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鉄道の歴史(戦前編) ② 陸蒸気、走る!

 開国後、江戸幕府はその建て直しを模索していましたが、鉄道建設についても研究を進めていました。幕府に対して熱心に鉄道建設を勧めていたのはフランスでした。日本市場をめぐって英国と対立していたフランスは、幕府を後押しして、有利な地位を占めようと考えていたからです。
 慶応2(1866)年、フランスの銀行家が、幕府に対して近代化に関して献策を行ったときに、鉄道の有効性について言及していました。第15代将軍徳川慶喜もその翌年、フランス公使レオン・ロッシュに対して、幕政の近代化のための方策を訊ねていますが、その答申の中にも鉄道建設の重要性が説かれていました。
 一方、薩摩藩からの留学生として渡英した五代友厚は、元治2(1862)年に滞在先のベルギーで、現地の実業家との間に、大坂-京都間の鉄道建設の契約を結んでいました。多くの人口を抱えた京阪間の鉄道輸送は、十分に採算がとれる事業になると考えたからでした。もっともこれは、薩摩藩が英国に接近したため、ご破算になりましたが、後に実業家として大成する五代に、先見の明があったといえるでしょう。
 幕府が鉄道敷設工事の免許を認可した唯一の例が、慶応3年2月23日の、アメリカ代理公使アントン・ポートマンによる、江戸-横浜間の敷設計画でした。これが我が国における具体的な鉄道計画の最初です。
 しかし、その直前に王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が樹立されていたので、この免許は無効となりました。ポートマンは新政府に免許の追認を求めてきました。これに対して新政府は、鉄道建設は自力で行う旨の基本方針を既に確認しており、ポートマンの要求を拒絶しました。この明治政府の自信は、英国公使ハリー・パークスの「日本人による鉄道建設は可能」との意見が裏付けとなっていました。
 その後、明治2(1869)年には、神戸のアメリカ領事ロビネット(資料によれば、ファースト・ミドルネームはW.M.と表記され不詳)を仲介して、大阪-兵庫間の鉄道建設が申請されるなど、在日外国人からの鉄道建設計画がいくつか持ち込まれましたが、いずれも実現には至りませんでした。
 このように紆余曲折はありましたが、政府は英国・オリエンタル銀行の協力の下、鉄道建設のための外債を募集して、東京-横浜間の官営鉄道建設に乗り出しました。工事は明治3年から始まり、2年後の明治5年10 月14日(旧暦では9月12日)に明治天皇ご臨席の下、開業式が行われました。この日は「鉄道の日」として、各地で様々なイベントが行われています。
 さて「陸蒸気」と呼ばれた蒸気機関車が、マッチ箱のような客車を曳いて走る姿は、近代日本の幕開けを象徴するかのようでした。新橋(後に汐留貨物駅、現在は廃止)-横浜(現根岸線桜木町駅)間の所要時間は53分。表定速度はわずか33.9km でしたが、当時の人たちにとっては疾風のように感じられたことでしょう。運賃は下等で37 銭5厘。卸売価格で米が1斗も買えた金額ですから、誰でもが乗れたというものではありません。しかし、乗車率は6割を優に越え、最初から黒字状態でした。
 この、いわば官営模範鉄道を契機にして、全国各地に鉄道が建設されるのは間もなくのことです。

連載第84回/平成11年12月29日掲載

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