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聖書的な子育てー律法と福音

聖書には律法と福音があります。「してはいけません」「しなければなりません」が律法です。

ではなぜ律法があるでしょうか?それは人間は律法を守ることができない罪人である事を悟らせる為です。律法は一つでも守れなかったら罪人です。

福音は何でしょうか?良い知らせです。罪人である私の為にキリストが十字架で神様を離れた問題、罪の問題、悪魔の問題を解決してくださいました。

イエス様をキリストと信じさえすれば義人となり、すべてから解放され自由を味わえます。これが福音です。本当に良い知らせです。

そして信仰生活とは、みことばですべてを導いて下さり、知恵を下さいます(預言者)。恵みですべてを乗り越える力が与えられます(大祭司)。悪魔が働くので、私に御使いが仕えます(王)。これを毎日味わうのが福音です。

しかし律法は自分の行いが基準です。「今日は礼拝できなかった」「今日は祈れた」などなど。自分の行いを基準として、できた時はいいですが、できない時は自分を裁きます。また自分だけでなく教会に通っている人、牧師、子どもなどなど「できている」「できていない」の目で裁きます。

自分を裁いても、裁かれても苦しいものです。裁くという言葉を言い換えると、罪に定めるや責めるとも言えます。そんな人が周りにいたら、また自分自身だったとしたら信仰生活がだんだん苦しくなってきます。これが律法なのです。

私は小学生の時にこの律法で苦しみました。いつも「できない私」「守れない私」「罪を犯してしまう私」そんな私という存在に自信を失い、いつも罪の悔い改めをし、結局は教会に行かないことが私の願いになってしまいました。

礼拝のみことばを聞く中で、分別力が生まれますように。福音だけを聞き続けると律法と福音の違いが分かるようになっていきます。

私はある意味、律法の背後で悪魔が働いていて、福音だけを味わえないようにしている気がします(生まれた時から教会に通い、後に福音を初めて聞いた私の感想です)。

律法は行いが基準で、苦しみを与えます。しかし福音は生かすものです。真の自由と解放を与えます。子どもたちにも福音だけが刻印されますように。

もし今、律法的な教会に通っていたり、自分が律法的であったとしたら、まずはみことばですべてを導いて下さり、知恵を下さいます(預言者)。恵みですべてを乗り越える力が与えられます(大祭司)。悪魔が働くので、私に御使いが仕えます(王)。これを毎日味わって見てください。

そして子どもも毎日、福音を味わえるように助けてあげて下さい。変わっていくようになります。

ありがとうございます(*ˊ˘ˋ*)献金は新宿キリスト教会を通して一度も福音を聞いた事のない99%の方々に福音を伝え、7000専門指導者を探し、逃れの町の教会を立て、レムナントを育てる働きに用いさせて頂きます。アブラハムの祝福があなたに臨みますように。