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苦手な先輩

勤めている会社が、ある問題で国から行政処分を受けた。会社は再発防止策の一つとして社員許育の徹底を掲げた。その一環として、会社は関係法令資料の読み合わせ会に参加するよう全従業員に指示した。会は十人前後の固定グループごとに週一回のペースで開催され、約半年にわたって続けられた。
私のグループにはある先輩がいた。仕事で直接関わる機会はなかったが、ふざけてばかりで私の最も苦手とするタイプの人間と認識していた。先輩は会のリード役だったが、メンバーの初顔合わせの際もやっぱりおふざけばかりで、先が思いやられると思った。
しかし会が始まると、先輩は、自分は難解な用語が頻出する資料を一切詰まらず淀みなく読むわりに、他のメンバーが詰まったり読めない用語があっても恥をかかせないようフォローが絶妙で、会の切り回しもうまかった。
先輩の頑張りもあり、私たちのグループは半年後の理解度確認試験を全員一回でパスした。私は少し先輩を見直した。

それからしばらくして会社の周年行事があり、ホテルで立食パーティーが開かれた。先輩はいつもの調子で、あちこち渡り歩きながら、ガハハ、ガハハと笑って場を盛り上げていた。私はそんな先輩を、またやってるなくらいに思って見ていた。
しばらくすると、先輩は何を思ったのか、一人でワインを飲んでいる私に近づいてきた。私は自然な感じを装って背を向けた。すると先輩は回り込んで来て、私の前に立った。先程までとは、打って変わって真面目な顔だった。嫌な予感がして、身構えた。

「もしかして、………」
周囲の喧騒がひどく、私はよく聞き取れず小首をかしげた。
先輩は一歩前に出て、私に顔を近づけた。
私は後退りした。
また一歩出た。
また後退りした。
すると先輩は右手を胸の辺りまで上げ、四本の指で小さく手招きをした。
酔ってるのかなと思った。しかたなく、半歩だけ前へ出た。
先輩が少しだけ顔を近づけた。
「読書は好き?」
「ああ、はい…」躊躇しなが答えた。
「やっぱりそうだよね」
「はあ…」
「読み合わせ会、一緒だったでしょ?」
「はい」
「あんな難しい資料、すらすら読んでたから」
「あ、はい…」
「絶対、読書家だと思った」
「そうですか…」
「うん。だから、一度、ゆっくり話してみたいと思ってた」
「そうですか…」
「でも会社だと、なかなか機会が無くて」
「そうですか…」
「今日こそはって思ってたのに、あちこち呼ばれてさあ」
「はい…」
「読書好きとかって言うと引かれたりするでしょ」
「そうですね…」
「いつもどういうの読んでるの?」
「えっと…」
「好きな作家はいるの?」
「えっと…」
「あ、いい、いい、無理に言わなくても」
「はい…」
「〇〇の小説は読んだことある?」先輩は芥川賞作家の名前を出した。
「いいえ」
「そうか…、読んでみて欲しいな」
「はい…」
「読んでみてよ。今度お試しに一冊持ってくるから」
「あ、はい…」
「よし、約束ね!」
先輩は一方的に会話を打ち切ると、にこっと笑い、腰のあたりで右手を握り拳にしてから親指を立て、OKサインなのかガッツポーズなのかよくわからない仕草をした後、立ち去った。
私は困惑して先輩の背中を見つめた。

翌日、私が自席で一人、お弁当を食べていると、また先輩が真面目な顔をしてやって来た。
「昨日の約束」
先輩はそう言って、文庫本の上巻一冊を私のデスクに置いた。件の芥川賞作家の代表作とも言える作品で、芥川賞受賞作よりもそちらの方で一般には知られていた。しかしその作品は、私の嫌う分野を題材としたもので、手に取ろうとさえ思ったことがなかった。
「もし合わなかったら無理して読まなくていいから」
私の心情を察したようにそれだけ言うと、先輩は行ってしまった。

私は家に帰ると、早速ページを開いた。ネットに溢れる読者レビューとは異なり、登場人物たちの心の移ろいを丁寧に描いた作品だった。読み終えてからも余韻が残った。好きだと思った。その作家の作品をもっと読みたいと思った。

「ありがとうございました」翌日、私は先輩に本を返した。
「うん。で…、どうだった…?」先輩は逡巡しつつ尋ねた。
「良かったです」
「ほんと…に?」上目遣いの目。
「はい」
「下巻も…読む?」探るような言葉。
「もう電子書籍で読みました」
「え、そんなに面白かった?」
「はい、他の作品も読みたいと思いました」
「うわあ、共感してくれる人がいるって嬉しい」
「そうですね…」
「他のも持ってるけど、読んでみる?」
「いいえ、自分で買いたいので」
「そうだよね…」
「ああいう小説、お好きなんですね」
「うん。全然、そういうタイプじゃないよね」
「はい、意外でした」
「だよね」
「はい」
「直球だね」
「すみません…」
「ううん、気にしないで。そういうところが好き」
「え?」
「あ、ごめん、ごめん、今のは無し。他意はないから…」
「あ、はい」
「よかったら、お勧め教えてよ」先輩は取り繕うように慌てて言った。
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会社では相変わらず先輩はおちゃらけてばかりだけれど、家では静かに読書を楽しむ仲になった。

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