鯵五郎

SP盤時代の歌謡曲や、深夜アニメ、Nゲージなどが好きな中年後期のオッさんです。何卒宜し…

鯵五郎

SP盤時代の歌謡曲や、深夜アニメ、Nゲージなどが好きな中年後期のオッさんです。何卒宜しくお願いします。

最近の記事

いとしの君よ (羽衣歌子)。

羽衣歌子の歌う「いとしの君よ」。柳水巴=西條八十の作詞、編曲は伴奏楽団の指揮者であるウェイン・コールマン自身かと思います。大正末から昭和の極初期、日本には欧米から最新の楽曲とそのレコード楽譜が輸入され、ハイカラ層に愛好されていました。アメリカからはジャズやハワイアンが入り、ヨーロッパからはタンゴやシャンソン、少し後にルンバなども加わって、当時の日本音楽界は早くも百花繚乱の様相を呈していたのです。欧州、特にフランスではレビューの女王と呼ばれたミスタンゲットや、アメリカから来たジ

    • ノモンハン櫻 (伊藤久男)。

      5月11日は「ノモンハン事件」勃発から数えて85年目です。ノモンハンとは満州西部、モンゴルとの国境を流れるハルハ河の一帯を指し、其処には小高い幾つかの丘と草原が広がっております。街がある訳でもなく、地下資源が存在している訳でもありませんが、当時のソ連と云う存在は大日本帝国にとっては脅威であり、満州守備に当たる関東軍将兵らは常に緊張下にありました。張鼓峰事件やカンチヤーズ事件等、ソ連側の国境侵犯に伴う紛争は増加の一途を辿り、遂に昭和14年5月11日にノモンハンの草原にて最初の戦

      • リオ・リタ (奥田良三)。

        奥田良三の歌う「リオ・リタ」。伊庭孝作詞、井田一郎編曲で、原曲はハリー・ティファニーの書いた同名アメリカ映画の主題歌です。本作は元々ガイ・ボルトン原作の戯曲であり、これを1929年にルーサー・リード監督、ベーベー・ダニエルズ&ジョン・ポールズ主演で映画化。物語は19世紀、アメリカ・メキシコ国境に位置するリオ・グランデを舞台にしており、付近を荒らし回る盗賊の親玉キンカジュウとその一味を追う若き保安官との捕物劇に、リオ・リタと呼ばれる街一番の美人とのロマンスを絡ませた娯楽大作でし

        • のらくろ二等兵 (長谷山雛菊音楽会)。

          長谷山雛菊音楽会一同による児童劇「のらくろ二等兵」。ご存知田河水泡原作の兵隊漫画を、劇団主催者で作曲家の長谷山峻彦がアレンジしております。講談社発行の人気子供雑誌「少年倶楽部」で昭和6年から連載され、擬人化した犬達の軍隊「猛犬連隊」に孤児の黒犬である“のらくろ”こと黒吉が入営する所からスタート。何処かスッとぼけた性格ながら要領が良く、ドジと勲功を重ねながら軍隊内で出世して行き、戦争が激化した昭和16年に軍の圧力で最終回を迎えるのですが、その時は大尉にまで昇進していました。足掛

        いとしの君よ (羽衣歌子)。

          私のリズム (淡谷のり子とコロムビア・リズム・ボーイズ)。

          淡谷のり子とコロムビア・ナカノ・リズムボーイズの歌う「私のリズム」。柏木晴夫作詞、仁木他喜雄編曲、原曲はゴールド・シュタインが20年代に書いた「ホノルル・ブルース」と云うナンバーです。昭和5年にデビューした淡谷のり子は、序盤からジャズソングやシティソングを歌う機会に恵まれまして、早くも「夜の東京」や「ラブ・パレード」がヒット。コロムビア移籍後も「嘆きの天使」「二人の恋人」と云った向こうでもお馴染みのナンバーを入れており、次第に流行歌よりもバタ臭い曲がレパートリーを占めて行きま

          私のリズム (淡谷のり子とコロムビア・リズム・ボーイズ)。

          ラブ・レター (フランク永井)。

          フランク永井の歌う「ラブ・レター」。佐伯孝夫作詞、吉田正作曲で、数あるヒット曲の中の一つです。昭和7年に宮城県松山町に生まれたフランク永井は、本名を永井清人と云いまして、子供の頃から芸事に興味を持ち特に歌手への憧れを抱きました。地元校を卒業すると兄を追って上京し、トラック運転手として働く傍ら、好きだったジャズを歌いつつ米軍基地を周りました。評価は上々であり、さらにテレビの素人のど自慢大会に出て頭角を現します。ベストワンに選ばれてビクターと契約し、ジャズ歌手としてデビューするの

          ラブ・レター (フランク永井)。

          青春街の唄 (藤本二三吉)。

          藤本二三吉の歌う「青春街の唄」。酒巻春之助作詞、池田不二男作曲で、サンデー毎日にて、宮本幹也が連載していた小説「青春街」が新興キネマで映画化された際の主題歌でした。監督は同プロダクションに移籍したばかりの村田實が担当。中野英二、岡田時彦、入江たか子、森静子などが出演した全十巻の作品であり、昭和8年11月に封切られました。物語は闇の世界に落ちぶれた不良青年が主人公で、嘗ての恋人と再会するも兄弟分が彼女を愛している事を知ると、進んで恋を譲り身は再びギャングとして夜の街へと去って行

          青春街の唄 (藤本二三吉)。

          東京セレナーデ (二村定一)。

          二村定一の歌う「東京セレナーデ」。時雨音羽作詞、佐々紅華作曲で、昭和初期に多く書かれたシティソングの一つです。当時のビクター邦楽新譜には、佐藤千夜子&西條八十&中山晋平による新民謡や抒情歌、そして二村&時雨&佐々のシティソングという、二つの売れ線流行歌がありました。たとえば「君恋し」が流行れば「東京行進曲」が場外ホームランと言った具合で、一つのレーベル内でも激しいヒット合戦が展開しており、世は昭和歌謡史最初の黄金時代へと突入します。佐々紅華は、一つの楽曲を三味線伴奏とジャズ伴

          東京セレナーデ (二村定一)。

          あたし大人 (平井英子)。

          平井英子の歌う「あたし大人」。佐伯孝夫作詞、鈴木静一作曲で、長らく童謡歌手として活躍して来た、平井の記念すべき流行歌でのデビュー曲でした。大正7年1月東京市に生まれ、幼少の頃より音楽の勉強を始めた彼女は、10歳を前に作曲家中山晋平の目に叶って師事する運びとなります。当初はヒコーキレコードからデビューしましたが、やがて日本進出したビクターに中山共々迎えられ、童謡歌手として最初の黄金時代を迎える事に。「あの町この町」「兎のダンス」「證誠寺の狸囃子」などの定番曲の他、佐々紅華作曲の

          あたし大人 (平井英子)。

          さくら音頭 (浅草〆香・新橋喜代三他)。

          今年も早新年度を迎えました。ようやく桜の便りも各地から届き始めた今日この頃と云う訳で、今夜は浅草〆香、新橋喜代三、玉野小花、東海林太郎達が歌う「さくら音頭」を。サトウ・ハチロー作詞、山田榮一作曲でした。昭和初期の新民謡ブームで、日本各地の綺麗処達が注目され、それらの芸者達がレコード界へ進出するやこれまた多くのスターを輩出。中でもビクターの擁する小唄勝太郎、市丸の『勝市コンビ』は凄まじいものがあり、昭和8年に出た「東京音頭」「天龍下れば」は大ヒットしました。そしてお花見シーズン

          さくら音頭 (浅草〆香・新橋喜代三他)。

          寂しき路 (徳山璉)。

          徳山璉の歌う「寂しき路」。長田幹彦作詞、橋本國彦編曲、原曲はナルクシクレッド作曲の“lonesome road”で、ラベルにはユニバーサル映画「ショーボートの中の歌」とあります。此の映画は確かに存在しますが、1936年の制作と資料にはありましたので、それだと当レコードの制作時期より数年後と云う事になります。検索した限りでは1929年にも同名映画が同じユニバーサルの手で作られているので、恐らくは此方のバージョンでの挿入歌ではないかと推察されます。当時は「リオ・リタ」や「ビッグ・

          寂しき路 (徳山璉)。

          暁の決死隊 (三門順子)。

          今や忘れ去られた女性歌手の一人が三門順子。その彼女が歌う時局歌の一つが「暁の決死隊」で、日華事変真っ只中に書かれております。彼女は大正4年に栃木県に生まれ、幼少の頃より長唄に親しみまして、18歳の時にNHKのラジオ番組に出演してその美声を全国に知らしめました。折しもその頃は“ハァ小唄”に代表される芸者歌手ブームの真っ只中でして、日本調の流行歌の需要が高まっておりました。多くの芸者らがレコード会社と契約して続々と新曲を繰り出したのですが、彼女らは検番に所属している関係からか『花

          暁の決死隊 (三門順子)。

          恋の鳥 (荘司史郎)。

          荘司史郎の歌う「恋の鳥」。小説家の久米正雄の作詞、原野為二作曲で、久米原作の「沈丁花」が松竹で映画化された際の主題歌です。此の物語の原作は東京大阪朝日新聞の連載小説であり、名もなき天才的な若き画学生を描いております。主人公の青年は大御所画家の倅なのですが、保守的な父親は自身の作風を踏襲する兄を可愛がり、新しい絵を求める次男に冷たく当たるばかりで、とうとう破門追放の憂き目に。困窮する中である芸者と知り合い、そして励まされ、再起を図るべく絵のコンクールに出す作品製作に取り掛かるの

          恋の鳥 (荘司史郎)。

          銀座恋しぐれ (小谷サユリ)。

          小谷サユリの歌う「銀座恋しぐれ」。鹿山映二郎作詞、柳澤志乃夫作曲とありますが、小谷は彌生ひばり、柳澤は竹岡信幸の変名です。新宿ムーランルージュで歌っていた彌生は、キングに入れた「ララ東京」を皮切りに「街の日暮れ」「唄え想い出」などを録音。更に松竹楽劇部に属して少女歌劇のステージに立つなどして活躍し、歌手としても幾つかのレーベルにも進出して持ち歌の数を増やしました。しかしそれに前後して変名も使って吹き込んでいた事を知る人は、当時であっても極々限られていた事でしょう。此の歌を手掛

          銀座恋しぐれ (小谷サユリ)。

          吉良の仁吉 (美ち奴)。

          美ち奴の歌う「吉良の仁吉」。萩原四郎作詞、山下五郎作曲で、彼女の代表的な一曲です。幕末の“裏の英雄”とも云うべき清水次郎長に並ぶ侠客が『吉良の仁吉』。腕っぷしが強いだけでなく、義理人情に厚い性格だった彼は、18歳の頃に次郎長一家の世話になり兄弟盃を交わす存在に。そして吉良に帰り一家を形成しますが、やがて清水一家の舎弟である伊勢吉五郎の縄張りを襲った穴太徳次郎と対立する事になります。1866年4月、荒神山の争いに参加して、伊勢一家は勝利を収めるも、哀れにも仁吉は討ち死にを遂げ、

          吉良の仁吉 (美ち奴)。

          ハイキング・ソング (渡邊はま子・藤山一郎)。

          渡邊はま子と藤山一郎と合唱団の歌う「ハイキング・ソング」。佐伯孝夫作詞、鈴木静一作曲によるレクリエーションソングで、音楽学校出の二人らしく癖のない歌声で朗々と歌っております。今みたいに家での娯楽が然程多くなかった当時、春秋はハイキング、夏はキャンプに海水浴、そして冬はスキーと云うのがチョットした贅沢なレジャーでした。そしてこれらの行楽は自家用車が普及していない当時は鉄道移動であり、従って国鉄の前身である鉄道省はシーズンに合わせてキャンペーンを行っていました。勿論それにはレコー

          ハイキング・ソング (渡邊はま子・藤山一郎)。