「征夷」を目指す朝廷と蝦夷 〜奥州藤原氏誕生前夜の東北〜
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今週の記事は特集「奥州藤原4代の真実」から。
平安時代中期の奥州で産声をあげた奥州藤原氏。藤原氏誕生の前夜、そして前九年・後三年の役へと至る東北は、いかなる状況だったのでしょうか。
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監修・文/関 幸彦
東征の果てに発生した「前九年の役」「後三年の役」 二つの合戦に至る東北の全貌
奥州では8世紀頃から、東国支配を図る朝廷と、現地・蝦夷の間で争乱が続いていました。度重なる東征の果てに発生した二つの合戦に至る東北の全貌を、地図や人物関係図とともにひもといていきます。
奈良時代から続いた蝦夷平定は最大の課題
光仁(こうにん)・桓武(かんむ)両朝の懸案は、令政治の刷新とともに、東北方面の内国化にあり、蝦夷(えみし) 平定は最大の課題だった。
奈良時代には「俘軍(ふぐん)」と称し蝦夷を軍事的に組織する政策もとられた。宝亀11年(780)俘軍の長で伊治郡司の伊治(これはり)の呰麻呂(あざまろ)が蜂起し、接あ察使紀広純(あぜちきのひろずみ) を殺害、さらに陸奥国府多賀城(宮城県)が落とされる。続いて北方の胆沢(岩手県)方面の反乱も勃発した。
朝廷は数度にわたり大軍を派遣し、最終的には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が延暦20年(801)に征夷大将軍として派遣されたことで蝦夷戦は終止符が打たれた。田村麻呂は胆沢を拠点とした蝦夷の首長・阿弖流為(あてるい)を降伏させ胆沢城を築いた。
翌年の延暦22 年には、その北方に斯波(しわ)城を築城するなど、北上川の線に即して内国化が推進された。併せて、胆沢城には鎮守府を多賀城から移し、行政(多賀城)と軍政(胆沢城)の分離をはかることで、蝦夷・俘囚統治の実績を上げようとした。この間光仁・桓武朝を山場とする対蝦夷戦は大略以下の流れがあった。
・宝亀5年(774) 大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)らによる蝦夷征討
・天応元年(781)持節征東大使・藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろに)よる蝦夷征討
・延暦7年(788)征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)による蝦夷征討
・延暦10年(791)征夷大使・大伴の弟・麻呂による蝦夷征討
・延暦20年(801)征夷将軍・坂上田村麻呂による蝦夷征伐
このような流れをたどった蝦夷との戦いも、嵯峨(さが)天皇の弘仁年間に終息をむかえる。征夷大将軍として派遣された文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は過去の征夷事業について、「宝亀五年ヨリ当年ニ至ル、惣ベテ三十八載」と総括した(『日本後紀』)。
蝦夷平定により生じた二つの〝後遺症〟
こうした武力による征夷政策には、徴兵システムを前提とする律令軍団制の機能保全が不可欠だった。
9世紀は蝦夷との戦争で内国化の進展がなされたものの、二つの問題が浮上した。一つは長期にわたる征夷事業の結果、国家の軍事システムが機能しなくなったこと。そして二つには帰順した俘囚たちへの対応の問題だった。当初、後者については蝦夷地域内での自治の容認もはかられ、有力俘囚に位階を与え、統治するなどの方策もなされた。
けれども抜本的対策とはなり得ず、最終的には俘囚分散の措置が講ぜられることになる。いわば強制移住での分割統治だった。
例えば貞観12年(870)12月、上総国に下された官符には「夷種を国内に散居させるのは、盗賊を防御させるためである」旨が指摘されていた。明らかに俘囚勢力による軍事・警察機能の補完だった。律令軍団制の機能不全に対し、政府側は俘囚勢力の再活用を目ざすこととなる。いわば蝦夷戦争の〝後遺症〟の解決策だった。
俘囚の強制移住は関東・瀬戸内そして北九州方面に集中した。いずれも群盗・海賊問題が多発する警戒地域だった。しかし、移住地域にあっても騒擾(そうじょう)事件が頻発、必ずしも蝦夷問題は鎮静化には至らなかった。そうした中で、9世紀後半に出羽方面で勃発した元慶(がんぎょう)の乱は、大きな課題を投げかけることとなった。
終わらない征夷と安倍氏・清原氏の台頭
朝廷のスタンスは「強攻」から「懐柔」へ
「夷俘反乱シ……(中略)秋田城ナラビニ郡院ノ屋舎、城辺ノ民家ヲ焼キ損ウ」(『三代実録』元慶二年三月二九日条)。
出羽の国守・藤原興世(ふじわらのおきよ) は、元慶の乱の勃発をこのように報じた。元慶2年(878)の春に起きたこの争乱は、その鎮定に10カ月を要し、中央政府にも大きな衝撃を与えた。秋田城司・良峯近(よしみねちかし)の強引な課税が俘囚たちの反感を買い、争乱へとつながったようだ。最終的にこの事件は、藤原保則(ふじわらのやすのり)や小野春風(おののはるかぜ)らを登用し、懐柔策によって鎮められた。
乱の勃発当初、政府は隣国の陸奥に3千の出兵を促したものの、強攻策は失敗に終わった。その後に藤原保則が登用され、懐柔策への転換がなされる。
出羽権介(でわごんげんのすけ)保則は「今ノゴトキハ坂将軍(坂上田村麻呂)ノ再ビ生マルトイエドモ蕩定(鎮圧すること)スルコト能ハジ」と語り、「教フルニ義万ヲモテシ、示スニ威信ヲモテシテ、我ガ徳育ヲ播(ほどこ)シ」(『藤原保則伝』)との方針に即し、対応したのだった。
要は、坂上田村麻呂のごとき存在がいたとしても、力攻めでは解決しない。そのために威信を示しつつ徳治の姿勢で望むべきとの方向が採られた。俘囚たちへの説論は、軍事官僚たる小野春風などを反乱の中心地域の上津づ野村(現鹿角地方)に赴かせ苛政への不満に理解を示すなどした。
この懐柔・和平路線が功を奏し8月末には300人の俘囚が投降、乱は終息にむかった。〝戦わずして敵を屈するは善の善たるもの〟との孫氏的兵法のごとき戦略だったことになる。
この元慶の乱での対応は、かつての強圧的な征夷路線が軍事面で機能しなくなったことを語るものだった。
数多の鎮守将軍が陸奥・出羽の地で交戦
この元慶の乱以後、10 世紀に入った天慶(てんぎょう)年間(938―947)にも出羽の俘囚の反乱が勃発している。関東での平将門(たいらのまさかど)の乱とリンクするかのごとき闘諍事件で、これも秋田城介・源嘉生(みなもとのよしお) の苛政が原因とされる(『本朝世紀』天慶二年七月一八日条)。結果的には10世紀の天慶段階の俘囚蜂起も時期的に差はあるものの、蝦夷問題が国家の重要な軍事課題であったことは間違いない。
ちなみに10世紀初頭以降、わが国では律令を原理とする国家システムに変化がもたらされ、王朝国家と呼称される時代が到来する。この王朝国家への移行期には地方政治の刷新もはかられ、蝦夷問題も新たな国家体制にあって政策的転換がなされた。
醍醐天皇の10 世紀初頭、三善清行(みよしきよゆき)が提出した『意見封事(いけんふうじ) 』でも軍事課題として「蝦夷ノ乱」と「新し ら羅ぎ ノ警」を挙げている。東国における蝦夷の問題と、西国での新羅の問題が国家の軍事課題として取り沙ざ汰たされていた。
この時期、東アジアでは大唐(だいとう)帝国が解体、周辺諸地域にもそ
の余波が広がっていた。中国を〝お手本〟としたわが国の場合、〝お手本〟から離れる政策がはかられ、かつての律令的原理の放棄がなされた。
東北統括を期待された安倍氏・清原氏
東北方面でも、力による制圧からの転換がはかられた。いわば「委任」・「請負」を原理とするシステムによる国家運営が顕著となり、俘囚勢力の一部を支配者側に組み込み、「夷ヲ以テ夷ヲ制スル」方向をより強化することになる。そうした中で、陸奥の奥六郡の統括を委任された安倍(あべ)氏と、出羽の仙北(せんぼく)三郡の支配を委ねられた清原(きよはら)氏の役割が期待されるようになる。
すでに触れたように、陸奥では行政の多賀(国府)と、軍政の胆沢(鎮守府)に権力が分極化されていた。胆沢方面に地盤を有した安倍氏については、俘囚勢力の代表として、ここから北方の奥六郡の統轄を委任され、王朝国家の東北支配の担い手としての役割を与えられていた。
同様に出羽方面にあっても、俘囚勢力の代表清原氏が仙北三郡の統轄を委任されていた。安倍氏の奥六郡、清原氏の仙北三郡は、ともにかつての律令国家の支配の北限に位置する地域でもあり、この方面への自治を容認しながら、間接的統治を実現する。これが10世紀以降の王朝政府の対応だった。そうしたなかで安倍・清原両勢力は自己の権力を伸長させていった。
歴史人』2024年3月号のご紹介
特集「奥州藤原4代と中尊寺の真実」
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新連載「栗山英樹のレキシズム」第2回は「小和田哲男先生と語る今川義元」です。