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毛利元就〜転機〜

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。前回に引き続き、毛利元就を書いていきます。よろしくお願いします。

元就は、小早川家と吉川家に自分の子供(三男隆景と次男元春)を送り込み、乗っ取りに成功しました。これは、のちに毛利両川体制と呼ばれるものになります。こうして、安芸国での地盤を確立してまきます。また、この間に長男の隆元に家督を譲りました。しかし、元就が完全に隠居したわけではなく、実権は彼が握っていたようです。元就が一つ上の立場から三家を指導するためであったとも考えられているようです。

井上一族の討滅

1550年、元就54歳の時に長年の課題であった井上一族を誅殺します。このことの根は深く、幼少期に遡ります。父が亡くなった際に彼が暮らしていた多治比猿掛城を乗ったのが井上一族でした。毛利家内の支配力を強化するため、井上一族を討滅することを元就は決意します。

まず、一族の井上元有を三男の隆景に殺害させ、その後、元就が井上就兼を暗殺しました。その勢いで一族の中心である井上元兼とその子就澄を襲撃しました。この時の粛清により殺された井上一族は30人以上であったと言われています。

元就は、井上一族の罪状と粛清した理由を箇条書きにして発表し、家臣団からこの粛清に異論がないことを記した誓詞を提出させています。毛利家内の有力者を元就が討伐したことへの正当性を家臣団に認めさせることにより、これまでの連合体に近かったものから、元就が一つ上に立つことを家臣達に認めさせました。こうして、支配権力を強固なものにしていくのでした。

大寧寺の変

1551年 元就が従属していた大内家で大事件が起こります。大内義隆が重臣の陶隆房の謀反によって殺害されたのでした。この事件が後の厳島の戦いに繋がっていきます。

月山富田城の敗北後、義隆は、挫折してしまったのか、それとも政策転換を図ったのか、文化を重んじる政策へと転換します。このことは、家臣団を分裂させることになります。陶隆房を筆頭とする武断派と相良武任らの文治派の対立です。当時の山口は、小京都とも呼ばれ、応仁の乱から逃れた公家も多く移り住み、文化の都となっていきました。

しかし、大内家の周囲には毛利元就や尼子晴久など有力大名が存在し、気を緩めることができる状況ではありません。陶隆房は、遂に決心しました。それは、主君の義隆を討ち、新たな当主を迎え、大内家を改革することです。豊後国(現在の大分県)を中心に大きな勢力を持った大友宗麟に晴英という弟がいました。彼の母は義隆の姉であったため、義隆の甥にあたります。陶隆房は、晴英を当主にし、改革を実行するために謀反を起こし、山口に進撃します。油断していた義隆は、山口を追われ、大寧寺にて自害しました。そして、この陶隆房の謀反が元就の大きな転機となるのでした。

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」, 株式会社新紀元社, 2010年9月
本郷 和人, 「戦国武将の解剖図鑑」, 株式会社エクスナレッジ, 2015年11月
童門 冬二,「毛利元就ー鬼神をも欺く知謀を持った中国の覇者」,株式会社PHP研究所,2009年3月

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