違和感手帳10₋生き急いでるという実感と余白について

2023年6月7日

衝撃的な本に出合いました。今、発見がつながり、感動と興奮でいっぱいです。読書が好きでよかった。

私自身が日々の中で、どうやったって、考えずにはいられなかった物事に頭と時間とが追いつかないことも多々あって、置き去りの違和感に時折心が痛んでいました。また私自身が抱える違和感や問いは、思いのほか他者は気にしていないのかもしれない、と思うと、自分はどうも生きづらい人種なのかな、と感じることがありました。

でも、あらゆることを問うことは、自分が変わるために不可欠だったのだということ。ただ、あきらめず、必死に生きていたんだということを認めてもらえた気がしてとても心に響きました。

考えずにはいられない人や、教育や社会に興味がある人、今を必死に生きているあらゆる人と一緒に、感想を共有したいと思いました。

以下はわたしの感想です。もし気が向きましたらぜひ耳を傾けていただけると嬉しく思います。



2023.6.6 『冒険の書 AI時代のアンラーニング』を読んで

「勉強がつまらない」大学生活の日々の中で、ふと我に返ることがありました。医学の勉強に追われながら、どうしても立ち止まらずにはいられないことがあります。そんな時、なんとか書き留めていた違和感に向き合うと、そこには問いがたくさんありました。どうして勉強が楽しくないのか。一体何に追われているのか。周りを見ても、目の前の日々に追い詰められながら勉強している人が少なくはありませんでした。中には「こんなはずじゃなかった」と言う人もいます。選んでここにいるはずなのに。学ぶって、もっと自由でもっと楽しかったはずなのに。知識の生き方がイメージできないが故のつまらなさを感じてしまう状況に嫌気がさしつつも、何事においても最短距離をもとめてしまう強迫観念から、とどまることはできず、毎日をこなしているのです。私の問いはこんな日常から始まりました。大学とは何なのか。学ぶとはどういうことか。ひいては、いい医師とは何か。医療はなんのためにあるのか。幸せとは何なのか。その過程でひとつ気が付いたのは、大学が、あるいは医学が、それ自体は本来しあわせというゴールのための手段のはずなのに目的化しているということでした。特に医学部は医師養成学校という側面があるため、仕方ないのかもしれません。けれど、少なくとも少なくない学生が「病んでいる」この状況は、全然ハッピーなんかじゃありません。

さらに私が感じる違和感や生きづらさには、「何生き急いでるんだろう。」という実感と、「物事はもっとあいまいでいいはずなのに、それを許さないかのような分類、分断があるように感じる」ということでした。周りの友人や関わりを持つあらゆる人、一人一人が、それぞれにオリジナルな価値観や視点をもっていて、とても貴重な尊敬すべきひとたちです。にも関わらず、他でもなく私自身を含め「生きる意味」に思いを馳せ、人の役に立たずにはいられない人間は「能力」にとらわれ、社会にとっての価値を提供できないと感じて打ちのめされます。そしてなんとかしてそうできる自分を認められるようになろうと限られた物差しの中で苛まれているのです。

問題は本当に複雑です。現代は過去よりずっと便利になったはずなのに。つながりに苛まれ、評価に翻弄され、目に見える価値あるもの以外は排除されるきらいにすらある。生きる楽しさが失われていく。キラキラ働く大人がはたしてどれほどこの社会にいるのでしょうか。

ある時、あきらめが付くということが大人なんだなと思ったこともあります。成人でありながら学生という身分で、ある種、明日が保証されているからこそかもしれない余裕にうしろめたさも覚えながら、考え迷い続ける中で、日々本当に多くの問いが混在しています。

自己満足と自覚する利他は利己なのか。社会に諦念感(追記:今まで、あきらめるという意味でしか知らなかったのですが、今回辞書を引いてはじめて、「道理を悟る」という意味があるのだと知りました。これは興味深いです。)でいっぱいのくせに、希望という名のあきらめの悪さも同居していること。コミュニケーションの上で不可欠な言語の不確実性や限界について。納得と理解を求めずにはいられない人間について。本当のやさしかとはなにか。豊かさと、うしろめたさの可能性。生きがいと幸せ。相対的な生き方と絶対的なあり方。私は、人は関わりあって、影響しあって生きている以上、筆者のいう「評価を超えた生き方は可能だ」というご意見には懐疑的です。悲しいことに、私自身はまだその枠組みを超えられるようには思えません。

さらに私の話をすると、追われる日々になんだか抵抗したくなって、休学してみようかと考えていました。私は遊び心を大事にして生きていきたいし、余白をもって過ごしていたいと思うのに、そうできておらず思考が追い付いていない、いったん立ち止まりたいと感じることが多かったからです。しかし資金的に実現可能かは別として、どうしても一歩踏み出せませんでした。なぜだろうと考えて気が付いたのは、以下のことです。「きっと、休学という経験や出会いが将来の何かになりうるという確信もある。だけど、文化の違いや価値観の違いに打ちのめされたい、と願って求める経験は「目的を持たずに旅に出る」ことで初めてかなうのだと思う。それは事実、なにか得るかもしれない、あるいは得ないかもしれないというあいまいなことに一年かけて全振りするということであって、結局休学してまで、すなわち、余分な時間とお金をかけて「まで」外に出て退屈時間を謳歌したいと欲する余白は、単なる贅沢、わがままなのだ。贅沢を現実にするにあたっては、説得力という名の大義名分が必要なんだ。」ということです。目的なしに何かをすること、あるいはしないことは、現在ではほとんど選ぶ発想にない突飛なことなのだと実感しました。

私はつまらない日々の閉そく感と、「これだけではまずい気がする」という危機感から、大学では得られないけれど、絶対的に必要だと感じる楽しい学びを求めて、学外で学生オンラインコミュニティを運営しています。そこでは、ミッションとして「知らないを知り、出会い、体験し、ともに視野を養う場を創る」という言葉を掲げ、初志や想像力、共感、そして、「共育」というキーワードを大切にしながら「暮らしと医療を知る」活動と場を全国の友人らと一緒につくっています。こういった活動こそ私にとって、先生の作りたいとおっしゃっていた「アンラーニング・コミュニティ」かもしれないなと思いました。突っ込んだ話をすれば、そこに意義を超えた楽しさを感じるその一方で、この場を持続可能でより多くの人に紹介したり実施したりしよう考えると、どうしてもお金が必要です。このような背景もあり、以前「医学生と社会の隔絶という社会課題はお金になるのか。」という問いを立てたことがあります。現在の「価値」はお金に還元されるからです。まだその答えは見つかっていませんが、今回あらためてその問いについて考えました。社会の前提が価値(=お金)という基準で存在しているということが、この問題の非常に難しいところだとわかりました。以前アドバイスいただいた、贈与の可能性という新たな道筋に再度触れながらいまだに考えるところはつきません。

まとまりは悪いけれど、思考が止まることはないのでこのままあらゆる疑問を置きながら、問い続けようと思っています。

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