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山の記憶、「山」の記憶

 今回は、川端康成の『山の音』の読書感想文です。この作品については「ひとりで聞く音」でも書いたことがあります。


◆山と「山」


 山は山ではないのに山としてまかり通っている。
 山は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

 体感しやすいように書き換えると以下のようになります。

「山」は山ではないのに山としてまかり通っている。
「山」は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

 説明的に書くと次のようになります。

「山という文字」は「山というもの」ではないのに山としてまかり通っている。
「山という文字」は「山というもの」とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

 後で触れますが、次のようにも言えます。

「たった一つのもの」が「無数のもの」の代りとしてまかり通っている。

 文字は複製として存在し、複製として用いられています。言い換えると、「同じ」どころか「同一」、つまり「たった一つ」として存在し用いられているのです。

「たった一つ」をみんなで共有すればどうなるでしょう? みんなで使えばどうなるでしょう? 

 混乱と争いと、そして一本化への動きが生まれると私は思います。この一本化への動きに抗うつもりで、今回の記事は書いています。

 腕力や武力や暴力と結びつかないのであれば、混乱と争いは致し方ない気がします。ああでもないこうでもない、ああだこうだのことです。

 でも、一本化への動きには必ず腕力と武力と暴力がともなうことは歴史が教えてくれているのではないでしょうか。人類の歴史はそのくり返しです。

     *

 では、本題に入ります。

 山の記憶と「山」の記憶があると思います。少なくとも私には両者があります。

 山の記憶と「山」の記憶には、重なる部分も重なりそうもない部分もありますが、私は「山」で山を見ているところや、「山」で山を感じているところが多分にあるので、両者を分けることは難しいです。

◆「山」の記憶、「山」で連想する言葉と文字


「やま・山・yama」、つまり「山」という言葉(音)と「山」という文字で私が記憶しているというか、連想するものを挙げてみます。具体的には、「まなざし、目差し、眼差し」で述べた「言葉を転がす」作業です。

 言葉を転がすというのは、一人で、ああでもないこうでもない、ああだこうだをやることであり、言葉に詰まってしどろもどろになっているとも言えます。

 一本化できないのです。言葉をずらしているだけで、ある意味「何も言っていない」に等しい気がします。「うつす、ずれる」

     *

 まず、音からの連想。

 やま、やみ、やむ、やめ、
 ゆめ、いめ、ゆめじ、いめーじ
 よみ、よむ、よめ
 よ
 よる
 よぶ

「は?」ですよね。でも、本人は本気でやっているのです。

     *

 次に、上の音を文字に変えます。

 山、闇、病み・止み、病む・止む・已む・罷む、止め
 夢、寝目、夢路、イメージ
 黄泉、読み・詠み、読む・詠む、夜目、嫁
 夜、世、代、余、予
 夜、寄る・凭る・頼る、縒る・撚る・依る・因る・由る・依る、選る・択る、揺る
 呼ぶ、喚ぶ、召喚する

 私はこういうことが大好きです。病的に好きだという自覚があります。たぶん、ずれているとか、はずれているのです。

 これだけは譲れないというか、ぜひ知っていただきたい部分があるので、説明します。

     *

 夢、寝目、夢路、イメージ

「寝目」というのは、愛読書である広辞苑の「夢」の語義にある「(イメ(寝目)の転)」という語源の説明なのです。初めてこの言葉を目にしたときには歓喜しました。

 だって、「イメージ(image)」と激似ではありませんか。嬉しくならないなんて私にはとうてい無理な話です。しかも、「夢路をたどる」という言い回しの「夢路」も連想させてくれます。

 ゆめ、いめ、いめーじ、ゆめじ。
 夢、寝目、イメージ・image、夢路。

 お分かりいただければ嬉しいです。

     *

 上で並べた文字列を、もう少しすっきりさせてみます。

 山、闇、病み
 夢、寝目、夢路、イメージ
 黄泉、読み・詠み、夜目、嫁
 夜、世、代
 夜、寄る・凭る・頼る、揺る
 呼ぶ、喚ぶ、召喚する

 どうでしょう? 整理してスリムになった分、なんとなく、さまになりませんか?

 以上が、川端康成の『山の音』で私が連想する言葉(音)であり文字であり、イメージなのです。

 音だけに戻します。

 yama、yami、yume、yoru、yomi
 やま、やみ、ゆめ、よる、よみ

◆『山の音』の「山の音」

*山の音、闇の音、夢の音、夜の音、黄泉の音


 川端康成の『山の音』のなかで、主人公の尾形信吾が「山の音」を耳にする場面を見てみましょう。

 八月の十日前だが、虫が鳴いている。
 木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。
 そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。
 風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いてはいない。
 信吾のいる廊下のしだの葉も動いていない。
 鎌倉かまくらのいわゆるやとの奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
 遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞こえるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
 音はやんだ。
 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。
 風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考えたつもりだったが、そんな音などしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞こえていた。
 魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった。
(川端康成「山の音 二」(『山の音』新潮文庫)所収・p.10)

 タイトルでもある「山の音」が使われています。そのためにその前後の言葉たちが象徴的な意味を帯びる箇所です。

 私はこの箇所を読むたびに、「山・やま・yama」という文字と音が呼び寄せる文字と音とイメージを感じます。感じるというよりも、襲われるという言い方が適切かもしれません。

 何を感じて、何に襲われるのかと言えば、や行、つまりローマ字で書くと y で始まる一連の言葉たちです。 

 信吾は「やま・やみ・ゆめ・よる・よみ・よめ」「山・闇・病み・夢、夜・黄泉・嫁」「呼ばれた」のかもしれません。一文字(一言)でいうと「魔・ま・ma」だったのでしょう。

「魔」に呼ばれたどころか、喚ばれたと信吾は感じたのかも。

 魔、真、間、目

 言葉を転がすのが好きな私は、こんなふうに転がしたくなります。

 yama、yami、yume、yoru、yomi、yome 

「y/m」の絡みが見えてくるようです。

「よめ・嫁」で笑わないでください。『山の音』では嫁が大きなテーマです。何人もの嫁が出てきます。この作品は嫁たちをめぐって展開する物語としても読めるでしょう。

     *

 よぶ、yobu、呼ぶ、喚ぶ

 信吾が「呼ばれた」のかもしれないと上で書きましたが、『山の音』の「山の音」には、さまざまな「呼ぶ・呼ばれる」が出てきます。

「おずれ」をどう呼んだか(⇒「ひとりで聞く音」)、つまりどう発音したか。夜なかに妻の保子(この作品に出てくる嫁の一人です)のいびきに呼ばれる、つまり目を覚ます。

 蒸し暑くて信吾が雨戸を開けると、嫁(息子の妻)の「菊子のワン・ピイス」がまるで信吾を出迎えるようにぶらさがっている。

【※この細部は、単なる話の中の「お飾り」であるとは思えません。菊子が初めて登場する重要な場面と言えます。なにしろ妻の保子の眠っている体に触れた直後の話なのです。菊子についての説明なしに、いきなりこのように「雨戸の外にぶらさがっていた」「ワン・ピイス」として登場させるところに川端の技巧を感じないではいられません。】

「ぎゃあっ、ぎゃあっ、ぎゃあっ」という庭の蝉の声、虫の鳴く声、夜露が木の葉から木の葉へと落ちる音、海の音、風の音、耳鳴り。

 どれもが信吾には呼ぶ音として聞こえるように私は感じます。「呼ぶ」というよりも「喚ぶ」、つまり招く音に聞こえるかのようです。

『山の音』は「呼ぶ・呼ばれる」の物語としても読めます。ラストを見てみましょう。

 信吾もうなじの凝りをもみながら立ち上って、なんとなく座敷をのぞいて灯をつけると、
「菊子、からす瓜がさがって来てるよ。重いからね。」と呼んだ。
 瀬戸物を洗う音で聞こえないようだった。
(p.323)

「呼んだ」と「音」で、この作品は終わります。呼んでも「聞こえないようだった」というところを見逃すわけにはいきません。

 冒頭で「おずれ」によるすれ違いがありますが、この小説では、すれ違う音と音によるすれ違いばかりが出てくるのです。

 川端の作品では声を含む音によるすれ違い、あるいは聞き間違いが大きな役割を果たす箇所(細部)が多い気がします。見間違いや「見えているようで見えていない」がテーマになる古井由吉の作品とは対照的です。⇒「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)」

 たとえば、一見すると人違いをテーマにしたように感じられる「めずらしい人」という掌編(『掌の小説』所収)を、娘が父親の話を聞いて、すれ違いが生じたと考えて読むと、父親の人違いよりもずっと恐い話になります。⇒「「めずらしい人」(錯覚について・03)」

*The Sound of the Mountain

 Though August had only begun, autumn insects were already singing.
 He thought he could detect a dripping of dew from leaf to leaf.
 Then he heard the sound of the mountain.
 It was a windless night. The moon was near full, but in the moist, sultry air the fringe of trees that outlined the mountain was blurred. They were motionless, however.
 Not a leaf on the fern by the veranda was stirring.
 In these mountain recesses of Kamakura the sea could sometimes be heard at night. Shingo wondered if he might have heard the sound of the sea. But no----it was the mountain.
 It was like wind, far away, but with a depth like a rumbling of the earth. Thinking that it might be in himself, a ringing in his ears, Shingo shook his head.
 The sound stopped, and he was suddenly afraid. A chill passed over him, as if he had been notified that death was approaching. He wanted to question himself, calmly and deliberately, to ask whether it had been the sound of the wind, the sound of the sea, or a sound in his ears. But he had heard no such sound, he was sure. He had heard the mountain.
 It was as if a demon had passed, making the mountain sound out.
("The Sound of the Mountain" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, Vintage International, pp.7-8)

 上の英訳を読むときには、上で述べた意味での「感じる」も「襲われる」も起こりません。別の「何か」を感じはしますが、「襲われる」ことはありません。

 信吾が「やま・やみ・ゆめ・よる・よみ・よめ」「山・闇・病み・夜・黄泉・嫁」に呼ばれたとか、召喚されたとか、信吾を呼んだものが「魔」だったという思いも起こりません。

 Shingo too got up, rubbing at a cramp in the small of his back. He looked absently into the living room and turned on the light.
 "Your gourds are sagging," he called to Kikuko. "They seem to be too heavy."
 She apparently could not hear him over the sound of the dishes.
(p.263)

『山の音』の英訳である The Sound of the Mountain を読んでいて目立つのは s です。私の難聴の耳に響くのは、母音とも子音とも知れない y ――これが私にとっての山の音なのかもしれません――ではなく、 s の鋭い音なのです。

 もっともこれには理由があります。英語では s で始まる単語がいちばん多いからにほかなりません。英和辞典で見出しを「見る」と分かります。Seidensticker 氏 による川端の作品の英訳名を「見る」ことでも、その一端がうかがわれるかもしれません。

・『山の音』:The Sound of the Mountain
・『雪国』:Snow Country
・『眠れる美女』:House of the Sleeping Beauties

(もちろん、Thousand Cranes(『千羽鶴』)や The Izu Dancer(『伊豆の踊子』)や The Master of Go(『名人』)という例外がありますけど。)

 あと、s が目立つのは、私には文字を読むというよりも「見る」癖があることも理由として挙げられそうです。

 私にとって小説とは、時間の芸術であると同時に(⇒「『雪国』終章の「のびる」時間」)、絵画と同じく視覚芸術でもあります。
(拙文「音読不能文について」より)

     *

 一例を挙げると、英語の mountain とドイツ語の Berg とフランス語の montagne と、日本語の「山」とは、ずれています。イコールの関係にはなく、日本にいては五感で「体験する」こともできません。
(拙文「辺境にいる 辺境である」より)

 翻訳は別物だと私は思います。似ていたり、そっくりだったりしますが、別の物です。

 森鴎外が中心となって新声社同人が編んだ訳詩集に『於母影』(おもかげ)があります。「おもかげ・面影・俤」に「於母影」を当てたのでしょう。

 翻訳には「おもかげ」という言葉が似合う気がします。読みながら、おもかげを追うのではないでしょうか。そのおもかげは一様でも不動でもないと思います。

     *

 すべての文章は、そしてすべての言葉は刻々と更新し続ける「翻訳」なのかもしれません。

 あらゆる言語が先行する複数の言語の交ざったものだからです。それは人が常に辺境にいる辺境だからにほかなりません。⇒「辺境にいる 辺境である」

 あらゆる言語と言葉と文字は、無数の先人たちが移動した結果としてある。

 あらゆる言語が、あらゆる言葉が、たった一つの顔を装いながら、無数であり、次々と表情を変える仮面として生きている。

 誰もがたった一つに見える顔に、その時々に自分のいだくおもかげを追う。

 自分=他者=多者というおもかげとの追いかけっこ。他者と化した無数の自分との追いかけっこ。

*古井由吉の山と「山」


 古井由吉の諸作品でも山がよく出てきます。山が舞台であったり、山の記憶が語られるという意味です。

 山、闇、病み
 夢、寝目、夢路、イメージ
 黄泉、読み・詠み、夜目、嫁
 夜、世、代
 夜、寄る・凭る・頼る、揺る
 呼ぶ、喚ぶ、召喚する
 

 私は古井の作品を読んでいると、やはり以上の「山」の記憶が呼び覚まされます。詳しいことは、拙文「夢路」「vigil for Virgil」「夢のかたち」「明日を待つ」をお読みください。

 上の文字列のうちで、「山、病み、夢、黄泉、読み・詠み」をもっとも感じるのは『山躁賦』、強烈な「闇、夢、黄泉、呼ぶ・喚ぶ」の気配が漂うのは『野川』と初期の長編『聖』です。

     *

 山というと『杳子』を思い出しますが、よく読むと意外と山の気配が希薄な作品だと私は思います。

『杳子』で山の場面というと「一」章(pp.8-27・新潮文庫・以下同じ)なのですが、「一」だけでなく『杳子』には「山」という文字が驚くほど出てきません。

・p.11「山の中」
・p.12「登山者」、「山靴」
・p.13「山靴」
・p.16「山の重み」
・p.17「山の重み」
・p.24「山肌」
・p.25「山に」

(以上は「一」に出てくる「山」ですが、見落としがあったら、ごめんなさい。)

「ない」ものは目立つのです。⇒「「ない」に気づく、「ある」に目を向ける」

 頻出するのは「谷」と「岩」です。驚くほど出てきます。古井は語のくり返しの多い書き手です。

「谷」と「岩」が頻出するのは、この作品のテーマが「山」というよりも「力」と「方向」だからだと考えられます。「谷」は山の力が集まり露呈する場であり、それを個々に具現(露呈)しているのが「岩」なのです。⇒「『杳子』で迷う」「まばらにまだらに『杳子』を読む(10)」

「力」と「方向」は、「一」だけでなく、「二」から最終章の「八」までに変奏されながら――「力」は「重さ・重み」や「圧力」や「釣合い」「雪崩れる」や「流れ落ちる」や「崩れる」、「方向」は左右、上下、内と外、前後、東西南北として変奏されます――一貫して出てきます。

     *

 古井由吉における山と「山」――魅力的なテーマです。体調が良いときに、ぜひ書いてみたいと思います。「山」とは、もちろん「山、闇、夢、夜、黄泉、詠み・読み、呼ぶ・喚ぶ」です。

◆山を思う、「山」を思う


 山を歩きながら「山」を思う。山で遊びながら「山という言葉と文字とそのイメージ」と戯れる。

 そうやって歌が生まれる。詩ができる。散文が書ける。

 俳句で考えてみると分かりやすいかもしれません。山での体験をもとに五七五の句を作るときには、言葉の世界に入り込むのではないでしょうか。

 先人たちや、同時代の他者たちの作った俳句の記憶もよみがえってくるにちがいありません。呼び寄せるとも言えるでしょう。

 よみがえる、蘇る、甦る、「黄泉(よみ)からかえる意」(広辞苑より)

 よみがえってくるもの、よびよせるもの、それは言葉や文字であるはずです。耳で聞こえる言葉と目で見える文字だけが他人と共有できます。

 定型詩としての俳句や短歌でも、自由律でも、詩でも、歌詞でも、小説などの散文でも同じではないでしょうか。先人たちと同時代の他者たちの言葉と文字の記憶なしに言葉と文字は綴れないと思います。

 目の前のものや世界を写そうとするとき、私たちは先人たちと同時代の他者=多者たちの言葉と文字を写すしかないのです。

 言葉と文字に関して言えば、世界を写すというのは、あり得ない抽象だと私は思います。引用しているのであり、引用の織物を作っているのです。しかも、起源のない引用、引用の引用として、そして現物や実物のない複製、複製の複製として。「小説の偽物っぽさ(小説の鑑賞・07)」「【小話集】似ている、そっくり、同じ」「letterからなるletters」

(絵や映像も(ひょっとすると音楽も)そうなのかもしれません。これまでに観てきた絵のように描く、これまでに観てきた映像のように撮る、(これまでに聴いた楽曲のように作曲する)というふうに。引用しているのです。)

     *

 山と「山」。
 山の記憶と「山」の記憶。
 山を思うと「山」を思う。

 山を歩きながら「山」を思う。山で遊びながら「山という言葉と文字とそのイメージ」と戯れる。

 そして、山を下り、山から遠ざかったところで、また「山」を思う。山を思い出し、山を思い浮かべ、山を思い描きながら、「山」と戯れ、「山」を歌う、「山」について綴る――。

 こう考えると、もはや、山と「山」を区別することが、はばかれてきます。区別できないのです。というか、たとえ区別できても、区別して生きることは現実的ではありません。

     *

 山は無数で無限で、はかり知れない。山も人の数だけあるにちがいないし、その人の数だけある山も、人の心とともに刻々と移り変るはず。

 それなのに、「やま・yama」とみんなで口にする。「やま・山」と文字で綴る。

 同じものをみんなで使うことによって、みんなで知識と情報を共有するためです。これしか方法がないからでしょう。これが、個々の言葉と文字と言語を使う代償なのかもしれません。致し方ないようです。

     *

 だから、たった一つの音と、たった一つの「真字・真名・まな」と「仮字・仮名・かな」をみんなで使う。

 だから、みんなの使い方に食い違いがあるのは当然。まちまちであるのが当たり前。

 だから、「たった一つ」は、まぼろし。誰もが口にしたがる、まぼろし。誰もが見たがる、まぼろし。誰もが耳にしたがる、そらみみ。

 かといって、声の大きい人や、力の強い人や、偉いとか賢いと言われている人の「言葉の使い方」(「意見」や「主張」や「決めたこと」や「説」や、いわゆる「定義」のことです)に従う必要があるでしょうか。

 たった一つに一本化する必要があるでしょうか。

 たとえば、正義とは○○である。民主主義とは○○である。真実とは○○である。意味とは○○である。無意味とは○○である。文学とは○○である。詩とは○○である。音楽とは○○である。芸術とは○○である。この文章の意味(解釈・真意)は○○である。作者の意図は○○である。○○主義とは○○である。○○の教え(思想)は○○である。

 これしかない。これが本当(本物、正統、正しい、本家本元)。他のは嘘(出鱈目、フェイク、偽物、邪道、間違い、分派活動)。

 ○○が一致するわけがないのに、一本化しようとする動きがある。いつの時代にもある。一本化への意志が殺し合いや戦争に発展することもある。いまも現にそうなっている。

 この時点でも、おびただしい量の血が流れ、たった一つの命があちこちで奪われている。「たった一つのもの」を求める結果として。「たった一つ」「同じ」「同一」という抽象は、たった一つの具象を排除するどころか殺す。

 上でも述べましたが、一本化への動きには必ず腕力と武力と暴力がともなうことは歴史が教えてくれています。

 これも「○○とは」ですが、「言語とは軍隊を持つ方言である」という言葉を思いだしました。「○○とは、腕力(声の大きさ、知名度、権威、武力、権力、暴力)に支えられたレッテル(意見、説、主張、定義)である」と言いたくなります。

「自分」にとっての(たぶんその「自分」には他者=多者が含まれているはずです)「○○とは」があれば、それでいいのではないでしょうか。

 それも一本化したり、首尾一貫する必要はなくて、常時または随時更新、つまりころころ変わっていいのではないでしょうか。

 話を戻します。

     *

 山は「山」、「山」は山。やまは「やま」、「やま」はやま。
 山は山、やまはやま。

 たった一つは無数。

 考えれば不思議ですが、その不思議を私たちは日々生きているようです。私は、その不思議を文字どおり有り難いものとして受け入れたいと思っています。

     *

 まとめます。

 山は山ではないのに山としてまかり通っている。
 山は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

「山という文字」は「山というもの」ではないのに山としてまかり通っている。
「山という文字」は「山というもの」とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

「たった一つのもの」が「無数のもの」の代りとしてまかり通っている。

     *

 一本化された、つまり抽象としての「たった一つ」は、まぼろしだと私は思います(ヒトの頭の中にしかないという意味です)。むしろ、至るところに「たった一つ」(具象)が無数にあるのです。

 抽象としての「たった一つ」や「同じ」や「同一」は、まぼろし。具象である無数や多数や複数を処理できないヒトがいだかずにはいられない、まやかし。

 とても大切なことなので、くり返します。

 この時点でも、おびただしい量の血が流れ、たった一つの命があちこちで奪われている。「たった一つのもの」を求める結果として。

「たった一つ」という抽象は、たった一つの具象を排除するどころか殺すのです。

     *

 話が飛躍して申し訳ありません。

 ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

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