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エッセイ集

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身近に起きたこと出来事をエッセーにしています。
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記事一覧

世界の空港事情

帰りの便は、もう2時間も遅れていた。 セキュリティー・チェックのため。 いつもの理由で、いつものように詳しい説明は一切ない。 空港に到着した時もそうだ。 突然、「こっちへ来い」と呼び止められ、荷物チェックをされた。 他国でよくある賄賂の要求などではなく、本当に隅から隅まで調べられる。 入国した時もそうだった。 深夜に到着し、ロストバゲッジ(荷物の行方不明)していた。 疲れ切った100人近くの人々が行列を作り、それを係員に申告をしていた。 みんな慣れたもので、

新幹線の陽気な外国人

ゴールデンウィークに新幹線に乗った。 のぞみの15号車最後部、三人掛けの中央席に外国人男性が座っていた。 「Your seat?/君の席か?」訛った英語で尋ねられた。 頷くと、彼は一番奥の窓側の席に移った。 後から来た前の席の日本人女性がスーツケースを棚に上げようとした。 彼はすかさず立ち上がって補助をした。 口髭を生やし、ちょい悪オヤジ風だった。 背中のリュックを棚に上げ、前座席の背のフックにワインの入った縦長の紙袋を掛けた。 ぶら下がったその紙袋が彼の膝に

春休み (ショート編)

小学4年生の春休み、爺ちゃんの遺骨を先祖代々の墓に納めるため家族で田舎の島に帰った。ぼくたち家族、爺ちゃんと両親、兄、妹そしてぼくは、ぼくが二歳の時に島を出て、それ以来の全員そろっての帰省だった。島では、親戚の家に泊まることになった。その家には、もともとぼくたちが住んでいた。ぼくたちが島を離れる前に、爺ちゃんと両親が相談してその親戚に売った家だった。 その家には5年生、3年生、幼稚園児の三姉妹がいた。長女は長い黒髪で色白のクールビューティーなお姉さん、次女はショートカットで

卵豆腐のあじ

子供の頃、ぼくは食べ物の好き嫌いが多かった。母の田舎料理も食べられないものが多かった。きのこ類、トマト、鶏肉(ササミ、胸肉)、レバー… 数え上げたらきりがない。 小学生の頃は給食の時間が怖かった。給食にまつわる嫌な思い出はたくさんある。 一年生の時、放課後、六年生が教室を掃除してくれる中、トマトが食べられなくて一人、居残りさせられた。 二年生の時、チキンクリームスープを無理に食べて戻してしまい、その吐瀉物にいじめっ子が唾を吐きかけ、それを見ていた担任の先生がもの凄く怒ってそ

女の子と赤ペン

4年生の春休み、ぼくは故郷の島で恋をした。それがたとえ両思いだったとしても、しょせん叶わぬ恋だった。なぜなら、ぼくの住む家と、その女の子の住む島は千キロ以上も離れ、今でもフェリーで半日、飛行機で3時間もかかり、大人でさえ簡単に行き来できる距離ではなかったからだ。まだインターネットもない時代だった。結局、ぼくは失恋したのだった。 少し長めの春休みを終えたぼくは、一週間遅れで五年生としての新学年をスタートした。新担任は岩井先生だった。丸い眼鏡をかけ、少し出っ歯でよくしゃべる、い

スカーフ

大学三年の夏と冬、僕は百貨店で中元・歳暮バイトをした。中元・歳暮バイトと言っても、売り子でも配送員でもない。「お問い合わせセンター」での電話対応、今で言うコールセンター業務だった。お問い合わせセンターは、百貨店の巨大な配送センターの建屋内の一室に、中元と歳暮の時期だけ臨時に設置される部署だった。 当時はまだ、百貨店が配送センターを丸抱えしていた時代だった。顧客からの商品配送に関する問い合わせを受けるのが僕らの仕事だった。問い合わせとは名ばかり、実情は苦情処理だった。まだ携帯

冒険家になった友達

ぼくらの学校では、5年生から6年生へ進級する時、通常、クラス替えも担任の交代もなかった。 でも、6年生に進級したぼくらのクラスだけ担任が代わった。 5年生の時の担任は明るく楽しい女の先生だったので、みんな残念がった。 そして新しい担任は、怖いことで有名な男の先生だった。 ぼくらのクラスは今で言う学級崩壊の状態にあったのだと思う。 クラスを立て直すためにその先生がやってきた、とぼくは思った。 でも実際には、ぼくらと全力でぶつかり、ぼくらを全力で守ってくれた本当にいい先生だった。