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20240601学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-3 革命の防衛

20240601 [革命の防衛]  1917年から1921年の初めまで、ソヴェト政府は、ロシアの反革命だけでなく帝国主義諸国の武力干渉に対しても、ロシア社会主義革命に対しても、戦わなければならなかった。 ロシアの民衆は戦争に疲れ、飢餓に悩んでいた。産業は滞り、軍事呂具戦争でほとんど破壊された。一時は国の大部分が敵の手に落ち、食糧、燃料も供給されなくなった。モスクワとペトログラードの労働者は、一日おきにたった8分の1ポンドのパンしか配給されなかった。それでも民衆は赤軍を建設し

    • 20240519学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-2 ソヴェト政府の活動

      20240519 [ソヴェト政府の活動] 1917年11月8日、第2会ロシア・ソヴェト大会は、交戦諸国に即時休戦を要求する「平和に関する布告」を採決した。また同日の夜、「地主の土地所有はなんらの賠償なしに即時に廃止される」という「土地に関する布告」を採決した。それに伴い、地主の土地、皇室領及び修道院の土地4億エーカーを、農民に譲り渡すこととなった。  さらに1918年1月に開かれた第3回ロシア・ソヴェト大会では、全ての工場、鉱山・運輸機関などを国有化した。8時間労働の確

      • 20240512学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-1 ロシア革命

        20240512 『三つのインタナショナルの歴史』 第29章 ロシアのプロレタリア革命(1917年11月)  1917年6月から11月というのは、ロシアにおける共産党の急速な発展と革命の準備の重大な時期であった。ケレンスキー臨時政府は、戦争を継続し、農民には土地を与えず、民主的自由を制限し、コルニロフの反乱に加担し、国民の信用をすっかりなくした。もはや臨時政府に政治を行う資格はない。  7月26日から8月3日、共産党はペトログラードで密かに第6回党大会を開いた。3月革命当時

        • 20240505学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-3 革命への道

          20240505 『三つのインタナショナルの歴史』 第28章-3 [革命への平和的な道]  マルクスは、イギリスやアメリカでは平和革命が可能だと言っていた。しかしレーニンは、帝国主義時代にあってはこの考えはもう当てにならないと考えていた。専制政府の諸国においては、武装革命の必要性を強く指摘した。にもかかわらず、レーニンは、ブルジョア的なケレンスキー政権の初期の民主主義的な段階においては、まだロシアには平和的に社会主義化することができると考えていた。労働者と農民の革命勢力が

        20240601学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-3 革命の防衛

          20240504学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-2 党の革命綱領と臨時政府の改造

          20240504 [党の革命綱領]  3月革命のとき、レーニンはスイスにいた。レーニンはこの革命を、闘争の第一段階に過ぎないとみていた。『遠方からの手紙』の中で、レーニンは労働者階級に次のような言葉を寄せた。最初、1848年の革命の時にマルクスが述べ、そして1905年にレーニンが説いた、永続革命の理論である。トロツキーは自分が最初にこの理論を作ったと言っているが、これは嘘である。 「早晩、(おそらくは私がこの手紙を書いている現在でも)諸君は、帝国主義戦争をやっている地主

          20240504学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-2 党の革命綱領と臨時政府の改造

          20240503学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-1 ロシアのブルジョア革命

          20240503 【第28章 ロシアのブルジョア革命(1917年3月)】 1917年1月、バクーとニジニ=ノヴゴロドで大規模なストライキが起きた。1月9日にはモスクワの労働者の3分の1がストライキに加わった。世界はこのロシアでのストライキの発展に度肝を抜かれた。 3月3日、ペトログラードの巨大なプチロフ工場の労働者もストライキに突入した。3月9日、ボリシェヴィキは大デモ行進を組織した。その時には約20万人の労働者がストライキに参加していた。翌日の3月10日、ストライキは

          20240503学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-1 ロシアのブルジョア革命

          20240407学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-3 カウツキーへの批判

          20240407 [1916年のアイルランドの反乱]  第1次世界大戦中には、ヨーロッパの様々な被抑圧民族の革命的な抵抗が増大した。1916年の復活祭の週にアイルランドで起こった反乱が、最初に起きた反乱としてはっきりとしたものだっただろう。アイルランドは長い間イギリスの支配と搾取に対する闘争を続け、それは700年にも及ぶこととなる。マルクスは、アイルランドの独立運動を非常に重要視していた。それは、抑圧されているアイルランド人だけの問題ではなく、イギリス資本主義に対する全般

          20240407学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-3 カウツキーへの批判

          20240331学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-2 ツィンメルワルド運動

          20240331 [第1回ツィンメルワルド会議]  1915年7月11日、イタリア社会党はベルンで予備会議を開いた。イタリア社会党は一般的な反戦会議では大政党に利益を与えると考え、自分たちだけの責任で会議を開こうとしていた。その反戦会議が、1915年9月5日から13日まで、ベルン近くの小さな村ツィンメルワルドで開かれた。  この会議には、ロシア、ドイツ、フランス、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、イタリア、オランダ、スイス、スウェーデン、ノルウェーから、38人の代表が出席

          20240331学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-2 ツィンメルワルド運動

          20240324学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-1 第3インタナショナルの設立

          20240324 第3部 第3インタナショナル(1919〜1943年) 第27章 ツィンメルワルド運動(1915〜1917年)  第1次世界大戦で、第2インタナショナルは組織的・思想的にいくつかのグループに分裂した。組織的分裂は、同盟国側の党、連合国側の党、さらに中立諸派の党、そして、これらのうちどれにも当てはまらなかったロシアの党に分裂した。思想的分裂としては、右翼、左翼、中央派の分裂が第2インタナショナルで終始問題となっていたが、戦争が長引いたことによってより国際的組

          20240324学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-1 第3インタナショナルの設立

          20240323学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第26章 第2インタナショナルの役割

          20240323 『三つのインタナショナルの歴史』 第26章 第二インタナショナルの役割(1889〜1914年)  第2インタナショナルはマルクス主義的組織として発足したが、1914年8月4日、ドイツ社会民主党が皇帝政府の戦争予算に賛成投票した時を境に、次第に腐敗していった。  レーニンは言っている。「第2インタナショナルの破産は、過去の(いわゆる『平和的な』)歴史的時代の特殊性の地盤の上に育まれて、この近年にインタナショナルにおいて事実上の支配権を獲得していた日和見主義の

          20240323学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第26章 第2インタナショナルの役割

          20240317学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-4 帝国主義戦争としての大戦

          20240317 [帝国主義戦争としての大戦]  ボリシェヴィキ、特にレーニンをはじめとする左翼は、第1次世界大戦について、不正で、侵略的で、反動的で、帝国主義的戦争であると主張した。これに反して右翼と中央派は、この戦争はそれぞれの国にとって正義の、民族的な戦争であるとしていた。  レーニンは、1914年9月5日の戦争に関するテーゼの中でこう言っている。「ヨーロッパ世界大戦は、ブルジョア民族主義的な、また王朝的な戦争の特徴を鋭く表している。市場を求め、諸外国を略奪する自由を

          20240317学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-4 帝国主義戦争としての大戦

          20240316学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-3 祖国防衛

          20240316 [祖国防衛]  この戦争を支持するために社会民主主義諸党が掲げたスローガンが、「祖国防衛」というものである。このブルジョア的スローガンを、彼らはマルクス主義と見せかけることに苦心した。「この戦争は民族戦争であり、いまや国民の利益が重大な危機に瀕している。したがって、自分たちが戦争を支持することは正しい」というものである。そして、「攻撃軍が国境に迫っているこの時に、自分たちの祖国も自ら防衛するしかない」とした。彼らはこうした方針を、ブルジョアジーの言葉とほと

          20240316学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-3 祖国防衛

          20240303学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-2 いかにして裏切りは起こったか

          20240303 [いかにして裏切りはおこったか] 1914年7月23日、国際社会党事務局はブリュッセルで会議を開いた。この会議では、労働者会議第104回大会を8月9日に開催することを決定した。もともと第104回大会は8月23日に開くことになっていたが、これを繰り上げた。この大会では、労働者のための国際的に統一した政策を打ち出すことを予定していたが、開催されることはなかった。国際中央組織の弱さと、主だった諸党がこの会議を要求することをしなかったためである。 8月2日、ド

          20240303学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-2 いかにして裏切りは起こったか

          20240223学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-1 第一次世界大戦

          20240223 『三つのインタナショナルの歴史』 第25章 重大な裏切り ── 第一次世界大戦 エンゲルスが予言していたこと。 「1500万ないし2000万もの武装した人間が互いに殺し合う」 これは、第一次世界大戦のことである。 第一次世界大戦は、大資本主義列強の間に積み上げられてきた、帝国主義的諸対立の爆発であった。戦争は、資本主義にとっての本質的なものである。 戦争への直接の引き金となったのは、1914年6月28日、セルビアのサラエヴォで、狂信的なセルビア

          20240223学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-1 第一次世界大戦

          20240127学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-3 第2インタナショナルの右翼と左翼

          20240127 『三つのインタナショナルの歴史』 [世界大戦前夜の右翼と左翼] 第一次世界大戦が勃発したとき、第2インタナショナルにおける重要な諸党のほとんどが右翼分子に支配されていた。ドイツ、オーストリア、イギリス、フランス、ベルギー、そしてスカンジナビア諸国の党である。アメリカなど他の国ではたいてい中央派と修正主義者が提携して支配権を握っていた。が、中央派のクループは右翼との協力を密接にしていった。これに対しレーニンは次のように批判している。「『中央派』は、甘ったる

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          20240108学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-2 第2インタナショナルの諸勢力

          20240108 『三つのインタナショナルの歴史』 [第2インタナショナルの諸勢力] 第一次世界大戦の前夜に、第2インタナショナルは、22ヵ国の27社会党・労働党を加盟させ、全部で約1200万の選挙民を掴んでいた。ローウィンによれば、主な内訳は次の通りである。 ・ドイツ社会民主党  党員108万5000人 425万票(1912年) ・オーストリア社会党  党員14万5000人 104万1000票(1907年) ・チェコスロヴァキア社会党  党員14万4000人 ・ハンガリ

          20240108学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-2 第2インタナショナルの諸勢力