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文字や活字で伝わらないなら声をあげればいい

最近思う。

文明が発達して色んな事が便利になり快適になった。

これは本当に良い事。
色々な恩恵にあやかっている。

特にネットの世界の進化は凄まじい。

自分から発信するツールとしてはメール、LINE、blog、twitter、note、、、

挙げれば枚挙に暇がないのだが、
それらを本当に使いこなせているのだろうか?

自分の好きな時間やタイミングで発信できるし、勿論見ることも。
しかもそれ程手間や労力は使わず、時として気軽に。誰にも迷惑も掛けずに。
何なら思いのままに使いこなして。

ただね、使いこなしているつもりでも自分の武器として使えてはいないのではないかな、と。
本当は使いこなせてはいない、使いこなせているという勘違い、思い込みではないか。


例えば、、、
今、あなたが発信した文字や活字は、伝えたい内容や、その思い、熱量、感情、これから何をしたいか、など。
それらが100%正確・適切に相手に届いてきっちりと伝わっているのだろうか?
相手はすぐにその内容を読んでくれるだろうか?
そして、その相手は伝えたかった内容を100%間違いなく正確に受け止めてくれるだろうか?

より適切な言葉(言い回し)や詳細が事細かに伝わるために補則する言葉はもっと必要ではないか?

例えば、、、
「ありがとう」

これだって
「あざっす!」のありがとう
「ありがとうねー♪」のありがとう
「心から本当に感謝しています。」のありがとう

たった一言の「ありがとう」でさえも、文字や活字では時として発信者の思いとは違う別の「ありがとう」になってしまうこともあり得る。

感情的になって言葉足らずで文字を入力して発信する人、口語で「それ」「あれ」が多く、主語や目的語が無くて話の内容がぼやけた状態のまま勢いで発信する人。
一方的な熱い思いでの、時として「悪意の無い」文字・活字の攻撃(口撃)で読み手の心をズタズタにする人。
※この場合、発信者には読み手がどれだけダメージを受けているかどうかなんて考えは残念ながらこれっぽっちも無い。とっても悲しいことに。
ただ、発信者は「言ってやったぜー、大満足だぁーー、スッキリしたーーー!!」にはなる。
そして、発信者にとっては
「読み手が大ダメージを受けて落ち込むこともあると言うこと」は別の世界の話になってしまう。

こうした内容だと読み手は???になることが多いし、そのメールやlineの発信者への不信感を抱いたり。
時には誤解や軋轢を産み、仕事であれば場合に因っては解約、失注、企業間取引の停止。

人間関係、信頼関係の崩壊。

一度こうなってしまうと、ここから転がり落ちるのは早いね。坂を転げ落ちるとは正にこのような時だ。


発信するタイミングは本当に「今、この瞬間」しか無いのか?
1分1秒を争う内容でないのであれば、今日の午後や明日では本当に間に合わないのか?そうすることがそんなに遅いのか?ほんのわずかで少しの時間も待てないのか?

直接、顔と顔を合わせて対面で、必要があれば複数でまとまった人数で話すことはそんなに難しいことか?
その為のわずかな時間を調整して大切な話をすることはそんなに難しいことなのか?
無意味か、無駄か、価値がないのか?
※それ程重要では無い話は休憩時間を過ぎても一生懸命にダラダラと話すクセにね。

お互いの立ち居振舞い、表情、それぞれの思い、熱量、感情を見せ合いながら話すことは何より苦痛なのか?

メール、LINE、twitter 、note、、、

便利なツールで簡単にやりとりできるけど、、、だけど。

大切な内容ほど、今言ったツールでは無くて、電話。
電話じゃ伝えきれない、あるいは人生や会社の存続・命運に関わるような内容だと思う内容なら実際に会って話す方が良い。

大切な思いを伝えたい人に対して、正確に、判りやすく伝えたいなら、それだけの時間や方法は遣り繰りして確保するよね。
どんなことよりも優先順位を最優先にして。

元来、人は相手の顔、表情、目を見て会話して、時には言葉じゃなくても思いを伝え合っていたはずだ。

文字や活字の重要性は重々承知している。ネットの便利さも。

ただ、今一度、顔と顔を見て、目と目を合わせ、お互いに表情を確認し、言葉を交わすことを意識する方が良い。

ごくごく基本で当たり前の事をしてコミュニケーションを取ることが、人間関係を良くする為の一番の近道だと思う。

その積み重ねがお互いの信頼関係に発展して、そこからもっと色々なことができるようになる。


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