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大坂冬の陣

 JR玉造駅を降りて西へぶらぶら歩くこと10分ほど。、「真田山」という場所に行き着いた。道路脇の看板には、かわいい真田信繁(幸村)公のイラストが。ゆかり深い地域で、やはり愛されていることを知り、うれしくなった。

信繁公とこんな所でばったり

 敷地に上っていくと、おびただしい墓石が一面を覆っていた。広大な敷地に明治初期から太平洋戦争までの5000を超える陸軍戦没者の墓碑が並ぶ。日本で最初の最大の陸軍墓地とか。現在の平和があることに改めて感謝させてもらえる場所だ。

案内版の正面に多数の墓碑が並んでいた


 墓地を抜けて、西側の坂道を上ると、左手に「心眼寺」があった。門の脇に「真田丸出城跡」の案内板。「別名は偃月城」との説明があり、「へえー」。地図によると、寺の位置は真田丸の東端にあたるようだ。境内に入って左には「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」の説明版も。「寺では徳川時代より信繁の菩提を弔っている」と記されていた。

心眼寺の門脇にあった案内板。真田丸の別名は「偃月城」
案内板には「豊臣信繁之墓」とある


 心眼寺から道を挟んで斜め向かいを見ると、「真田丸顕彰碑」の大きな石碑。背後には明星中学・高校のグラウンドが広がっていた。1614(慶長19)年12月。真田信繁が大阪城の南側に築いた出丸「真田丸」跡。410年前、ここに攻めかかった前田、井伊、松平勢に多大な犠牲を強いた戦場の名残は、ほとんどうかがえなかった。
 紀州九度山での「臥薪嘗胆」「虎視眈々」の日々を経て、真田信繁が最も輝いた晴れ舞台。5か月後には、ここからほんの2.5キロほど南西の場所で生涯を終えたとされる。
 訪れたのは3月上旬。おそらく当時は寒中の激戦であったはず。新暦で1月3日にあたる日に、もう一度訪ねてみたい。

「大坂冬の陣」最大の激戦地、真田丸の顕彰碑すぐ後ろでは部活動生の声が響いていた

 歴史上の人物の足跡をてくてくと歩く「歴てく」の旅。その旅は、彼らの一生から生きていく知恵、ヒントをもらえる時間でもあります。


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