見出し画像

私と双極性障害。③(発症するまでの人生)

↑前回

今回は過去編、双極性障害の発覚に至るまでの自分の人生についてのお話です。病気と直接関係のない内容も混じるかとは思います、ご了承ください。


1)少年編

1.幼年期~小学校編

幼年期に両親の都合で祖父母の家に預けられた私は、そのまま大人になるまで祖父母の下で育てられました。時には衝突することもありましたが、養育してくれたその事実には未だに感謝しかありません。

さて、いざ自分の幼少期を振り返った時にどんな子供だったかというと、一般的な価値基準に当てはめた場合は”変な子供”だったと思います。

周りの同年代の子供たちは当たり前に親が居る・自分にはソレがいない、小学校入学のころにはおそらくもう一生親とは住めないのだと感覚として理解し始めた部分もあり、情緒が不安定でよく泣いている子供でした。

小学生低学年頃から死ぬことへの恐怖感が唐突に芽生え始め、脳から追い払おうとしても、定期的にその思考に脳が支配されるようになっていきました。思えば、今の躁鬱の波の感覚に近いものがあったかもしれません。

楽しい思い出がなかったわけではありませんが、不思議と小学校時代の記憶ってあんまり残ってないんですよね。先天的にか後天的にか特に映像としての記憶はほとんど残っていません。いつか記事で後述しますが、それらが自分のことを”アファンタジア”ではないかと感じるようになったきっかけでもあります。

2.中学校~高校編

この時期に3年間だけ運動部に所属していました。ここでも映像イメージというものがほぼありませんでしたので、身体能力こそ向上すれど運動神経自体は皆無のままでした。自分の体を動かすためのイメージができなかったんですね。

この時期に部活の先輩の1人から暴力・パシリ・カツアゲなどのポピュラーなイジメを受け始めます。先輩の人数が少ない部活でしたので、同級生を頼ることもできず、もう1人いた先輩も頼りにならずで、1年時の世代交代後~前述の先輩の卒業後までこれらのイジメは継続しました。

この頃に当時同居していた曾祖母の体調が本格的に悪化し、介護のために親戚が頻繁に家へ訪れるようになります。今思えば、祖母が不器用なりに介護をしている中で、親戚たちが高頻度で家に来る意味が少しよくわからないですね。家族を思う念であったとしても、当時から不思議とうっすらとした気持ち悪さを感じていた記憶があります。

実際、曾祖母が亡くなった際に何故か父の代理として席に座る場面などもあったのですが、その時期から加速度的に親戚づきあいに気持ち悪さを感じるようになりました。これが後々のトラブルの火種ですね。

そうして色々な歪みを抱えたまま、本格的な思春期を迎えるわけですが、歪みきった自己を抱えたままの自分はマトモな大人になるということをどこかで諦め始めてしまっていました。

自分より1年早く生まれた姉は早々に家を出て全寮制の高校に進学しており、自分の高校での奨学金も姉の寮費に充てられることが決まっていました。勉強の出来自体は昔から姉より良かったはずでしたが、家を出る権利・進路の選択権・塾通いの特権など、決して裕福ではなかった我が家の人生のリソースは全て彼女に吸い上げられていました。視点に少し私怨のバイアスがかかっているかもしれませんが、実質これが姉への憎しみの始まりとなりました。

高校に上がるころには妹のメンタル不調が始まりまして、自分もその件とは人生を通しての付き合いとなっていきました。妹を可愛がっていた祖父はその件に向き合えず、祖母も匙を投げかけているような状況でしたので、必然的にお鉢は自分に回ってきました。

妹を責める気は一切ないです、彼女自身も環境と両親の被害者だと思いますので。ただ、その件についても姉の干渉や親戚からの非難もあり、高校時点から既に自分の精神の摩耗は始まりました。

その後の進路に関しては、当初は奨学金を頼っての大学進学志望だった自分ですが、姉の一声でそれらの展望は掻き消え、2年時途中から就職へ家事を切ることとなりました。当時はリーマンショックの影響で就職氷河期に突入しており、自分が通っていた工業高校にもあまり良い求人は数が来ないような状況でした。

そんな中でもなんとか就職はし、社会人編に入ります。

2)社会人編

1.高校卒業後

結果として、最初の職場では半年持ちませんでした。インドア気味な自分が何故か高所での外仕事に就くことになってしまったので必然といえば必然ですね。

そこからはバイトで食いつないだのち別の職場に転職するのですが、その間に祖父が脳出血で倒れ、そのまま老人ホーム入りすることとなりました。

翌年には祖母が帯状疱疹からの合併症で要介護→入院、この時期にも頻繁な親戚の出入りが続きました。働きながら介護までというのが当時困難でしたので、親戚のうちの1人が祖母の介護のために来てくれていたのですね。そこに関しては感謝しかないのですが、今思えば自宅介護が難しい状況であれば介護サービスを使うという手段もありました。結果として、その後のトラブルにも繋がってしまったので、どうすれば正しかったのか、未だによくわからなくなります。

2.崩壊するまで

祖母はその後に老人ホームへ入所することとなり、妹との二人暮らしが入院時点から長く続きました。環境とメンタルヘルスに追い込まれていった妹と収入のために転職をして在宅率の落ちていった自分とで、どちらも心身のバランスを崩し、時間をかけて家はごみ屋敷の様相となっていきました。妹が病んだきっかけが私のせいではないかと方々から責め続けられていたこともあり、自分の心はポッキリと折れ、この頃に希死念慮が生まれました。

その更に翌年、妹の精神病院への入院と祖母の死去が重なり。どちらも親戚に責めに責められ続けました。祖母の葬儀費用もできる限り捻出しましたが、それでも今まで貯蓄ができていないことを姉に責められ、自宅の荒れ果てた様も罵倒を含めて責められ、この時期に一度は命を絶とうとも考えました。この時期の直前に一念発起して自宅の掃除もごみ袋数十袋に至るまで行っていました。しかし、それでも追いつかないくらいに家を荒れ果てさせてしまっていたのですね。ネズミや害虫を家で見ても、ごみの山に埋もれて生きていても、この頃はもう心が何も感じなくなってしまっていました。

実際の葬儀でも、ずっと責められ続け祖母が亡くなったのはおまえのせいだとも言われ続け、お前たちはネズミと同じだと罵倒されました。こちらからは何かを言い返す気力も気概もなく、洗脳のように以後自己否定の言葉が脳に刻まれ続けることとなりました。親戚と共に家を掃除している間・その後の祖母の死亡後手続きを終えるまでの間も同じような状況でして、自分の中で自分は生きていてはいけない人間だと強く思うようになっていきました。

そのような状況と環境下でしたので、親戚と姉からは妹を施設に入れるの一点張りで私は妹に対しても虐待の加害者であったというていで、一方的に全てが決められかけていました。それでも最後に残っていた自我でそれだけは否定し、以後妹との二人暮らしがまた続くこととなります。それがきっかけで、姉と親戚とは致命的な決裂を生むこととなりました。

3.崩壊してから

上記の流れのこともあり、親戚からは監視されているような状態に地域からは村八分のような状態になりまして、心境としては非常に生き地獄でした。実家の管理や祖母の介護まで手が回らなかったことについては重く責任を感じますが、しかしそうなるまでの経緯に関して、誰一人として理解してくれる人はおらず、自分を責め続ける人生が長く永く続きました。

それでも自分の支えとなったのが、退院後も一緒に住み続けた妹の存在であり、なんだかんだありながらも妹を大人になるまで育てることに自分の人生を捧げる思いだけで、体を動かし生き続けていました。

妹とは高校卒業後も数年同居し、やがて家を出ていく日が訪れ、そうなってから自分に生きる目的が何も残らなくなってしまったことに気が付きました。

親戚や姉からは自分の人生は償いのためのものだと言い聞かされ続けていたようなものであったため、以後はただただ再び自責の念に押しつぶされるだけの日々が再開しました。

そこから逃げるように当時はオンラインゲームに没頭し、そこでのコミュニティに自分の居場所を感じていました。あまり綺麗な形でのゲームからの卒業とはできなかったのですが、当時の自分とかかわってくれたプレイヤーの全てに未だに感謝の念を抱き続けています。

反面、現実で自分が生きている人生ではある時期から生きている実感が伴わず、人生を楽しむ権利も失くしてしまったという思い込みに囚われておりましたので、少しでも幸福を感じると自分の中の自責の念の塊のようなものの重力で、暗い昏い感情の沼に引き戻される日々が、これも長く永く続き、その度に少しずつ少しずつ、自分というものが更にわからなくなっていきました。

今遡って考えると、それが自分の中に強い躁鬱を感じるきっかけとなった出来事です。

4.病気への気づき

年を重ねるごとに自分の中にある自己否定の感情がコントロール不可能なほど肥大していき、生きる気力が根こそぎ消え失せていきました。一時的に明るく生きることができても長くは続かず、明るい自分の仮面を被ったまま内面に強い自己否定を抱えて、死にたくて死にたくて仕方なくなり、それでも死ぬことへの恐怖感から決定的な行動には出れず、一番つらい時期に死ぬことを選べなかったがゆえに死にたいのに死ぬ理由を持てないという、ある種の詰みのような状態となっていきました。

それでも生きることを続けるために、自分の内面の昏い澱から目を背け続け、時折それに引き戻されながらも気力だけでなんとか生き続けていましたが、それもやがて限界となり、

メンタルクリニックを初めて受診し、双極性障害の診断を受けました。

そうなってからの仕事との付き合い方は前記事までの通りなのですが、私生活においては薬や人に頼ることがようやくできて、長く背負っていた肩の荷が下りた感覚になったのを覚えています。

今になって思えば、そのだいぶ前から躁鬱傾向あったなと分析できますが、渦中の当時は自己否定を続けることができず、ただただつらい人生でした。

最初からそうだったのかいつからかそうなったのかは自分でもわかりかねる部分はありますが、今はある意味自分が病人であるという首輪をつけられることによって安心して生きることができるようになった、という感覚が強いです。

未だに生きることそのものがつらくなることはありますが、奥さんの支えや通院の継続のおかげもあって、働けない今でも強烈な希死念慮からは距離を置くことができています。

3)最後に(続)

いままでで1番の長文記事となりました。

書きたいことはまだまだありますが、一旦ここで区切りにしたいと思います。

次回以降は双極性障害の診断を受けてからの価値観の変化やもう少しプライベートなことに関して書いていこうかと思っています。

今回も長文を読んでくださりましてありがとうございました!
ほかの記事も読んでいただけると非常に非常にうれしいです。

※関連記事リンク

↓このシリーズの最初

↓自己紹介




この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?