【全文先出し無料公開】歴史研究の最前線(月刊「歴史人」)。吉野ヶ里遺跡の未調査エリアから発見された石棺墓、描かれていたのは夏の天の川だった!?
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今回の歴史研究の最前線ニュースは「吉野ヶ里遺跡と夏の天の川説の謎」。
2023年、吉野ヶ里遺跡で未調査だったエリアから、一基の箱式石棺墓が発見された。
墓石に刻まれた無数の線刻……。調査が進むにつれて、吉野ヶ里遺跡は実は、天体と暦に合わせて設計されていたーーという意外な史実が浮かび上がって来た。
考古天文学で紐解いていくと「石棺墓に描かれているのは、夏の天の川」だというのだ。
第一線で活躍する歴史研究者&歴史作家が、最新の歴史研究レポートをお届けする!
監修・文/北條芳隆
歴史研究の最前線_01「吉野ヶ里遺跡と夏の天の川説の謎」
2023年、吉野ヶ里遺跡で未調査だったエリアから、1基の箱式石棺墓が発見された。その蓋石に刻まれた無数の線刻に秘められた謎が徐々に解き明かされつつある。そこには、遥か昔、弥生時代の人々が見上げた星空の姿と、高度な文明社会の痕跡があった。
石棺墓に残された線刻の謎 描かれていた夏の天の川!?
埋葬者を巡って日本中が注目した、旧日吉神社跡付近での石棺墓の発見。第一線で活躍する研究者らが突き止めたのは、そこに「夏の天の川」が描かれているという衝撃の事実だった。
旧日吉神社境内地で発見された一基の箱式石棺墓!
佐賀県は2022年度から、それまで未調査であった旧日吉神社境内地の発掘調査を開始した。その過程で2023年春先には、この小丘陵の頂上付近から一基の箱式石棺墓が見つかった。蓋石は厚さ 15㎝を優に超える厚い石材だったので、庶民の墓だとは考えがたい。
さらに目を引いたのは、3枚の蓋石のうち南東隅と中央の2枚の上面には、細かな十文字が多数刻まれていることであった。これら2枚は元々1枚の石材で、刻線を刻んだのち、石棺のサイズに合わせて分割されていた(蓋石2と3)。
この発見に接し、考古天文学に関連するかもしれないとの予感を抱いた佐賀県文化財保護・活用室の細川金也さんから、私たち考古天文学会議に向けて検討依頼があった。というのも私たちは過去4年間にわたり、吉野ヶ里遺跡を対象に考古天文学の調査を行い研究会を開いてきたからだ。
今から約1800年前の夏の天の川が描かれていた!
蓋石の写真を天文学者や文化人類学者、古代史学者、考古学者に回覧したところ、国立天文台の専門研究職員である高田裕行さんから即座に返答があった。それが夏の天の川説だ。
要点は、まず十文字の大小は星の輝度の反映だと仮定し、大きな十文字は1等星以上、中型の十文字は2等星や3等星にあてること。次に全体構図は弥生時代の人々が素直に表現できた星空の情景であったと仮定すること。このような指針に沿って読み解けば、今から1800年ほど前の夏の天の川を描くものだとの復元案が導かれる、というものだ。
一見錯綜してみえる複雑な様相も現実の星空がモチーフ
意表をつく見解だったが、日頃から星空や天の川の観察に慣れ親しんでいる方だけあって、たちどころにどの配列はこの星座であろうとの具体的な絵解きが始まった。その結果が図1に示す対応関係図だ。
また十文字の刻みは、硬い石の刃を当て、それを前後に何度も往復させることによって溝をつくる磨り切り技法で刻まれていた。どの場所に十文字を刻むのかは、あらかじめ決まっていた可能性が高い。だとすれば一見錯綜しているかにみえる複雑な様相も、現実の星空がモチーフだとする具体的な構図のもとで読み解ける。
北東側のもう1枚の蓋石内面から見つかった刻線文とは何か?
しかし話はそれだけでは終わらなかった。北東側のもう1枚の蓋石(蓋石1)の内面からも類似した刻線文が見つかったのである。しかも3枚の石材は、元々1枚の大きな板石であり、全面に刻線文が施されたのち、裏側から3枚に打割されていた。石材はカンラン石玄武岩で、産出地は吉野ヶ里遺跡から南西に40㎞隔てた多良岳の麓であろうと推定された。3枚の板材を接合したものが図2である。
これらの新情報に接した私たちは、目下、次の2案を軸に検討を進めている。その1案は、蓋石2と3については高田説に従う一方、蓋石1は吉野ヶ里遺跡からみた地図を描くという一連の構図として読み解く案だ。
また第2案は、蓋石1は鏡像のように反転させた上空の星空を表すもので、木星や土星などの惑星も表現された、という案だ。年末までには正式な案にたどり着きたいと願っている。
緻密に計算された建造物の向きと“北限の月”
北内郭に見る古代の月信仰
北内郭の建物は太陽の動きではなく、より細やかな暦を把握できる月の動きに合致する。人々は月を崇め、稲作や祭りの時期の導としていたのかもしれない。
月の動きと遺跡の関係北内郭と北限の満月
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の全期間を通じて営まれた。前期中頃(紀元前500年頃)には小規模な環濠集落がつくられ、中期前半(紀元前300年頃)には、南北に並ぶ甕棺墓群や北墳丘墓が造営され、墳丘墓には数世代にわたる男性リーダーが葬られた。長さ24m、幅15mの長方形を呈するこの墳丘墓の長軸は南を向き、その延長線上には有明海を挟む64㎞先の雲仙普賢岳がそびえる。祭祀と火山信仰の融合があったのだろう。
そののち後期(紀元後1年~200年頃まで)には、遺跡全体を巡らす大規模な環濠が掘られ、環濠内の面積は40haにまで拡大し、全盛期を迎えた。遺跡の中心には物見櫓を配した広場としての南内郭が造成された。
さらに終末期の3世紀前半には北内郭が造成され、周溝の内部には望楼や大型建物が建築された。特殊な祭祀用の空間だ。
この北内郭の場所は、北墳丘墓の中央から雲仙普賢岳を結ぶラインつまり先の祖先祭祀と火山信仰の軸線上に配された。しかしアルファベットのAの文字を横倒しにした平面形を呈するこの郭の軸線は、東北東にそびえる屏を向き、先の軸線とは斜めに交差する。夏至の日の出がこの山頂からなので、こちらの軸線は夏至の朝日に向けられたと解釈されてきた。しかし正確に測ってみると、郭の軸線は屏山より約3度北に寄った鞍部を指す。
ではその鞍部とは何か。正解は「高い月」の冬至付近に訪れる満月の出現地点だったのである。
冬至付近の満月の出を遥拝する施設
地球から見た太陽と月の運行軌道は斜めに交差し約19年の周期で元の位置に戻る。そのため太陽の軌道よりも月の軌道が高くなる「高い月」とその逆である「低い月」とが約9年ごとに繰り返される。「高い月」の期間には、日の出の北限である夏至の日の出より冬至付近に訪れる満月の出の方が北寄りから昇り、夏至の太陽より高い上空で輝く。さらに日の出の南限である冬至の日の出より夏至近辺の満月は南寄りから昇り、冬至の太陽よりも低いところを廻る。北内郭の軸線はこの現象を捉え、夏の太陽よりも高くなる冬至付近の満月の出を遥拝する施設だったのだ。
また同時代の中国の暦法の基本計算を参照しつつ厳密な計算をおこなうと、複数の建物の軸線上からの日の出や日の入りは、平気法の二十四節気の春秋の組み合わせと一致することがわかる。さらに太陽の運行と月の満ち欠けが対応する現象は19年周期で訪れるが、北内郭の軸線と12月の満月の出が一致する215年と235年は、前年の冬至の翌晩が満月で、次の大寒も満月、その次の雨水も満月だという、二十四節気と満月の到来が綺麗に重なる年でもあった。
だから北内郭は、いくつかの建物に観察棟を割り当てる格好で、二十四節気と三朔望月の区切りが重なる年末年始の、3回にわたる満月の出を正面から観察する施設であったといえる。このことから北内郭は、節目となる暦の起点を入念に確認する暦計としての意味も備わっていた可能性が高い。
しかしながら北内槨は、そののち長期にわたって使われたわけではなかった。3世紀の中頃までには廃絶してしまう。吉野ヶ里遺跡全体も消滅し、その跡地には初期の前方後方墳が4基見つかったにとどまる。ちょうど「魏志倭人伝」にある倭国王卑弥呼が死を迎えた時期と重なるのだが、多くの謎は依然として残されている。
弥生の人々は空を見て儀式や農耕を行っていた!?
天体の動きに基づく儀式と暦
吉野ヶ里の人々にとって、暦は祭祀や農業を行う上で重要だった。そして、南内郭の建造物の多くが中国の暦の計算方法を基準に建てられている。
吉野ヶ里の暦と行事の舞台であった南内郭
弥生時代後期に造成された南内郭は南北136m、東西80mの広場をもち、外周に建物を配置した施設だ。広場の面積は1万㎡に及ぶ。
南内郭の北側に配置された物見櫓状の建物の軸線は、日の出側で立夏と立秋に一致し、日の入り側で立春と立冬に一致する。南東部にある復元物見櫓は日の出側で雨水と霜降に一致し、日の入り側で穀雨と処暑に近似する。つまり北内郭の造成に先立って、既に太陽の運行を見据えた平気法による二十四節気の観測がこの遺跡で行われていたのだ。
なかでも南内郭の東側入口近くに配された物見櫓の正面観が2月21 日(ユリウス暦表記、以下同)の雨水と10月22日の霜降の日の出地点に向く点は注目される。平原農事暦を示す軸線だからである。
平原農事暦とは福岡県糸島市にある平原1号墓の軸線から導かれた暦日で、それが雨水と霜降の両日であった。前者は伊勢神宮で開催される春の予 祝祭としての祈年ね祭の催行期に該当し、後者は秋の収穫祭としての神嘗祭の催行期にあたる。稲作の祭事のなかでもとりわけ重要な春秋一対の祭礼日なのだ。
だからこの南内郭もまた、稲の豊作を祈り収穫を感謝する祭りの舞台であったといえる。他の物見櫓の軸線からも立春や立冬、立夏や立秋など四立を含む二十四節気との対応関係が導かれたから、年間の歳時に関わる各種の行事もこの広場を舞台としたのであろう。この遺跡や近隣の集落の住民がこの広場に参集し、盛大な年中行事と祭礼が繰り広げられた情景が再現できる。
夏至と冬至で仕分けられる生者の空間と死者の空間
先に紹介した蓋石に線刻を施す石棺墓は西側の丘陵上に配された。石棺墓の周囲には甕棺墓群が広がるので、西側の丘陵一帯は中期以降、一貫して墓域であった。一方、谷を挟んだ東側の丘陵上にも中期には北墳丘墓や甕棺墓群が営まれたので、こちらも墓域だった。しかし後期には南内郭が、終末期には北内郭が設けられたので、東側の丘陵は後期以降、祭礼の場へと変容したことがわかる。いわば東は生者の空間、西は死者の空間として仕分けられた格好だ。
この点と関連するのが石棺墓の軸線である。死者の足下側にあたる南南東の軸線は冬至の日の出より南に寄り、「高い月」の期間における夏至近辺の満月の出の方位と一致する。つまり、南限の満月の向きを指すのである。北内郭の軸線は北限の満月の出に向いていたから、両者は対称的な関係だといえる。
英国のストーンヘンジも死者を祀る空間であり、その軸線は夏至の日の出を指していた。一方のダーリントン・ウォールズは冬季に人々が参集して大宴会を開く場とされ、その軸線は冬至の日の出を指している。吉野ヶ里遺跡とは反転する方位観だが、夏至と冬至を指標に死者の空間と生者の空間とを仕分ける発想は、人類に共通する心性なのかもしれない。
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