令和6年能登大震災、ハイヤーセルフからのメッセージは「普通でいなさい」だった

「今の私に必要なことは何ですか?今の私に何ができますか?」

地震発生直後から、私はハイヤーセルフに問い続けながら行動した。

3ヶ月前に大動脈解離の手術を行って心臓の血管を入れ替えた72歳の母親のサポートが第一優先だと感じた。

心身のストレスによって心拍数が上がって血流が多くなる分、血管に負荷がかかり、太くなっている血管の解離や破裂のリスクが高くなる。

また、術後、血圧コントロールの薬を飲む必要がある中、胃が弱い母親にとっては、薬を飲む前に食べ物を胃に入れることが必要だった。

このため、少しでも母の心身のストレスを軽減して血管にかかる負荷を最小限にとどめるため、できる限り心身ともに快適な環境を整え、且つ、薬を飲むための食料確保が第一優先だった。

その次に、83歳の高齢の父の体調を案じた。
父のメンタルがタフであることはわかっていたが、北陸の冬の寒さで体調を崩さないよう、暖をとることが最優先だと感じた。

そのためには同じ場所にじっとしてなんかいられない。
私は積極的に動き回り、情報収集と必要な物資の確保に努めた。

同じ避難所に避難した旅館のスタッフの方や従業員の方、司令室にいるスタッフの方々、ボランティアで働く方々に積極的にコンタクトし、動く中で、必要な情報と物資は自然と集まった。

母が薬を飲むために必要な食べ物を探そうと、校長室を出た途端、右方向に廊下の長机に並べられたセブンイレブンから配給されたであろう、セブンイレブンのマークが入った菓子パンやスイーツ、おにぎりが並べられているのがすぐに目に入った。

母の病態を説明し、母用に最後に2つだけ残っていたおにぎりを、次に父親用のバウムクーヘンをもらい、両親に渡した。

とにかく動きながら情報収集をしていると、次々と運ばれてくる水やキッチンペーパーやトイレットペーパーやみかん、機能性食品のゼリー食などが目に入り、必要なものを必要な分だけ確保することができた。

また、両親が暖をとるための布団は宿泊先の旅館のスタッフが運んでいるところに居合わせ、母親の事情を説明して2人分の掛け布団を確保し、うずくまる両親にかけた。

「もうお腹いっぱい。十分」

両親の反応に安心したが、まだ油断はできない。
次々と運ばれてくる物資は和倉温泉旅館のお土産物の菓子類がほとんどだったが、避難所生活が長引いた場合に備え、エネルギー補給用に「これは両親が食べれそうだな」と感じたものは余分に確保しておいた。

同室していた避難者の方々にも必要な物資が行き届いたのを確認した後、避難所の小学校で避難した人混みの中を歩きながら、私はハイヤーセルフに問いかけた。

すると、こう答えが返ってきた。

「普通でいなさい。」

配給された物資を全員に行き渡らせようと機敏に動くボランティアの人たち、
毛布や布団にくるまってうずくまる人、
ストーブの前で暖をとる人、
下駄箱の前で集まって楽しそうに談笑する学生たち、
教室の中で机の上に突っ伏して眠る人たち、
不安そうな声を出して泣きぐずる幼い子を抱っこしてあやす若い母親・・・。

目の前に繰り広げられる光景は明らかに非日常だった。

それでも、私の中は普通だったが、
「これでいいのだ」
と思った。

そして、更に自分の中に「今の私に何ができるか?」と問うた時、ボランティアに加わり、物資の配給を手伝う中で情報収集を行うことが思い浮かんだ。

司令塔的に指示を出す男性に「何かお手伝いできることはありますか?」と聞いた。

その男性も避難したうちの一人だったが、声を枯らして配給方法や配給先の指示をしていた。

その男性の指示に基づいて動き、水や紙コップなどの運搬を手伝う中で、どうやら配給物資は十分になっており、避難所の人々の食料などの物資の入手もひと段落し、眠りに入っている様子が見えてきた。

時計を見ると夜の11時を回ろうとしていた。

急に眠気が襲ってきた。

ボランティアとして手伝う中で、必要物資も行き届き、夜がふける中で、「何かしなければ」と強迫的に動くことがいいとは思えなかった。

「普通でいなさい。」

もう一度、ハイヤーセルフからの声が聞こえた。

「そうだ、普通でいよう。」

私は両親が休む校長室に戻り、父親にかけた布団の半分をもらい、ほんの1、2時間だったが、深い眠りに落ちた。

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