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未来のこどもに伝えたいこと #1

世界平和を考えると並行して、未来のこどもに伝えたいことも書き残していこうと思います。

今までのブログや本は、死ぬつもりだったので、書き置きのように書いていたものだったのですが、ここからは、生きていける自信が付いてきたので、自分の将来の子供のためになるような知恵を残していきたいと思います。

また、このブログを見つけてくれた方で、俺と話してみたい、とか、付き合ってみたい、そんな方にも出会えるといいなと思っています。この情報発信から、俺の人生の仲間やパートナーが見つかったら、とても素敵だなと思っています。

絶対に大切な事

まず、絶対に教えたい・考えて欲しいことがあります。
それらから、書いていきます。

1個性と複利

個性とは何か?複利とは何か?です。

これらは、一見、まったく関係ないですが、俺の中では密接に繋がっています。なぜなら、「個性とは、幾多の選択(意思決定)の連鎖の軌跡(物語)」と考えているからです。そして、「複利とは、幾多の選択の連鎖による積み重ね(研鑽)」だからです。

私たちは、日々、無数の選択をして生きています。それがDNAになれば、遺伝子として、それが、その人の人生であれば、個性として、それが、全員であれば、地球の意思や、政治、歴史として、私たちは、そんな選択の連鎖の軌跡の上に生きています。

個性は、先天的なものもあれば、後天的なものもありますが、どちらにせよ、使う言語、地域の文化、時代の文化、というその瞬間の価値観に大きく依存して、評価されるものです。

「我考える故に我あり。」というデカルトの言葉がありますが、個性というものは、結局の所、どこまで行っても、「その人が自分をどう考えるか?」で、決定づけられるものです。

そして、私たちの行動というのは、考えた通りに動きます。これはできそう!と思えば、やれるまで頑張れます。ですが、これは無理そうと思えば、諦めるので、無理でしょう。「生きるというのは、意外と思うように出来ているものです。」

そのうえで、こどもには、自分の個性を良く考え、複利として、積み上げて欲しいのです。「塵も積もれば山となる」これは、好きな言葉ですが、言い回しが好きではありません。塵だなんて思わずに、1つ1つの行動すべてに、大きな意味がある。「選択はすべて宝だ。」そう思って欲しいのです。

2愛情と内的動機

しかし、何かを積み上げるには、土台が要ります。風から守る壁もいります。「愛情というのは、2種類あると俺は考えています。」

1つは、内的愛情で、土台の方です。心が空っぽだと、何かを好きになることはできません。何かに挑戦することもできません。何をするにも、心のエネルギーが必要です。それが、愛だと考えています。

これを貯めていき、土台とするには、とにかく色んな「好き!」「愛してる!」「大切!」「守る!」そんな感情に当てられ続ける事です。言語を赤ちゃんが学ぶのと同じようなものです。たくさん浴びて、少しずつ、真似して、形作られるものだと思うんです。

でもこの土台というのは、たかが土台です。壊れることも当然あります。でも、だから当然、時間はかかりますが、直すことも、作り直すこともできます。そして、壊れたからと言って、すべてが無駄になることもありません。たしかに、今まで積み上げた何かは、消えてなくなったように感じるでしょう。しかし、想い出という記憶や感情は残る様に、私たちには、何かを大切に保存する器の様なものもあります。ここには、土台の上で成し遂げたことの何かの分だけ、器が大きくなったり、溜まるものが増えていくように感じます。

土台を創り、積み上げていく。
積み上げた結果、何かを得ていく。
それが器として溜まっていく。

この器の力で、また土台を創ったり、誰かに愛情を教えてあげたりすることが出来るように思います。

2つ目は、外的愛情で、これは、壁の役割です。何か脅威が訪れた時、人は1人では全くの無力です。簡単に土台は壊れ、器も壊れ、立ち上がることは出来なくなってしまいます。そうならないように、私たちは、どんな形であれ、支えてくれ、守ってくれる壁を必要とします。

それが多くの場合は、まず、親となります。しかし、親によっては、子の役割を放棄する人がいます。その時は、地域の大人が、他の大人が、その役割を担います。そして、さらに言えば、国自体が、この壁となっています。

壁である、外的愛情だけでは、内的愛情を育てることはできないですが、壁が無ければ、内的愛情は、机上の空論(理想論)となり、簡単に吹き飛んでいきます。壁が無くても立ち上がれる人が居るのかもしれませんが、そこにも、見えていないだけで防壁はあるのかもしれません。俺が考える「人」は、そんなに強いものではないですから。

だから、友達を創り、恋人を創り、家族を創り、会社を創り、と、私たちは、集団で防壁を築いていくのです。


この2つの愛情を、土台・器・壁の3つとして、持つことで、私たちは、個性を積み上げていくことが出来るようになります。


3自信と覚悟

以上で、十分とはまだ言えないです。なぜなら、これまでは、「我考えるゆえに我あり」という認識の中でだけ、話を進めてきました。しかし、この「我考えるゆえに我あり」には、欠陥があると考えています。それは、「我考えるゆえに我あり」を観測する何者かと、その観測をした何者かを、観測した第3者という、観測の連鎖の必要性を無視しているからです。そうでなければ、「我考えるゆえに我あり」と思ったところで、我の存在証明は出来ないんです。

だからこそ、私たちは、俯瞰(メタ認知・観測)という能力を持っています。物事を抽象的に捉えて、まるで、自分を上から眺めているかのような感覚で、物事を理解・把握・思考することです。これを「セルフ観測」とでも言いましょうか。これが、「我考えるゆえに我あり」なのです。これで、二つ目の観測者はある意味クリアしているのですが、結局、それを観測してくれる第3者がいないと、成立しないという事です。だから、私たちの人生には、「他人」、という他者の存在が不可欠です。

そして、これを踏まえて、「自信とは、個性と愛情を俯瞰(メタ認知・観測)すること」と考えています。つまり、自分は、これまで、どのような愛情を受けてきていて、どのような土台、器、壁を持っていて、どのような選択を過去にしてきて、これからどのような選択をしていきたいと考えているのか?ということを、観測することです。自信というのは、「我考えるゆえに我あり」という言葉通り、自分がこの世界に存在していることに対して、自覚し、証明しようとする行いなのです。

そして、個性と愛情と言っている理由は、その2つこそが、我の定義だからです。自分とは何か?、何者なのか?と考えたことはあるでしょうか?これを考えたところで意味が無いと思って、考えることを辞めた方も多いと思います。しかし、その人たちは、すでに自信があるからその選択をすることが出来た人たちです。

自分を観測する手立てが無ければ、私たち個人は、個人として確立せず、自我は軽薄で、流れに身を任せて生きているだけで、まるで何か大きなものの流れの中に溶けて消えているような、消失感が支配します。もともと、そうであれば、さほどダメージは無いのですが、中途半端に大切にされて、土台と器と壁がある状態で、自信を持てなかった時、私たちは、そのギャップに圧倒されて、潰されます。これが、私が考える、「唯一、人のみが自殺する原因」だと思います。

ですから、自信を失わないように、私たち人間は、自らを俯瞰する必要があります。これが、人として生きていく最低限の社会的能力であると考えます。

しかし、先ほど言ったように、俯瞰だけでは不十分なのです。第3者の承認があって始めて、私たちは自信を持つことが出来ます。その方法はシンプルです。対話をすることです。

対話をする中で、「自分視点の俯瞰」と、「他者視点の観測」のズレを認識することです。ここで、私たちには、「覚悟」が必要になります。

「失敗は成功の基」と言いますが、私たちのこの俯瞰の視野と、他者の観測の視野は、視点が違うのですから、当然全く異なります。全く一緒になるわけなどないのです。ですから、生きるというのは、ズレがあることを出来るだけ早く認識しておいて、それは当然のものとして、理解すれば、あとは、「そのズレを踏まえて、どうやるか?」を考えることに時間を使えるようになります。そうすれば、「どのようなズレがあるのか?」を理解することに時間を使おうとするのも自然な意思決定であると感じます。

そして、「覚悟というのは、このズレがある前提を理解し、それでも挑もうとすることです。」ここで言う、挑むというのは、生きるという事です。ズレているから、生きていても無駄だと思ってしまったら、そこで人生は終わりです。ズレを受け入れていくのは、相当なストレスでしょう。だから、覚悟という言葉を当てはめました。ですが、そのストレスの先にあるものを、こどもたちには、目指してほしいと思います。


4定義と変化

ここまでが、個人の力に焦点を当てたものでした。

ここからは、社会的能力に焦点を当てます。

そして、社会的能力で一番に身に付けて欲しいことが、「定義を知る力、定義を疑う力、再定義する力」です。これを、一言で、「変化の力」と呼びたいと思います。

1で、時代とともに個性の評価は変わると言いましたが、それはつまり、時代によって、社会によって、定義が変わるからです。そして、社会や時代を創る、すべてのはじまりが、定義です。個性ですら、この定義から始まります。

その集合体が、言語です。さらに、その結晶が、法です。

だからこそ、こどもたちには、もっと色んなものを変えていくために、色んなものを「再定義」してほしいのです。

言語圏や、国家圏があるように、私たち人類は、この2つの定義圏で、定義の陣取り合戦をしています。それだけ、定義には力があり、よって、使い方によっては、争いになります。

定義を浸透させるというのは、人を洗脳することでもあります。では、教育とは何なのか?と、過去に悩んだので、それについては、こちらをご覧ください。

簡単に言うと、洗脳は、自由を奪うもの。教育は、自由を生むもの。と結論付けました。

上手に、定義を使いこなし、社会を変えていって欲しいと思います。

5人として

最後に、これはこどもたちに課題として、出したいのですが、「人として、どうありたいか?」を俺は、1~4を教えたうえで、考えて欲しいと思っています。

人とは何か?
自分はどうありたいか?

この2つを考えて、行動してくれれば、たくさん間違えたとしても、答えを見つけてくれると思うからです。

あとは、論文で書いたように、色んな人の生き様から学んで育ってほしいなと思います。

あとがき

では、以上で、第1弾でした!!

今後も、この5つを土台に、こどもに教えたい事・こどもと一緒に考えていきたい事を書いていきます!

問い合わせ

https://lin.ee/bC9MCSU

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