「影響を排する人としてのバルト」「Ⅳ ロラン・バルトとの対話」「ロラン・バルト――言語の悲劇性とそのユートピア」『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房)所収・pp.212-213)

「人間」「作家」「思想」「影響」という抽象に対して、バルトは「言語であり、言語の切れはし」という具体的な物を挙げている点に共感を覚えます。

 今回のこの記事は、上のロラン・バルトの発言にうながされて書いたものです。かつてフランス文学科の卒業論文で、私はロラン・バルトの『S/Z』をあつかったのですが、そのなかでも上の引用箇所に触れています。

 非常勤講師として教えに来てみえた蓮實重彥先生に、バルトによる発言のフランス語の原文があるかどうかを質問したことを覚えています。

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 バルトの「言葉の切れはし」が、いまも私を動かしていることは確かです。とはいえ、私にとってバルトは「言葉の切れはし」でしかありません。私にとってロラン・バルトは「人間」でも「作家」でも「思想」でもないという意味です。

 いま述べたことは、この記事であつかっている、作家たちや諸作品についても同じです。目の前にある言葉の断片でしかありません。それ以外の何なのでしょう?

◆他人の家に入る

*他人の家に入る

 他人の家に入るとぞくぞくします。こんなことをしていいのだろうかという後ろめたさも覚えます。こういう気持ちが特殊なものかどうかは知りません。話せる友達がいないので聞いたことがないからです。

 私は他人の家に入った経験が人よりずっと少ないのではないかと思います。人との交際が極端に薄いのです。最近だと、他人の家に入ったのは五年前でした。ほんの三十分くらいの体験でしたがどきどきしました。思い出しただけでも息が苦しくなります。

*レイモンド・カーヴァー『隣人』

 アパートかマンションに住んでいる夫婦の話――。廊下を隔てた隣人である別の夫婦が長期の旅行に出ることになり、その留守中にペットと室内の植木の世話を頼まれる。鍵を預かり数部屋から成る住まいに入って、言われた通りに猫に餌をやり植木に水をやる。

 それだけならいいのですが、それだけでは済まないのです。妙な心理におちいります。魔が差したという感じなのです。おそらくふだんは自覚していなかった深層の心理が、旅行に出かけた隣人夫婦の住まいの管理を頼まれたことをきっかけに突如として出てくるのですけど、不気味で読んでいてわくわくします。

 以上は、レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)という掌編の要約です。

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 この小説を再読したのがきっかけになって、このところ他人の家に入るという行為について考え続けています。

 以下の記事のテーマやサブテーマは「他人の家に入る」なのですが、私の場合には、これは「自分だけの場所(テリトリー)」というテーマと切り離すことができません。

*「他人の家に入る」身振り

 私は吉田修一の小説が好きで、一時期には全作品に目を通していました。

 いま吉田修一の作品のなかで気になる部分を読みかえしています。この気になる部分については、拙文「くり返される身振り(好きな文章・06)」に書きましたので、よろしければお読みください。

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 吉田修一の小説には「他人の家に入る」という身振りがよく出てきます。その身振りに関して、上で挙げたレイモンド・カーヴァーの『隣人』と似たストーリーというか設定と場面が出てくる作品がいくつかあります。

*吉田修一『パーク・ライフ』

 たとえば、『パーク・ライフ』が頭に浮かびます。

 ラガーフェルドの世話という名目で、誰もいない宇田川夫妻宅に毎晩やってくるようになって二週間になる。「泊まっていってもいいよ」と和博さんが言ってくれたので、ここ数日はその言葉に甘え、広い2LDKのマンションを独り占めしている。歩いて三分しかかからない自分のアパートに戻らないのは、三日前に上京した母がそこのベッドを占拠しているからで、ここ数年、彼女は、春と秋、季節がいいところを見計らって上京してくる。
(吉田修一著『パーク・ライフ』文春文庫・p40)

『パーク・ライフ』では、語りである「ぼく」が知人らしい夫婦宅マンションで、彼らの愛猿ラガーフェルドと遊びながらテレビで映画を観ていたりします。夫妻が住まいにいない理由は割愛しますが、とにかく語り手は留守宅を任されているわけです。

(この小説ではタイトルにあるパーク(公園)が主要で重要な場所になるのですが、他人の家に入るというテーマとは関係がないので公園での出来事は触れずに話を進めます。吉田修一の諸作品において公園という場所はきわめて興味深い役割と機能を果たしている、と指摘するだけにとどめておきます。)

 語り手の「ぼく」は、知人夫妻宅でシャワーを浴びたり、リビングの書棚から本を取り出してめくったり、かかってきた電話の留守録の内容を聞いたりします(盗み聞きとも言えます)。台所に行って冷蔵庫を開けて好きなものを作って食べたりもします。

 こう書いていると、既視感の洪水がやってきます。

「ぼく」は「歩いて三分しかかからない」ところに自分のアパートがあるのです(そこには家族の一員である母親がいる)。それなのに他人の家に入る。他人の住まいをあちこち物色する。そこにはペットがいる。その世話を頼まれている――。

 やっぱり似ています。似ているというより懐かしいのです。寝入り際の夢うつつや夢の中でよく出会う風景のように懐かしい。

 カーヴァーの作品にも似ているし、吉田のほかの作品でも似た風景が出てくるのです。

 似ている、既視感を覚える、懐かしい。こういう感覚は、文学作品を読んでいるとよくあります。

*作品の雰囲気、ストーリー、文章

 私は『パーク・ライフ』の文章が好きです。字面が綺麗なのです。癖がなくて清潔な印象を与えるのは、いわゆる「お洒落な都会生活」が描かれているからかもしれません。

 そうなのかもしれませんが、文章そのものにこだわりたいと私は思います。

 以下の「「ない」に気づく、「ある」に目を向ける」という記事は、吉田修一の『元職員』という小説について書いたものですが、作品の雰囲気やストーリーよりも、文章そのものにこだわって書いています。

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 吉田修一は内容に応じて文体を変える書き手です。

 短編集『熱帯魚』(文春文庫)と長編『長崎乱楽坂』(新潮文庫)だと、もっとごつごつして生々しい性欲と暴力性を感じさせる文章を書いています。この種の文体で書くときには、登場人物がやたら汗をかくという特徴があります。

 安易な連想で恐縮ですが、中上健次の作品に似ていると思ったこともあります。初期には中上を意識して書いたのではないかと思われる作品がいくつもあります。

 たとえば、上で挙げた『熱帯魚』や『長崎乱楽坂』がまさにそうなのですが、中上の作品のように字面も黒々としています。

*やたら汗をかく登場人物

 吉田修一は内容やストーリーだけでなく文章で楽しませてくれる作家です。語りで読ませる優れた書き手だと思います。

 他人の家に居候をしたり、臨時にあるいは短期間他人宅に住んでいる人物が、吉田の作品ではよく登場するのですが、そんなところにも私は惹かれます。たぶん自分には縁遠い世界が描かれているからでしょう。

 以前に吉田修一論を書こうとしたことさえあります。出だしは決まっていて、「吉田修一の小説ではやたら人が汗をかく。いや、むしろ汗が吹き出し流れるのだ」でした。

『パーク・ライフ』では、登場人物は汗をかきません。かきそうでかかないのです。性欲と暴力が少なくとも全面には出てこないからだと思われます。

 作家のこういう癖みたいなものが私は好きです。作家が書く時の癖を楽しみながら読んでいるところがあります。それが私の読む時の癖みたいです。

◆創作、読書、夢

*自作を模倣してスタイルをつくる作家たち

 他の人に似ているとか、他人を真似るだけではなく、自分に似ているとか、自分を模倣するということがあります。作品の話です。

 詩、小説、造形芸術、演劇、イラスト、漫画、作曲、伝統芸能といったクリエイティブな活動にたずさわっている人たちの作品には、その作り手独自のスタイルや型があります。

 これはプロ・アマを問わず見られます。悪い言い方をすれば、ワンパターンでありマンネリズムです。

 そうしたものが個性なのであり、オリジナリティーなのであり、本物なのであり、著作権によって守られる対象だと言えるでしょう。

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 あ、これ、〇〇の曲でしょ? △△の映画は見始めて三分でだいたい分かるね。確かに、このドラマは、いかにも□□さんの脚本ぽいストーリーね。これって、あの人の作でしょ? まただ! 「なんでレンブラントだって分かったの?」「背景の色、そして筆さばきかな」

 創作活動とは自分を真似ることではないか、自分の複製をつくることではないか、と言いたくなります。

*吉田修一『最後の息子』

 吉田修一の別の作品を見てみましょう。

 閻魔ちゃんの部屋でのぼくの暮らしぶりは、「体調の良い病人」という言葉がピッタリだと思う。毎日昼近くに起き出して、夕方まで本を読んだり、散歩したりして過ごす。五時頃になると、閻魔ちゃんが近くの丸正へ買物に行くので、ぼくはゆっくり風呂に入る。風呂から上がった頃には、閻魔ちゃんの料理が完成しているというわけだ。
(吉田修一著『最後の息子』文春文庫・p.20)

『最後の息子』では、「ぼく」(『パーク・ライフ』とはまったく別の語り手です)が「閻魔ちゃん」の住まいで居候をしています。

 吉田修一の初期の作品では、「○○さん」「○○ちゃん」という言い方が頻出します。親しい間柄でも、気に食わない相手でも、いわゆる呼び捨てはあまり出てきません。他人の家でお世話になっている話が多いからかもしれません。

 地方出身の若者が都会に出ている話も多いのですが、そのために借住まいや仮住まいが必然的に多くなり、しきりに周りの人に気遣いをする、相手の顔色をうかがう、おどおどとした若者というキャラクターも目立ちます。

 そんな雰囲気が私は好きです。

『最後の息子』はじつにユニークな設定の小説なので、ぜひお読みいただきたいのですが、いずれにせよ、他人の住まいにいる語り手の生活が描かれていることに注目しましょう。

『パーク・ライフ』と『最後の息子』――。両者を読むとき、私は既視感を覚えずにはいられません。

 そしてその既視感はカーヴァーの『隣人』で描かれるさまざまなシーンとも重なります。そうした既視感と連想が、私にとって読書の醍醐味なのです。

 こういう、とりとめのない思いに浸るのが楽しくてなりません。

*文学空間、テキスト空間

 大げさな言い方になりますが、文学空間とかテキスト空間に居るような不思議な気分になります。

 目の前にある複数の言葉たちと、そのそれぞれの言葉が喚起するどこからか来たイメージたちが、共鳴し合うような世界です。

 正視すれば目まいを起こすに違いない明視の世界なのですが、そこにぼうっとした眼差しを送ることで、それをやり過ごすのです。

 夢のように、そこに参加していながら傍観するしかない世界――。大切なことは差異よりも類似が幅をきかせる場という点でしょう。

*類似、影響、模倣

 お断りしなければならないことがあります。

 ここでは異なる作家による作品間の模倣や影響を問題にしているのではありません。私は類似に惹きつけられる人間ですが、作品間の影響や模倣について考えることはないです。

 ただ似ているのが面白いと思うだけなのです。

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 何が似ているのかと言えば、言葉です。言葉が言葉に似ているのです。言葉の身振りが言葉の身振りに似ているとも言えます。

 私はイメージとか言葉の身振りとか癖とかスタイルという言葉をつかいますが、似ているのは言葉の断片、言葉の切れはしであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 影響や模倣という概念は、「そこにある言葉」を読めなくします。あるものを何か別のものに置き換えるという、読むのとは違った作業におちいります。

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 ある図式や概念を捏造して、作品を見立てで読もうとすると、かならずその見立てに抗う細部が出てきます。その細部を見ない振りをしない限り、見立ててで読むことを続けられなくなります。

 こうした作業が「読む」から離れているのは当然でしょう。読まなくなるのです。

 見立てを裏切る細部を「見たくない」から「読まなくなる」という意味です。

 多くの批評や書評にはこうした誤魔化しが見られます。いっぽうで、そうした誤魔化しを喜ぶ読者がいることも確かです。

「偉い人」が安易な見立てや見通しをつけてくれたほうが、楽に読める、つまり楽に読まないでいられるという心理が「一般読者」の側にあるからにちがいありません。

 読むというのは楽な作業ではありません。読まないほう(読んだ振りをする、読んだということにしておくほう)がずっと楽です。読まない常習者の私が言うのですから、間違いありません。

     *

 話をもどします。

 他人の部屋に入るという行為が出てくる作品は世の中にたくさんあるにちがいありません。

 私が読んだことのある小説など数が知れていますし、私が似ていると思うのはごく個人的な感想であり意見でしかありません。

 一個人がその限られた読書体験の中で気づいたことを楽しんでいるだけだ、と理解していただきたいと思っています。

*作家が書くときの癖

 小説にしろ、詩にしろ、エッセイにしろ、ある書き手には書くときの癖みたいなものがあります。ある特定の作家を読みこめば読みこむほど、その癖やパターンが分かってきます。

 たとえば、さきほど述べたように吉田修一の作品では登場人物がやたらと汗をかきます。汗と同じ水からなる、プール、海、噴水もよく出てきます。

 くり返しになりますが、他人の家に入るとか居候をする話も多いです。「あっ」(この間投詞を吉田が使うと実にチャーミングなのです)と声を上げる仕草も頻出します。あと、建物の上から、外の通りを見下ろすという身振りも目立ちます。⇒ 「くり返される身振り(好きな文章・06)」

     *

 一時期に私が吉田の小説を集中的に読んでいたのは、何らかの形で他人の家に入るという身振りに惹かれていたからではないか、と思うことがあります。

 私は小説を書くことがありますが、自分にとっての第一作にも、「他人の家に入る」という行動が出てきます。実生活では、他人の住まいを訪ねることが極端に少ないにもかかわらず、です。

 そういえば、私の小説をずっと読んでいる人から、「あなたの小説ではおしっこをする場面とお風呂の場面が多いね」と言われて、はっとしたことを思い出しました。

 たしかに、そうなのです。おしっこの場面はなくても、トイレが重要な意味を持つ作品もあります。

 完成か未完成を問わず、これまでに自分の書いてきた作品たちを思いかえしてみると、他人の家に入るという身振りがくり返されているのに驚きます。同時に、やっぱりねという思いもあります。

*気持ちがいいから、くり返してしまう

 たぶん、いや、きっと、私は他人の家に入りたいのです。

 さもなければ、「他人の家に入る」についていくつも記事を書かないだろうと思っています。まだまだ書くに決まっています。

 気持ちがいいから、それをくり返すのです。すると、くり返すこと自体が気持ちよくなります。

 だから、くり返すのではありません。くり返してしまうのです。 ⇒ 「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」

 違ったことをしようとして、くり返してしまう
 違ったことをしているつもりで、くり返してしまう
 違ったことをする振りをしながら、くり返してしまう

 くり返しながら、うっかりとくり返してしまう
 くり返そうとして、じっさいにくり返してしまう
 くり返す振りをしながら、ほんとうにくり返してしまう

 冗談ではなく、こういうことってよくありませんか? 実生活でも、フィクションでも、です。まるでどこかに振付師がいるかのように。

Buster Keaton - « Seven Chances » 全編 ⇒ Full movie 

 右へ右へと流れる。右へ右へと逃げる。右へ右へと落ちていく。ときおり現れる英語の字幕の文字も右へ右へと書かれている。ほとんどのものが、右へ右へと動いて(move)しまう。

Steamnoat Bill Jr.  全編 ⇒ Full movie 

 右へ右へと風が吹く。右へ右へと川が流れる。右へ右へと船が進む。ときおり現れる英語の字幕の文字も右へ右へと書かれている。手書きの文字も右へ右へと書かれる。右へ右へと、ほどんどのものが動いて(move)しまう。

     *

 英語の書かれる方向と似ていませんか? かつては「普通」ではなく、いまや「普通」になった日本語の文字の書かれている方向と似ていませんか?

 右へ右へ。

 くり返すのではなく、おそらく、くり返してしまう。

 あくまでも、たとえばの話でしたが、「(して)しまう」とは、たぶん、そういうことなのです。

*創作活動、読書体験、夢の場所

 同じことを繰り返すことで安心するのでしょう。子どもがブランコやシーソーやメリーゴーランドの単調な動作や風景の繰り返しが好きなように。

 そうした、ぶらぶらゆらゆらぐるぐるとした世界では、主体などなく、あるのは動きと景色ばかりだという気がします。

 その意味で、創作活動と読書体験(作品の鑑賞)は夢に似ています。創作と読書と夢に耽っているとき、人は似た場所にいるという意味です。

*「しまう」だけがある

 あえて共通点を述べるなら、そこ(創作、読書、夢)では、自分以外の何かに身をまかせている、身をゆだねていることでしょうか。

 だから、くり返してしまうのです。くり返すのは自分でありながら自分を超えたものに支配されている気がします。振り付けされていると言えばわかりやすいかもしれません。ただし、誰かによってというより、何かよってだという気がします。

(自分以外の「何か」とは、言葉や文字なのでしょうが、楽曲におけるコード進行とか旋律に相当する「流れ」だと言えば分かりやすいかもしれません。大切なことは、快い方向へと流れていくことです。すると、それが筋や型になります。)

 そこ(創作、読書、夢)は、動きと振りと、うつろう景色だけがある場所です。自分をふくめて、特定の人物などいないのです。そこは、ある特定の「どこ」ですらないとも思います。

 たぶん、そこには「(して)しまう」だけがあるのです。

*生きていない物による生きている振り

 振付師(「師」が付いていますが人ではなく物です)がいるからです。

 振付師については、鏡を覗きこんだときに見える像や、いま目の前にある文字をイメージすると分かりやすいかもしれません。

 鏡にうつる像は人ではなくガラスという「生きていない物」であり、目の前にうつる文字はインクや液晶という「生きていない物」なのです。

「生きていない物」に振りがうつっているという意味です。あるのはというか、見えるのは、振りだけなのです。⇒ 「振りまわされる(線状について・05)」

 いまパソコン、またはスマホでこの文章を読んでいる。文字が右へ右へと流れている。目線が右へ右へと文字を追う。

 きっと、誰もが同じような、つまり似ている身振りをしている。

 画面を下へ下へと見ていくために、同じような指使いをしている。スライド、スクロール、ホイールボタンをころころ、フリック、スワイプ。

 目線は上へ上と注がれる。画面は上へ上へと流れる。

 上へ上へと、下へ下へが同時に並行して起きている。前へ前へと後ろへ後ろへが同時に並行して起こっている。

 進むととどまるが同時に起きている。せわしなく動いているのは手と指だけで、人は動かないが、人は動いているつもりでいる。

     *

 動いていないのに動いている、動いているのに動いていない――。乗り物、画面、巻物、紙、ノート、書物、読むという行為、見るという行為。

 生きていない物をつかって、人は自分が動かずに動くことを覚え、日々実行している。

 気持ちいいからそうしている。気持ちいいからそうしてしまう。

     *

 文字を書いて学ぶときにうつむく、文字を読むときにうつむく、スマホをいじるときにうつむく、うつむきながら歩く。

 鏡を見るとき、鏡を覗きこんで姿を見るとき、人はほぼ同じ、つまり似ている身振りをする。振りをする。

 振りをするというより、振りをしてしまう。無意識にしてしまう。そうしないと器械がつかえないから、そうする、そうしてしまう。

     *

 文字も本もノートもスマホもパソコンも鏡も、生きていない物です。

 それらの生きていない物に共通するのは、うつしていることです。振りをしていることです。その振りに合わせて、人はほぼ同じ、つまり似た振りをします。

 うつす・うつる、移す・移る、写す・写る、映す・映る ⇒ 「「移す」代わりに「映す・写す」」

 振りをしていながら、振りをしてしまっている
 意識的でありながら、無意識であってしまう

 あくまでも、たとえばの話でしたが、「(して)しまう」とは、そういうことなのです。というか、それだけにはとどまらないのです。

 また、振付師(「師」が付いていますが人ではなく物です)がいるとは、そういう意味なのです。

 人のつくる(うつる・うつす)ものは人に似ていますが、同時に、人は人のつくる(うつる・うつす)ものに似ていきます。いま、それには拍車がかかっている気がします。 ⇒ 「【モノローグ】カフカとマカロニ」

     *

 話をもどします。

 くり返す振りをしながら、ほんとうにくり返してしまう――。(して)しまう。

 そういうことなのです。

 以上、強引に今年の記事の総まとめをしました。

     *

 妙なしまい方、締めくくり方をして、ごめんなさい。この記事では「(して)しまう」を体感していただきたかったのです。冗談ではなく。

 今年もおしまいですね。もうすぐ終わってしまいます。みなさん、よいお年をお迎えください。


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