【発売前全文公開】 『日本書紀』編纂者の邸宅が平城京跡で発見された!?(歴史研究の最前線)
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今回の歴史研究の最前線ニュースは「『日本書紀』編纂者の居住地の謎」。
2023年、奈良県の中心部で大型掘立柱建物跡が発見されました。
当時の権力者・長屋王の邸宅もある平城京跡で、どうやら有力貴族の邸宅である可能性が高そうです。
発掘調査を通して、『日本書紀』の編纂者・舎人親王邸説について迫ります!
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監修・文/近江俊秀
『日本書紀』編纂者の居住地の謎
2023年、奈良県の中心部で大型掘立柱建物跡が発見された。ここは平城京の頃に宮中からほど近いエリアであり、有力貴族の邸宅である可能性が非常に高い。なかでも候補の筆頭に挙げられるのが、『日本書紀』を編纂した舎人親王だ。ここでは舎人親王邸説の提唱者が、これまでの発掘調査に基づいてその根拠を示していく。
邸宅の主の候補筆頭は『日本書紀』編纂者だった!? 「舎人親王」とは何者か?
平城宮にほどちかい“一等地”に居を構えたのは、位の高い有力貴族たち。では、その1人である可能性が高い舎人親王とはどのような人物だったのだろう。
『日本書紀』を編纂した舎人親王とはどのような人物か?
『続日本紀(しょくにぽんぎ) 』養老4年(720)5月21日条に、次のような記載がある。
『日本紀』とは『日本書紀』のことで、その完成を伝える記事である。ここに見える舎人親王とは、『続日本紀』天平7年(735)11月14日条によると、天武天皇の第3皇子で、日本書紀完成と同年、右大臣藤原不比等(ふひと)の薨去(こうきょ)に伴い太政官の首班にあたる知太政官司(ちだいじょうかんじ)に就任。弟で知五衛及授刀舎人事(ちごえおよびじゅとうとねりのこと)の新田部(にいたべ)親王と甥で右大臣(後の左大臣)の長屋王(ながやおう)とともに、皇親政治を主導した人物である。
神亀元年(724)の聖武天皇即位後は、次第に藤原氏に接近し、長屋王事件では新田部親王とともに長屋王を糾弾するなど、藤原四子政権の樹立に協力する。しかし、天平7年、天然痘が流行する中、新田部親王の薨去のわずか1ヶ月半後に薨去した。なお、舎人親王の子、大炊王(おおいおう)は藤原仲麻呂に擁立されて即位し、淳仁天皇となった。これにより舎人親王も、「崇道尽敬(すどうじんけい)皇帝」の追号を受けることになった。
国家プロジェクト『日本書紀』の総責任者・舎人親王
『日本書紀』の編纂には、学者として著名な紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)をはじめとする数多くの役人らが携わり、国内外の膨大な史料を参照しつつ作業が進められたと考えられている。まさに、国家プロジェクトとして遂行されたものであって、舎人親王はその総責任者であった。
2023年4月、平城京左京三条三坊四坪で奈良時代の4棟の大型掘立柱(ほったてばしら)建物が見つかった。実は、この場所は筆者が2008年に舎人親王の邸宅跡である可能性を示した場所で、今回の発掘調査成果がそのことを裏付けるのではないかと、新聞等で紹介された。
では、なぜ、この場所が舎人親王邸と考えられるのか。そのことについて、次に2008年に示した根拠を紹介していこう。
身分・位によって住む場所や広さが決められていた!? 平城京の宅地事情とは?
平城京は碁盤の目状に広がり、整然とした都市づくりが行われていた。
藤原京をモデルにしたとされる宅地事情から、舎人親王邸説を考える。
藤原京の制度にならう平城京の宅地計画
官位に応じて分け与えられた宅地
「碁盤の目」とも言われるように、平城京の町は東西、南北の道路によって方形に区画されている。その区画の単位が一辺約133m四角の「町(ちょう)」である。
平城京に遷都した時、政府は町を基準として役人らに宅地を与えた。『日本書紀』持統5年(691)12月条によると藤原京では、右大臣四町、直広弐(じきこうに) (律令制における従四位下 )以上には二町、大参(だいさん)(正五位上)以下には一町といった具合に、官位の違いに応じて宅地が与えられたことが知られる。
平城京では残念ながら基準は残されていないが、『続日本紀』天平6年(734)9月13日条には難波京における宅地班給の記事があり、官位に応じて宅地が分け与えられているので、平城京も同様だったと考えられている。平城遷都当時の役人の位階別の人数や平城宮の宅地の数なども勘案し、三位(さんみ) 以上は四町、四位以上は二町、五位以上は一町、六位は二分の一町という基準が推定されている。
問題の左京三条三坊の地は、2008年以前に行われた発掘調査で、宅地を133m四角に分割する道路(小路)が遷都当初に造られていなかった可能性が指摘されていた。そして、2023年の調査では、三坪から六坪の4つの坪を分ける小路の想定ライン上で、大型掘立柱建物が見つかったので、平城遷都時に、四町の宅地として班給されていたことが分かったのである。つまり、左京三条三坊三・四・五・六坪には、三位以上の貴族が住んでいた可能性が浮上したのである。なお、四町利用の施設には官衙(かんが) (役所)や寺院もあるが、三坪から六坪は奈良時代の途中で小路が造られ分割されることから、官衙や寺院のような継続性のある施設ではないと考えた。
ちなみに遷都当初に三位以上の地位にあったのは、女性を除くと12名。居所が判明しているのは、長屋王(左京三条二坊)、新田部親王(右京五条二坊)、藤原不比等(左京一条二坊)である。
奈良時代の瓦が大量に出土
建築当時の年代を推察する
日本で初めて瓦葺きの宮殿が採用された藤原宮でも、天皇の住まいである内裏は檜皮葺(ひわだぶ)きであり、その後もそれは変わらなかった。貴族の邸宅も同様で、長屋王邸、藤原不比等邸、新田部親王邸などでも、瓦の出土量から瓦葺き建物の数は数棟程度に留まると思われる。
しかし、左京三条三坊では四つ坪それぞれから多量の瓦や塼(せ ん)(レンガ)が出土しており、中心的な建物だけでなく複数の瓦葺き建物が存在していたことが分かった。これらの瓦は平城宮の北方に置かれた、国営の瓦窯である平城山瓦窯(ならやまがよう)群のひとつ瀬後谷(せごたに)瓦窯の製品で、八世紀前半に焼かれたものである。
平城京内から瓦がまとまって出土する例は限られている。そのほとんどは寺院か官衙であり、宅地からはあまり出土しない。このことは、瓦葺きの建物は宅地ではあまり採用されなかったことを示している。しかし、史料によると奈良時代の中で一度だけ瓦葺きの住宅の普及を図る政策が行われたことが知られる。それが『続日本紀』神亀元年(724)11月8日条に見える太政官符である。
「五位已 上(いじょう)と庶人の営みに堪ふる者とをして、瓦舎(かはらや) を構へ立て、塗りて赤白と為さしめむことを」という命令がそれである。
この命令はどうやらあまり実効性なく、政策としても長続きしなかったようで、これ以後、同種の命令も出されていない。そうした中、左京三条三坊から出土した瓦の時期は、概ねこの命令が出された頃と一致する。このことから、この宅地の主はこの命令を忠実に守った数少ない1人だったと言える。
そして、この命令を出した時の太政官首班である舎人親王こそが、この邸地の有力な候補者になると考えられる。加えて、この命令が出された時、遷都時に四町宅地を与えられた人物の中で、存命中していたのは長屋王、新田部親王と舎人親王だけ。前2者は居所がすでに判明しており、その点からも舎人親王が最も有力な候補となる。
同時代を生きた長屋王邸の事例からみる、舎人親王邸説を裏付ける出土物
これまでの「平城京左京三条三坊四坪」における発掘調査で出土した遺物は、舎人親王邸説を後押しする結果を示す。今後確定させるために必要な出土物とは何だろうか。
1986年以降、平城宮跡の南東から大量の木簡が出土した。このなかから長屋王家を支える家政機関に集まったものとされ、ここが長屋王邸であると断定する重要な証拠となった。
藤原仲麻呂関係の木簡など出土
舎人親王一族の動向と一致する宅地の推移
先述したように、舎人親王の子である淳仁天皇は藤原仲麻呂によって擁立され即位しただけでなく、一時は仲麻呂の私邸である田村第(たむらだい)に住んでいた。この田村第があった場所が、左京三条三坊から佐保川と三条大路を挟んで対角の位置にある左京四条二坊に比定されている。
この田村第とのつながりを示す木簡が左京三条三坊付近から出土している。その木簡とは「藤原家」「左京四条二坊」「田村」と書かれたものである。まさに、藤原仲麻呂との関係を暗示するものと言えよう。
また、左京三条三坊の宅地は、奈良時代後半に解体され、四つの坪を分割する小路が造られるが、これは、宅地の主がこの地を追われ、別の者がそれぞれの坪に住むことになったことを示していると考えられる。
舎人親王は7男2女に恵まれたが、そのほとんどが天平宝字8年(764)9月の藤原仲麻呂の乱に連座して失脚する。この乱で唯一、孝謙(こうけ ん)上皇方に味方した舎人親王の孫、和気王(わけおう)も皇位簒奪(さんだつ)をもくろんだ罪で伊豆配流とされ、その道中で絞殺されてしまう。これによって舎人親王の後裔(こうえい)は途絶え、邸宅も主を失った。このように、舎人親王薨去後の一族の動向も、この宅地の推移とよく合致している。
新田部親王邸と太安万侶邸は
舎人親王邸の位置を示すヒント
舎人親王の邸宅が私の推定どおり左京三条三坊だとすれば、新田部親王邸とよく似た立地条件にあることを指摘できる。
新田部親王邸は現在唐招提寺(とうしょうだいじ)がある、右京五条二坊。天平宝字3年に、親王の旧宅が鑑真(がんじん)に与えられたという記録がある。その場所は平城宮からはやや距離を置いており、左京三条三坊とほぼ等しい。
また、新田部親王邸は宅地の東に接して、平城京の右京を南北に流れる西堀河( 秋篠川)が、左京三条三坊は宅地の西側を佐保川、東側には左京を南北に流れる東堀河が流れている。これらの川は物資の輸送にも使われたと考えられていることから、ともに水運に恵まれた宅地であると言えよう。
さらに、奈良時代前半に皇親政治を主導した長屋王邸を加えると、藤原不比等とともに実質的に政治を主導した長屋王は平城宮の南の一等地に四町宅地を、皇室の年長者として文武の両面で即位前の聖武天皇を輔弼(ほひつ)した舎人親王と新田部親王は、左京と右京のそれぞれ水運に恵まれた地に四町宅地を与えられていたことになる。まさに、奈良時代前半の政治形態が宅地の配置にも現れているように思える。
古事記の編纂者・太安万侶と日本書紀編纂の総責任者
2人の邸宅は近接していた
もうひとつ興味深いのは、古事記の編纂者である太安万侶邸が、その墓誌から左京四条四坊にあったことが知られることである。この地は、左京三条三坊と三条大路と東三坊大路を挟んで対角の位置にあたる。古事記の編纂者と日本書紀編纂の総責任者の邸宅が近接しているのは、日本書紀編纂事業とも関係するのかもしれない。
筆者が左京三条三坊、舎人親王邸宅説を公表した2008年から、この付近での発掘調査が蓄積され、次第に宅地の実態が分かってきた。2023年の発掘で4つの坪の中心から大型掘立柱建物が見つかったことにより、平城京遷都時に四町宅地として班給されたこと、また建物の規模と構造から、高位の貴族が住んでいたことについては確定したとみてよいだろう。より具体的に言えば、遷都時に三位以上の地位にあった誰かの邸宅であることは確実だろう。
ただ、現在言えるのはここまで、まだ舎人親王邸であることが確定したとまでは言えず、有力な候補者のひとりであるに留まる。それが確定するには、長屋王邸のように居住者を示す木簡が出土したり、また、親王の食封(じきふ)が置かれた相模国足上(あしかみ)郡や足下(あししも)郡からの付札(つけふだ)木簡がまとまって出土するなど、さらなる証拠が必要となる。 今回紹介したように、平城京の宅地班給は、来たるべき聖武天皇時代を支えるという政治ビジョンが反映されているようにも思われる。宅地の居住者の追究から、新たな歴史が見えてくるかもしれない。
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