【エッセイ】僕たちのマッスル
挨拶
読者諸賢、ご機嫌はいかがだろう。日本列島は陽気が栄えてきたな。恐らく諸君は、冬との別れを惜しみ、こたつやベッドの中で未だぬくぬくとくるまっているのだろう。悲しいかな。そんな猫のような愚者は犬も食わない。
私はというと、諸君らとは違い、筋肉の鍛錬により溢れ出るエネルギーで、毎日毎晩と己を温めている。漏れ出したエネルギーが、汗となって、私の額で輝く。望むのであれば、余剰分の熱で諸君を温めてやることもできる。寒い日が続いた分、私が温まる日々を創生してやろう。我流の三寒四温である。
この一か月。自ら作り上げた健康志向の生活方法を、昼夜兼行で励行してきた。筋肉の成長が続くおかげで、止めどなくマッスルが蠢く。
「──今日も良いトレーニングだった」
大胸筋のヒロシが私に労いの言葉をかける。
「──脂質の取り過ぎには注意だぞ」
腹斜筋のタカヒロは今日も厳しい。
「──明日は私とのトレーニングだな」
大腿四頭筋のメアリーは試合前に気持ちを高めていた。
今日も鍛錬に余念がなく、向上心が止まらない。圧倒的肉体派の男に成り上がった近頃の私だ。
メガネ君とねくら氏と私について
マッスルレコメンド
とある日。三軒茶屋の居酒屋。大きな広いL字カウンターと、一枚板のテーブルが3つの洒落た内装。店内は少し薄暗いが、間接照明が落ち着いた明かりを灯す。出てくる料理も、ブラーノ島を思わせるような垢抜けた彩りである。
満席かつ若者の活気で賑わっており、むさ苦しい非モテ筋肉男と素朴なメガネ男子には全くもって似つかわしくない。だが、外見ばかりはふわふわ猫系の自称ゆるかわ乙女こと、ねくら氏さえいれば万事大丈夫であろう。周りの弾け飛ぶような笑い声など構わずに、私、メガネ君、ねくら氏の鼎談が始まった。
「ねくら、メガネ君。今日諸君を呼んだのは他でもない。誇り高き習慣への勧誘である……!」
「悪質だね」
間髪入れずにねくら氏が吐き捨てた。向かいの席から冷たい目を向ける。
「私の言い方に問題はあったかもしれないが、そんなにバッサリ切り捨てるゆるかわ女がいてたまるか」
「一応聞いてあげましょう」
メガネ君が人差し指でメガネをくいと上げ、静かに口を開く。
「して、一体我々は何に誘われるのですかな?」
私は、斜向かいのメガネ君に向けて不敵な笑みを送る。
──誇り高き習慣。それは、秘すれば花だと思い込み、心の奥にしまい込み、言わずして気づかれる偶然の格好良さを得たいがため、皆に公表するは避けてきた大切な習慣である。簡単に言うは、無粋で惜しい。
「まぁ、まずは少し待ちたまえ。諸君の悩みから聞こうじゃないか」
「ない。あなたに相談できるような小さいことは」
ねくら氏には、取り付く島もなければ信頼もなかった。
「些かなる悩みは誰しもが持つもの。言わずして昇華するが君子ですぞ」
愛想がない。可愛くない。つまらない。どうしようもない。
「諸君は、友達だよな……?」
ねくら氏とメガネ君は少し笑いながら、呆れたように目を合わせていた。
「悩みって無理やり引き出すものじゃないでしょ」
私の強制悩み相談は、相談者を迎えずして悲しみのまま終了……。かと思ったその時だった。ふと、ねくら氏が何か思いついたように、口をぱっと開けてこちらを見る。
「そういえばだけど、夏までにスタイルを良くしようと思ってるの。水着、可愛く着たくて。何か始めた方がいいかな」
脳裏に衝撃が走った。私は雷に打たれた。正に欲しかった悩みが目の前に転がり込んできた。冬を終え、舞い降りた春雷は、私と筋肉を目覚めさせる。
「なるほど。スタイルを良くしたいと」
「そう。骨格ウェーブを活かしたくて」
メガネ君が、得心したように一言挟む。
「ゆるかわ乙女には骨格も味方しているのですな」
「うん。だから、華奢なスタイルで白い水着をふわっと着たいなって」
メガネ君が顎に手を当て、首を傾げた。
「どうだろうか。ねくら氏は既に華奢で美人に見えるが……。相談の必要無いのでは」
ねくら氏が露骨に喜色満面の様相を浮かべる。
「え。メガネ君が凄い褒めてくれる。私、幸せでどっか飛んでいきそうなんだけど」
勝手に空中でも宇宙でも飛びあがって、マサチューセッツにでも落ちていけばいいと思ったが、口をつきそうになった野暮なツッコミはひとまず抑えた。向かい側で、仲睦まじく盛り上がる二人を遮り、目覚めを迎えた私の脳から、遂に言葉が生み出され始める。
「夏までに理想のスタイルだな。どうすればいいか、何か検討はついているのか」
「まぁ、食事に気を付けるか、運動するか……」
「そう! 運動だ!」
興奮のあまり、声量が場の適量を大きく超えた。
「え。どうしたの」
「さて、どういった運動をすればいいだろうか。分かるか」
「いや、まだ運動するとはいってない……」
話し出して数秒。堰を切ったように言葉が流れ始める。こうなれば、もはや歯止めは利かない。回遊するマグロの如く、いつまでも止まることは無い。
「いや、君は運動するんだ。夏までに鋼の肉体を作り上げるんだ。素敵な白い水着を着て、ボディビルの大会に出たいんだろう……!」
「嫌だ」
「鍛え上げて鍛えぬいて目指した高みの先で、純白のボディビルダーになった貴様と、インテリ聡明マッスルになったメガネ君が、高らかに筋肉と筋肉で笑いあう栄光の日々が来るんだ。それが諸君の人生のハイライトにならないことがあろうか。いや、なる! 私の筋肉がそう言っている!」
「酷い人生だね」
「どうしてか私までムキムキにされているな……」
私の眼下では、妄想で生み出された架空の大観衆が喝采をあげている。ねくら氏とメガネ君など、見えてはいなかった。
「なら、君は、君たちは、どうするべきだろうか!」
「君たちはどう生きるかの感じで言わないで。諸君って言ってたじゃん」
一拍置き、ひとつ呼吸を終えると、観衆は静まる。全国民が固唾を飲んで見守る中、私は宣言した。
「ジムに、行こう!」
一部の拍手をきっかけに、民衆の歓声が広がっていく。私は再び、大観衆の大喝采を浴びた。私のスピーチが後世に語り継がれ、やがて歴史のターニングポイントとして世界史に残ることが決まった瞬間だった。
───現実は違った。
「嫌だ」
「身の毛がよだちますな」
「今日はもう帰ろうか」
「それが良さそうですな」
「美味しいお酒とご飯でした」
「ごちそうさまでした」
席から立ち上がろうとした二人を見て、はっと我に返る。眼下の観衆は消え、目の前に呆れた顔が並ぶ。料理とお酒はまだテーブル上で輝いている。死に絶えた二人の雰囲気に対し、テーブル上がまだ生き生きとしている事実が、春雷を受けて熱くなっていた我が心身を一瞬で冷却した。様々な要因から、焦りが募る。焦燥のクラウドファンディング状態であった。
「狼藉を働いた! 許してくれ!」
「嫌だ」
「無礼を詫びる。この通りだ!」
私はメガネ君の顔に手を伸ばし、彼のメガネをスチャっと取り上げた。そして、そのメガネをねくら氏に差し出す。
「この通りだ」
「どの通りだよ」
「ぬぬっ。何も見えぬ」
「ふざけないで。ほら、返してあげて」
私は一度差し出した眼鏡を、メガネ君の顔にかけ直してあげた。
「すまなかった、メガネ君。取り乱した結果、君の眼鏡まで犠牲にしようとした」
「アイデンティティへの冒涜ですぞ」
「プライオリティは事態の収束だった」
「なんで、それで収束すると思ったの」
ねくら氏は大きくため息をつく。その後、メガネ君と共に、おもむろに席へ座り直した。
「何か、全部くだらなくなっちゃった」
「飲み直すが吉ですかな」
ほっと胸を撫でおろすと、大胸筋のヒロシもどことなく安堵の笑みを浮かべている気がした。
改めて冷静にマッスル
「して、ねくら。骨格ウェーブを活かして、水着を綺麗に着たい。だったな?」
「まだ続けるの」
「一度受けた相談は解決するまで付き合う」
「粘着質だね」
「面倒くさい彼氏みたいな扱いするな」
メガネ君は先ほどまでのやり取りで疲れたのか、俯いて小刻みに日本酒を啜っている。一度、休憩の状態に入ったようだった。彼の事は一旦置いておくことにした。
私はねくら氏の目を真正面から見つめ、真剣にジムの素晴らしさを説いていくことにした。
「骨格ウェーブというのは、上半身が華奢で、曲線的な体つきが特徴だ。男性にはいまいちピンと来ないが、この骨格に憧れる女性は多いな。しかし、むくみ体質で、確か下半身に脂肪がつきやすかったはずだ」
「え。良く知ってるね」
「だから、まずは体がむくまないようにするため、毎日のストレッチを欠かさないことだ」
「ほうほう」
「さらに、下半身の筋トレができれば、脚痩せも促進されるな」
「なるほど」
「その後、ランニングなどの有酸素運動ができれば、華奢で端麗な乙女が形成されていくという訳だ」
「おぉ……」
「骨格ウェーブは肌の質感が柔らかいから、柔和で可愛らしい雰囲気を出しやすいが、その反面太りやすいというデメリットもある。しかし、貴様は姿勢も悪くないし、お菓子やジュースもしっかり摂生している。ならば、後はストレッチ、筋トレ、ランニングができれば、純白の水着が似合う絶世の乙女に自ずと近づいていく」
「確かに……!」
「ただ、今まで運動していなかった人間が、いきなりストレッチからランニングの流れを、習慣づけて行うことが出来るだろうか」
「できない」
「モチベーションを夏までの数か月、保つことができるだろうか」
「できない……かも……」
「ジムにはストレッチをする場所もあり、下半身を鍛える様々なトレーニング器具が存在し、トレッドミルで効率的なランニングも出来る」
「そうなんだ」
「ジムには素敵な大人女性を目指す同志がたくさんいるだろう。モチベーションも自ずと維持される」
「そっか……」
「せっかく、可愛いという才能を持ち、生活習慣も悪くないのに、このまま平凡なゆるかわ乙女で終わっていいのか。他の女性とは一線を画す、一顧形成の女神になろうとは思わないか」
「……なりたい」
「じゃあ、何をすべきか分かるな」
「じ……ジムへ……行く……!」
ジブラルタルの要塞の如く鉄壁を誇った、ねくら氏の心理的障壁は、私の熱い筋肉によって完全に陥落した。それも当然の結果だった。ジムとは全人類が通って然るべき施設であり、スタイルの向上を目指す人間であれば、一瞥して素通りなどできない聖地なのだから。こうして、私は仲間を一人獲得した。
一連を傍観していたメガネ君は、ねくら氏の隣で絶句していた。
「なっ……。ねくら氏、ジムへ行かれるのか?」
「メガネ君も一緒にいこうよ!」
「そ……そんな……」
ジブラルタル攻略を終えた私の、次なる目標はヴェルダン要塞こと、メガネ君。文化系に属し、運動とは距離を置いてきた彼の人生は、ジムへ誘い込むに関して、難攻不落と称すに相応しい。私は、破釜沈船の覚悟で彼に臨んだ。
「メガネ君からは、まだ悩みを聞いていなかったな。もし、何かあったら聞かせてほしい。そして、心配しないでほしい。現に、ねくらの悩みは、ある程度解決の方向へ向かったのだ」
メガネ君はテーブルを見つめている。私と目が合う事はなかった。
「い……いや。君子は……」
「君子は豹変す。君子ならば、今この時、速やかに考えを改めるものではないだろうか」
「む……。それはそうだが」
「座して何も言わないことが、太平の世を実現するための正しい行いだと?」
「そうではないが……」
「鼓腹撃壌を夢見るばかりでは、全ては夢物語。どうだろう。メガネ君の頭で複雑に絡まった懊悩を、私に一部解かせてくれないだろうか」
メガネ君には抵抗の言葉を出す気力が失われていた。彼はうつむいたまま降参したように呟く。
「しょ……承知した」
既に陥落しているねくら氏は、竹酒を啜りながら、我々のやり取りを眺めている。メガネ君とジムに行く日を期待した彼女の目は、数分前とは見違えるように輝いていた。
「さて、何か悩みはあるのかな?」
「我々は毎日何時間も座るような仕事ですな。そのせいか、最近、腰が若干痛みだして候。痛いというか、疲れが溜まっているといった感じですな。どうすればいいか」
悩み自体はあったようで、メガネ君は開き直ったように、すらすらと相談を説明した。
「そうか。メガネ君はいつも背筋がピンとしていて、姿勢が良い。腰痛とは無縁かと思ったが……」
「他に何か対策があれば教えていただきたい」
こうも都合の良い相談が連続でやってくるとは驚きである。彼らを鴨とは思わないが、葱を背負ってはいるだろう。さながら、要塞が葱を背負って聳えているとでも言おうか。あまり想像は出来ないが。
さて、私の頭には春雷どころか春一番も吹き荒れ、梅と桜とたんぽぽとオオイヌノフグリが咲き乱れ、もはやこの空気は冴え返ることなどないと悟った。時は満ちている。ジムへの扉は開かれている。あと数歩で、我々は筋肉フレンズである。
「筋トレを推奨する」
「やはり、そうきましたか……」
予測していた文言の到来に、メガネ君は頭を抱えた。
「実はとうに分かっていたんじゃないか。己に筋肉の鍛錬が必要だと」
「しかし、仕事だけの日々でさえ大変なのですぞ。それに加えてジムなど……。毎日が辛すぎる」
「そんなことはない」
メガネ君は相も変わらず頭を抱え、下を向いていたが、反論の余地を見出したらしく、顔をあげて目を合わせてきた。
「私にとっては辛い。運動は捨ててきた人生ですぞ。体を動かすための素養もなければ、基礎的な運動のための体力すらないのなら、ジムに足を踏み入れる資格などある訳がない」
メガネ君にしては珍しく、かなり長台詞だった。現状、本当に行きたくないのだろう。しかし、彼の決死の抵抗を前にして尚、私は鋼の肉体と精神で落ち着いて彼を諭していく姿勢を変えなかった。
「大丈夫だ。確かにフリーウエイトの場所には、ケンタウロスやゴーレムのような強靭な猛者たちがひしめいているが、実は運動が苦手な方や、細身の男性女性もジムに多い」
「そうなのか……」
「中には、トレッドミルで汗を流した後、外で煙草をめちゃくちゃ美味そうにふかしていた妖怪のようなひょろひょろおばあちゃんも見たことがある。というか、いつも私が使う時間帯に頻繁に出没する」
「それは逆に怖いですな」
「つまりだ。怖がらなくて良いし、こだわらなくて良いという訳だ。辛いと思うのであれば、その手前で抑えればいい。運動が苦手であれば、徐々に鍛えていけばいい。様々な人が、十人十色、自分のペースでやっている」
「なるほど……」
メガネ君の表情が少しずつ晴れてきた。メガネ君の心理的障壁こと、ヴェルダン要塞の陥落へのカウントダウンが始まった。
「そして、悩みは腰痛であったな。メガネ君は普段トロンボーンを吹いているから、自ずと腹式呼吸による潜在的な筋トレは幾らか出来ているはずだ。それならば、主に大腿四頭筋や背筋を鍛えよう。脊髄や腰を支える筋肉が発達し、腰痛の予防になるはずだ」
「それは、私でも鍛えることができるのだろうか」
「もちろん。それほど難しい事じゃない。ジムには色んなトレーニング器具があるから、適切なものを選ぶと良い。最初は私も同伴しよう」
「心強い……」
「どうだろう。 行きたくなったか?」
しかし、一度瞬間的に明るくなった彼の表情は、またしても暗くなった。
「しかし、仕事が大変ですな……」
メガネ君の逡巡にねくら氏が割って入ってきた。
「確かに。休日だけ行っても、なかなか効果は出ないかもしれないし。かと言って、平日に通って仕事のストレスと両立するのはちょっと大変かな……」
二人の顔つきが険しくなり、場の雰囲気も徐々に曇りだしてくる。しかし、私は慌てることなく鷹揚に構えていた。
「ジムに行けば、そのあたりにも良い効果がある」
二人はこちらを見たまま、同じタイミングで同じ方向に首を傾げる。あまりにも欲しい反応が返ってくるため、さながら気分は催眠術師だった。
「人のやる気には、ドーパミンという物質が大きく関わっている。この辺りは何となく知っているはずだ。筋トレを行うと、その物質の分泌が促進される。その効果によって自分に対しての自信が増す。自信が増すとさらに日常でのドーパミンの分泌が増えていく。すると……」
「すると……?」
メガネ君とねくら氏が声をそろえた。彼らはもう鴨である。
「仕事での活力が増し、ストレスも低減するという訳だ」
「おぉ……!」
今度は現実で、二人からの拍手を浴びる。もはや聞くまでも無かったが、改めて聞くことにした。
「では、我々は三人ともジムに……?」
二人は無邪気に元気よく答えた。
「行く!」
こうしてヴェルダン要塞の攻略も終え、晴れて我々は筋骨隆々の道を歩み始めるのであった。要塞をも超える筋肉の圧倒的破壊力は、さすがとしか言いようがない。
さらなる高みへ。森羅万象がマッスル
我々は明るい未来を見据えて、大いなる期待を胸に酒を酌み交わしていた。そこに、腹斜筋のタカヒロが忠告してきた。
「──食い過ぎと飲み過ぎには注意だぜ」
分かっている。せっかくの筋肉が台無しにならぬよう、日々節制に努めているのだ。怠らぬ覚悟を持ち続けよう──。
酔ってかなり上機嫌になったねくら氏が私に問うてきた。
「せんせぇ! わたしが今からだいじょゆうになるには、どうすればいいですか」
私は間髪入れずに答える。
「それには筋肉だ。強靭な足腰が貴様をアンジェリーナジョリーにしてくれよう」
続いて、静かに酔っているメガネ君が質問した。
「先生。メガネ以外のアイデンティティが欲しいです」
「それには筋肉だ。肥大した筋肉が、貴様に存在感をもたらすだろう」
再び、ねくら氏がうきうきで声をあげた。
「せんせ! くるまがほしいです!」
「それには筋肉だ。ジムに通う貴様はジムニーとなる。そこで自信を持ってジムニーと言えば、それはもう貴様自身をもってジムニーシエラだ」
「先生。もっと友達が欲しいです」
「それには筋肉だ。発達した筋肉に名前を付ければ、友達いっぱいだ」
全員が上機嫌になり、お酒の力も相まって、私も段々訳が分からなくなってきた。だが、それでいい。この世は筋肉である。全ての道はジムへと続く。筋肉を知り、ジムを知れば、百戦して危うからずである。
私は人目もはばからず筋肉たちと対話し始めた。
「大胸筋のヒロシ、今日もナイスマッスル!」
「腹斜筋のタカヒロ、いつも忠告ありがとうな!」
「大腿四頭筋のメアリー、愛してるぜ!」
──ふと、顔をあげると、絶句して口を開けたメガネ君とねくら氏が、こちらを見て固まっていた。それを見た私が困惑していると、彼らの表情が徐々に憐憫の面持ちに変わっていった。
「え、ジムに行くとこうなっちゃうの……」
「一気に酔いも冷めてしまった」
「筋肉つけるのも考え物だね」
「一度、冷静な再考が必要ですな」
二人は、一度目を合わせると、同時にこちらを向き、声を揃えて言葉を放った。
「やっぱり、ジム行かない!」
そう言って彼らは退店し、三軒茶屋の夜道へ消えていくのだった。しかし、一人、店に残された私は確信していた。彼らは近いうちにジムにやって来る。三人で筋肉を交わし合うその時がすぐそこまで来ている。去る者は負わないが、来るものは必ず虜になる。筋トレの効用を知った者は皆、絶対にジムへ来る──。
「そうだ。今日もジムへ行こう」
大胸筋のヒロシ、腹斜筋のタカヒロ、大腿四頭筋のメアリー、筋肉美女のねくら、聡明筋肉のメガネ、そして私。マッスル兄弟たちの未来は明るい。
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