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読書ノート:「アフター・メルケル~「最強」のつぎにあるもの」(唐鎌大輔氏著、日本経済新聞社)

 今回は、noteやTVの経済ニュースでもおなじみの唐鎌大輔さんによる「アフター・メルケル」(日本経済新聞社2021年12月出版)を読んでみました。唐鎌さんの長期的視点からの世界経済の解説を楽しく拝見しているのですが、以前欧州委員会に出向していらしたことは知りませんでした。私も5,6年前までは仕事で毎夏2、3週間をヨーロッパで過ごしていましたが、とくに南欧の友人たちはEU参加後の経済状況について不安や不満を口にしていたのを思い出します。その後、彼らの不安はヨーロッパ債務危機で的中してしまったのですが、EUはドイツのおかげで経済的復興を成し遂げつつあるように見えます。そのユーロ圏中心国で長期政権を担い、少なくともドイツ経済の健全性を維持してきたメルケル氏が退任されたのを機に、本書をじっくり読んでみようと考えました。

「アフター・メルケル」の構成と概要

 本書の概要は以下の通りです。第1章は「現在~メルケル時代の総括」では、2002年のユーロ流通後ドイツが、「欧州の病人」から(自らの経済力に比して)安すぎるユーロを利用して、EU圏経済的一強へと発展していく様子と、他方自らの政策・思想信条を圏内他国に強要して、しだいに孤立する状況が描かれています。ドイツ発展の中であたかもユーロ圏は(経済的)監獄となり、自らは看守のように振舞い、とくに南欧諸国との南北の亀裂を生んだこと。政治的には、無制限の難民受け入れをEU内で強弁するあまり、東欧諸国と東西の亀裂を生じさせたこと。また独仏の専横的態度に反発する新ハンザ同盟(オランダ、北欧、バルト各国からなる)など小国との間にも大小の亀裂を生じたこと。どの面でもドイツの独善的な姿勢がEU(ECBでも)の中で孤立化を招くことになってしまいました。

 第2章では「現在~ドイツ一強がもたらす歪」と題して、EU加盟国内で生まれている経済の歪と政治の歪をGDP、物価、失業率など多くのデータを示しながら検証します。前半は、ドイツにとっては構造的なユーロ安(半永久的な過剰金融緩和状態)を背景に、ドイツが域内他国と経済格差が開いていく理由を解き明かします。また、一強ドイツがECBの多数決システムのせいでユーロ圏経済を思うように支配できず、いっぽう他国への富の分配に消極的な姿勢から、加盟国と対立を深めていく事情が述べられています。後半は、メルケル自身が2015年にもたらした無制限難民受け入れ政策が、特に東欧諸国との間に深い亀裂を生み、東欧などで反移民の排他的・権威主義的政権を誕生させた背景を述べています。難民問題はついに経済絶好調時のメルケルの政治生命を絶ち、トルコに強力な外交カードを与えることになりました。一方、ドイツ国内でも家計における格差および格差意識が広まっていることを、データをもとに示しています。ヨーロッパ全土に及ぶ急激な難民増加と国内外で深刻化する格差は、多くの国で難民排斥や過激な言動を売り物にする政党の台頭により不穏なユーロ情勢を作り出しました。特に重要なのはシュレーダー時代からロシアのエネルギーを欲するあまりの経済的な連携強化で、アメリカや欧州他国と軋轢をもたらしたことです。メルケル自身の経済重視の熱心な対中外交は、人権に関するドイツのダブルスタンダードを感じさせ、のちにドイツの信認を傷つける結果となります。

 第3章はドイツの経済的な現代史を振り返ります。1990年代日本と同じくドイツも不況に苦しんだ歴史的背景を振り返りつつ、「欧州の病人」と呼ばれた存在が、2000年代前半に左派SPDのシュレーダー政権による労働制度改革(ハルツ改革)で単位労働コストを下げて競争力を高め、女性や高齢者の労働市場参加を誘導し、さらに欧州債務危機による債権者としての地位を得たことなどが相まって、現在の経常収支黒字国へと躍進を遂げたことをシュレーダー、メルケルの活躍を中心に生き生きと描いています。

 第4章は「アフター・メルケル時代のドイツはどこへ」と題して、メルケル政治の果実と負債を検証します。ユーロ安と構造的な金融緩和を利用して経済大国となったドイツは、圏内他国への経済的分配を怠り、緊縮財政と移民の大量受け入れを強要し、ノルドストリームの敷設・中国への外交強化を利己的に推し進めたなどの要因が、圏内各国や同盟国から信頼を得られなくしてしまいました。ようやくドイツ自身も「改心」しつつあり、金融的にも世界の安全資産としてのユーロ共通債の可能性を検討しているとのことですが、実現にはまだ時間がかかりそうです。

 最終章は補論「日本はドイツから何を学ぶべきなのか」として、日独経済状況における6つの違いを指摘し、特に日本の「終身雇用・年功序列」に象徴される硬直した労働市場が、シュレーダー改革(デュアル・システムによる実学の教育、非正規職種の拡大、ミニ・ジョブの導入など)から学び、生産性を向上させるよう示唆し、中小・地方経済の活性化、そして財政健全化の可能性と困難さを議論しています。もちろん、シュレーダー改革もお決まりの国民の経済格差を生んだわけですし、永遠の格安通貨ユーロを利用できない日本に簡単にドイツを模倣して財政健全化できないことも指摘されています。ただドイツの健全財政に関する硬直した、非妥協的な態度に問題ありとしつつも、日本の財政健全化目標を忘れ、現状に慣れきってしまっていることこそ問題であるとし、政治主導の経済改革の必要性を主張しています。

シュレーダーのロシア癒着とメルケルの誤謬?

 本書について著者に責のないことで2点、惜しまれることがあります。本書の脱稿は2021年11月のようで、その時点で、ロシア-ウクライナ戦争は起こっていませんでした。その後、私たちが翌年目撃している通り、この戦争は、欧米とロシアの対立から米中間の確執激化まで、世界のすべての様相を塗り替えようとしています。ドイツは、本書でも詳しく扱われているように、ノルドストリームによるロシアのガス供給に執着し、ウクライナ支援に大きく後れを取った結果、民主主義諸国からの信頼を大きく損ねてしまいました。本書でも、メルケル自身の中国経済依存の危うさが指摘されていますが、「話せば(経済交流すれば)わかってくれる」との安易な倫理観、というよりむしろ、「主義主張よりもまず経済(カネ)」という姿勢が、戦争勃発後ドイツ内にとどまらず、ウクライナを含む全ヨーロッパの苦しい状況を作り出したのではないでしょうか。本書の続編ともいうべき、NHKのBSスペシャル「プーチン 知られざるガス戦略 〜徹底検証 20年の攻防〜 巨大エネルギー企業ガスプロムの台頭」(初回2022年12月放送)では、シュレーダーが2006年首相退任直後からガスプロムの子会社役員に就任、巨額の報酬を得つつ、反対する北欧諸国に政治的に働きかけてノルドストリームを完成させ、ウクライナや周辺諸国、アメリカを混乱に陥れていく様子が克明に記録されています。2022年以後の世界情勢を見れば、シュレーダーは、政治的立場を利用して自らの利権を優先させ、ウクライナや自国国民を裏切ったといわれても仕方がないのではないでしょうか。

 蛇口をひねれば欧米からいくらでも武器が出てくるウクライナに対し、ロシアが手ぶらでこの戦争を終われないのは明らか。プーチンが核に手を出すか、またはNATOが参戦するか、逆にアメリカが手を引くか、なにがあっても不思議ではありません。台湾も近いうちに第二の香港になる可能性が大きいと思われます。そんな世界の大分裂を目前にして、メルケル自身も、プーチンと習近平に騙されちゃった、ではすみません。私たちはシュレーダー/メルケルの歴史に残る誤謬の帰結をまもなく目にすることでしょう。難民問題で人権擁護の第一人者となり、ドイツの良心、「自由民主主義の最後の守り手」と称されたメルケルが、ロシア、中国外交で犯した誤りは別の無残なあだ名を彼女に残すかもわかりません。

おわりに

 しかし2022年以後の世界情勢の変化は、本書の価値をいささかも損なうものではありません。政治も経済も常に変化しながら続いていくもの。新しい事実を目にしたとき、本書はしっかりとした背景的な知識を与えてくれます。今起こっていることについての危惧は、2021年の出版時点で唐鎌氏も示唆されています。ただその予想よりも、またほかのだれの予想よりも、悪い形で事実が起こってしまった、さらに今後確実にもっと悪くなっていくということです。そしてメルケルの政治的業績に関する評価もしょせん結果がすべてということになるでしょう。

 本書は、ドイツがthe sick man of Europe (1999)からsick man no more (2007)へ、そしてEurope’s engine (2010)に至るまで(p. 192)、うちでは労働市場の改革を実行し、そとでは安いユーロを背景に最強の経常黒字国、世界第二の対外純資産国へとどのように発展してきたか、を丹念な文献レビューと経済分析を通じて明らかにしていきます。唐鎌氏は政治が専門ではないように謙遜されますが、メルケル首相在任時の政治の功罪両面が生き生きと描かれています(シュレーダーに関しては功のほうが大きいと書かれていますが、ガスプロムに対する暗躍は言及されていません)。個人的にはシュレーダー/メルケルのドイツは対ロ、対中の経済中心外交により世界の民主主義国家、自由主義経済国からの信頼をほぼ失ったように思います。今後、アフター・メルケルのドイツはヨーロッパを、世界をふたたびリードしていくためにどのように進んでいくのでしょうか。唐鎌氏の次作に期待しています。

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