勉強の価値を読了した。
今週は、「すべてがFになる」で有名な 森 博嗣先生の「勉強の価値」を読了した。
この本で、子供の勉強をどうするべきか。自分自身の勉強の価値とはということを学べると思って手にとってみた。
しかし、子供の勉強方法に役が立つ本ではなく、大人がどのように勉強しなければならないのかが目的の本だった。
生活スタイルが良かった
本編とは関係ないが森先生の今の生活スタイルが、自分が目標としてる生活スタイルだった。
将来は広い庭で好きな園芸をやりながら、必要に応じて仕事でプログラムを書くような生活が目標だった。
森先生の庭園鉄道がそれに近いと感じた。
50歳の前に必要だった資金が集まり、仕事をやめて広い土地に住み庭園鉄道を作ってる。
そのために小説のバイトを始めたらしいのだが、今自分は本業の他にバイト(副業)をしている。
今、副業をしているのは己の自己研鑽と子どもたちの資金集めが目的ですが、将来的の資金として広い土地で園芸をやりたいのが目標だ。
ミステリー小説(コンピュータや数学や建築系)の執筆だけかと思っていたら、幻冬舎からエッセイに近いビジネス書があるのを知って読んだ。
他にも面白そうな新書があって、見つけたら読みたいと思っている。
抽象的だが、的を得ている
この本は、子供に勉強させるとか勉強をさせるためにハウツー本ではない。
森先生が、どのような家庭環境で育ち・なぜ勉強が好きになっていったのかをエッセイに近い書籍だった。
子供のころから勉強嫌いだった森先生がどのようにして勉強が好きになっていったのか。わかる書籍です。
新しい学びが多かったわけではなかったけども「やっぱりそうなるよね。」感じた。
教わるよりも教えるほうが勉強になる
親がまず勉強すること
日本の教育について
アウトプットが記憶をたしかなモノになる
計算は頭のジョギングである
子供時代は勉強が嫌いだった
意外だったのは、森先生も子供時代は勉強が嫌いだったらしい。
子供のころから勉強が好きだったのかと思っていた。
子供時代は勉強キライで、固有名詞や国語だったり覚えることが苦手だったらしい。
とくに子供の勉強とは、基礎的なこと学ぶため勉強が面白いと感じない。
自分もそうだった記憶がある。(レベルは全然違うけど)
しかし、大学三年生のときに爆発的に勉強が好きになったらしい。それは大学では研究発表だったらしい。知りたいことを知るとその周辺も勉強する。知的欲求からの派生は強い。自分はここに思うことがあった。
自分は、住宅環境だったり住宅のあり方が研究テーマだった。
建築史からどのような手法・住み方・生活習慣・北海道の建築など研究したいテーマから問題を見つけて、その解答を自分で探していくことだった。
本書でも問題を見つけていき、その問題から知識を得て答えを探していくのが勉強だと書いてる。
自分もこれが勉強キライから勉強好きになったきっかけだったかもしれない。
やはり小学校や中学校や高校は、目的の高校や大学へ行くために勉強している。
好きなことを学ぶというよりかは、行きたいところ学歴が必要で勉強するとでは好きにはなれない。
もっと先の目的があって、その大学や高校に行く必要があったのであれば勉強するのかもしれない。しかし、一般的に自分もそうだけど学歴のために勉強してた気がする。
勉強とは、データのインプット
勉強をするとはなにかを覚えることとされており、一般的にインプットのことが勉強とされている。
逆に試験は、インプットしたことをアウトプットしていくのが一般的です。
日本的な文化からする勉強とは、なにかの知識を頭にいれることが勉強とされてる。
しかし、実際には知識はコンピュータには負けるし、脳に記憶できるものは限界がある。必要に応じてそれを引き出せる記憶が重要になってくる。(調べる行為)
国語や社会と違って、数学はインプットではなく計算や脳のトレーニングに近いからアウトプットだ。
果たしてそれが勉強かなのか?
本書を読んで改めて、アウトプットも勉強だと感じた。
スライドを使って、だれかにプレゼンするときに知識を整理して言語化する。
調べて整理してアウトプットするまでの一連の流れが勉強だ。
そう自分は感じてるし、自分自身の実体験である。
創造的な体験は教えられない
創造的な体験は人には教えられない領域だ。
知識や本で学べることは教えられるが、人の感じる部分創造してる部分は他人へ継承はできない。
たぶん、人それぞれ脳で考えてることは違う。だから教えられない言語化でない領域だ。
では、どうするのか?やはり自分自身が自ら体験(チャレンジ)することだろう。
体験は教えられないが、自分が感じたこと創造したことを言語化できるようにすることが勉強につながってる。
勉強が楽しくなる唯一の方法
楽しくなる唯一の方法は、作りたいものがあるかないかだろう。
プログラムでも作りたいものがあれば、それに向かって勉強して周辺の肉付けをしていき知識を得ていくだろう。
プログラムを勉強したときは、色々なものを作って検証したりして楽しかった。
今おもうと楽しくなる勉強方法だったと感じた。
やはり勉強は他者からの指示でなく、自らやりたいと思えるかどうかだ。
義務教育の価値
基礎学力をあげるために義務教育がある。
字を読めなければ知りたいことを理解することはできないし、計算ができなければ普段の買い物にも支障がでる。
今は電子マネーだから必要なお金を用意する行為自体がなくなっては来ているものの、自分がいくら使っていくら口座にお金を残しておく必要があるか計算する行為はある。
そのときに一般的に生きるために義務教育は必要不可欠です。
しかし、この勉強こそが子どもたちが楽しいとは思わないだろう。
子どもたちは、その基礎学力が将来なにに使うのか具体的なイメージができてないからだろうと思う。
息子が勉強したくないという気持ちは痛いほどわかる。自分もそうだったと思い出した。
基礎学力がなにを指すのか。目的がないものはやはり楽しいとは思わない。
本日も子供の勉強をみていたが、やる気はない。。ただ数学よりも国語が好きという息子は、計算をするよりも字を書くほうが好きなようだ。
目的が見えていくことで勉強が楽しい(知的欲求)と感じるのだろう。と思い長い目で勉強をみたり、一緒に勉強をしていこうと思った。
最近では寝る前にベッドで本を読んでるが、横で息子が学んだ漢字や平仮名を使いわかる部分だけ声を出して読んでる。これも一つの学習だろうと思いつき合いながら本を読んでいる。
「思う」と「考える」と「気づく」
外部的な問題がある中で、自分の中で思って具象化する。そして具象化をさらに磨きや考えを肉付けしていく。そして問題に対して気づきや発見が生まれるのではないだろうか。
自分は、とくに今日あったことを帰宅の徒歩で行ってる。
思考の整理は常に行い1日を終えるようにしている。
整理が終わらないこともある。答えが導かせないこともある。感じたことはメモに取るように次の日を迎えるようにしている。振り返りは大事である。
子供も老人も勉強するようになった
インターネットがこれほどまで広がり、好きな情報を得ることは簡単になった昨今、昔に比べると勉強(調べる)をするという行為や新しいことにチャレンジがしやすかった。
昔は、参考書や先人の言葉からでしか学ぶことができなった。
ハードルが下がったことで勉強がし易い環境である。
YouTubeでも学ぶこともできるし、勉強に特化した動画もたくさんある。
子供から老人まで勉強やチャレンジしやすい環境は自分にとっても良い環境だと感じている。年齢があがっていっても学び続ける姿勢は変えずに新しいチャレンジはしていきたい。
学ぶのに早いも遅いも関係ない。そのとき知的欲求があればその意思に従うスタイルでいたい。
集中が続くから眠くなる
本書でそうなのかと思ったことがこの言葉だった。
「眠くなるのは集中力が足りない」という精神論の問題ではなかった。
集中すれば眠くならないのは嘘である。
集中が眠気を誘っているというのだ。
インプット続けることが、眠気がくるのだろう。集中するから眠くなる。たしかにと感じた。
なにかを調べる行為やプログラムのデバッグする時間が長くなると眠くなるのはこの集中が問題だった。
授業中の先生の話が眠なる話はよくあることであり、つまらないからではない。集中して聞いてるから眠くなるのだろう。
子供の授業では区切られてるが難しいが、大人の仕事や勉強は科目ややることを変えてみるのは効果的。
やることを切り替えることが脳の刺激につながるのだろう。
森先生もキーボードで打つのが疲れたら、執筆を切り上げて庭仕事や工作に切り替えてるようだ。
自分的にも学びがある。庭仕事を一時期やってのはこれに近かった。
今は庭仕事をできない期間だったので、代替は必要だと感じている。
まとめ
似たような書籍はたくさんある中で、勉強の価値を教育から始まりやり方や感じていることをまとめた良い書籍だった。
勉強をやるという行為は仕事を引退しても続けていけるような人生にしていきたいと思う。
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