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宿業を解く 那羅延堅固像⑭

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。言葉は言葉によって支えられ、言葉を追いかけ続けて調べていくと、全てが繋がり合う宙に浮くようなものに辿り着くのが解ります。心理カウンセリングとして、相談を受けると「悩みの一言」の中に解答に繋がる全てが因果が含まれています。それを紐解けば心は解放され、気づきをもたらし、現実が相対的に変化して幸せだったとわかります。(54/88)

三十三間堂の二十八部衆について一体ずつリーディングで意味や解釈の助けとなる情報を紐解き紹介しています。

二十八部衆は、7仏×4(受・想・行・識)=28 とした扱いで考えられていると、リーディングで降ろされるもので、千手観音の解釈の一つ一つを表現するものです。

①〜⑦までを「行」
⑧〜⑭までを「想」
⑮〜㉑までを「受」
㉒〜㉘までを「識」

本来は、受想行識と、物事は受け止めてから想いが働き、行動に移してそれが記憶されて意識しなければそれを保持している理由もわからなくなるものです。

今の時代は、「どう行動しているか?」とした客観性が高く、どのように「受け止めている認知しているのか?」や、そこから何を選んで「気持ちとして想いを秘めているのか?」としたものは、見えにくくなっているところがあります。

意識、無意識という表現が出来るように、「識」とされる領域は「無意識でも機能するもの」ですが、「意識することで、記憶の解釈を修正することが出来る」ものです。

「識」というものは、「十識」という認識があり、「眼識(げんしき)、耳識(じしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜっしき)、身識(みしき)、意識(いしき)、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、阿摩羅識(あまらしき)、乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」という記憶の補完方法が存在しているものです。

この部分にアプローチをしなければ、認知の歪みや、想い違いの修正などは起こせないもので、それが変われば自ずと行動も変えてしまえるものです。

七仏がチャクラに相当しているとされても、薬師如来の背景に七つの仏が存在しているからといって、それがどのような意識で成立し、どう病に対する加護や医者的な癒しや、薬とした手当てがもたらされるのか? その実践的な効能の方が重要です。

手を合わせて祈願したり、祈祷すれば治り、それが効果が絶大であるなら、今の時代のような仏教の衰退は見られない筈です。

14番目の仏像は、仁王像で知られる「那羅延堅固(ならえんけんご)」です。阿形(あぎょう)と知られ、吽形(うんぎょう)「密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)」を為しているのが有名です(金剛力士と密迹力士(みっしゃくりきし))。寺の門で迎え入れてくれる仏像です。

「阿吽(あうん)」で知られる仁王像は、神社の狛犬阿吽セットになっており、口が開いている「あ」と、口が閉じている「ん」で宇宙の全てを表しているとされているものです。

ググると、那羅延天(ならえんてん)では、ヴィシュヌ神とも扱われ、梵天(ブラフマー)の別の姿とも紹介されているものです。梵天の中には、シヴァ神(自在天)も含まれ、三神一体と扱われるものです。

ガルーダに乗るヴィシュヌ神の図があります。

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ガルーダ=迦楼羅(かるら)であり、ヴィシュヌ=那羅延天(ならえんてん)であるという意味合いは、大勢の人々を同意させる力の象徴でもあります(維持神)。

仏法僧で表現するなら、仏が創造主、法が維持神、僧が破壊神とされる部分が重なり、その法(真理)を扱う部分が阿吽で表される那羅延堅固(ならえんけんご)(阿形)と、密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)(吽形)とで挟まれている構図になります。法(真理)は、阿(あ)〜〜〜吽(うん)まであり、宇宙の隅々まで見透しているかどうかになります。

である創造主は「わたし」でもありつつ、意識の根源的な部分でもあります。立体曼荼羅では一番目に梵天があり、中心の二十一番目に大日如来があるように、全てが同じ一つのことを指しているなら、意識の表れを別の側面で表現しているものたちの一つです。

私たちが『意識』という言葉を使い、「背面を意識してみてください」と指示を出したとき、正しく「意識」が動いているのかどうかは、使っている本人さえ知らないことがあります。

日本人に多いのは「意識して」と指示され、動かすのは「意識」ではなく「身識」が動くものが多くあります。次いで「舌識」を動かしている人がいます。「耳識」を動かしている人もあり、『意識』を動かせている人もいますが、多数派ではありません。それくらい、習っていなければ言葉と行動を一致させられている人は少ないことになります。

「身識」でも「舌識」を使っていても「意識」しているかのように振る舞えますから、生活において問題はありません。

梵天とした意識の表し方や、那羅延天を那羅延堅固(ならえんけんご)と密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)の対に分解した表し方があるものです。

七つ目のチャクラに相当している⑭の那羅延堅固(ならえんけんご)は、意識の表し方の一側面でしかないものです。「阿(あ)」と表すだけに、宇宙全体を網羅するイメージになるものです。

そうした意識の表れから捉えられる世界を示しているものです。

それは壊れることや、崩れることもなく、それに誰しも従うものとなる為、金剛力士(こんごうりきし)として仁王像と紹介されるものなのです。

那羅延堅固(ならえんけんご)⑭

那羅延堅固

人は何か異変に気づいたとき、洩らす言葉が「あ」という音です。

異常を感じたり、通常の流れではないと洞察した時、立ち止まる感覚「あ」です。

その変化点を探る意識の現れのことを、那羅延堅固(ならえんけんご)として、抽出したもののことです。

迦楼羅⑧と共に異常を探れと那羅延堅固⑭

は自己犠牲を強いる流れは、耐えられなくなるものです。

我慢の限界が来て、辛く、苦しい現状の打破を考え始めたとき、「気づき」に結びついて、価値観の大転換が行われる時が訪れます。

「ああ、そういうことか」

とした、ずっと懐疑的であり、これは何かおかしいと感じていた答えを得るまでの間、無意識下においても「あ」と、した探す意識は働いていたのです。

その働きが「那羅延堅固(ならえんけんご)」です。

無意識下においても、使っている意識のこととなります。

それを意図的に使う場合は、「あー、なんだっけな」と、思案するものです。

この思案する意識の検索するイメージが宇宙全体に360度全方位に放たれている状態のことを指します。

しかし、これが機能しなくなることがあります。

自己犠牲で良いと、異常を異常と思わないように役割を放棄することです。

第七チャクラは、王冠(クラウン・チャクラ)とされるように、高い神の眼とするような意識の領域から、自身を俯瞰するようなものです。それが機能しない状態になると、自己犠牲を継続することや、犠牲を強いられることに対して違和感など覚えなくなり、父親が我が子を虐待する姿を、母親が止めもしないなど、役割が放棄されている状態があります。

「①自棄」とした、親が子を、師が弟子を捨て去る状態が重なる故に「自己犠牲」が継続されるものなのです。

「誰も助けてくれなかった」と、つぶやいている自分が居るなら、そのつぶやいている自分こそが立ち上がり、「あ」見捨てていたのは私自身ではないか? と意識を働かせ、「逃げ出す」や「助けを求める」などすることです。

「これ以上の最悪はない」と思えると、「①自棄」からの脱出が可能になります。

阿修羅⑧と直視しない那羅延堅固⑭

人との関わりにおいて、想定される関わりが得られないと「人間不信」に陥ります。

普通は、そんなことしない。

常識的に考えても、こういうときはこうするべきもののはず。

と、我が身に訪れる不遇の体験において、「不信」になる気持ちを受けると、「あ」、こんなことは異常だから、「報告しよう」と次の行動に直結してくる流れを支えるものが「那羅延堅固(ならえんけんご)」です。

無意識にも自身が不当に扱われていると感じるなら、適切な対処をすれば状況は改善されていくものです。しかし、不信感というものは、相談する相手報告する相手もいなくなる程、孤立してしまうのです。

那羅延堅固が不在になることを「②自傷」と呼ぶこととなり、「不信」のまま、自分を見殺しにする真似を維持させてしまいます。

目に見える自傷行為に発展すれば救済する可能性も出て来ますが、リストカットなど自傷行為を見つけても、親子の不信感や、社会における大人全般の不信感や、自分自身に対する自己不信感など、多岐に渡る為、自傷行為を見つけられても救いの手を差し伸べることが困難なことがあります。

那羅延堅固を機能させるには、「あー」と全宇宙、全方位に向けて声を発声させ続けることです。この時、自傷行為をイメージしながら「あーーーーー」と発声すると、突如泣けてきたり、フラッシュバックの辛い体験を思い出すなどして、自傷行為の根源となる想いを検索し当てることになることがあります。(※発声のワークは自己責任でお願いします。危機感がある方は、フラッシュバックするなどして緊急事態に陥らぬよう周りに人がいる環境などで試みてください)

自分の窮地を救い出すのは、自分自身です。

金色孔雀王⑩の無視と那羅延堅固⑭

人が何かしらルールや決まり事を破る時は、言い訳する正当性を持っています。

「親が悪いから、自分はこうなったんだ」

「あいつがこんなことしたから、こうするしかなかったんだ」

と、自分なりの行動における気持ちの責任転嫁があるものです。

それでもその卑劣な行為や、卑屈な考えの果ての行為は、見つかれば「あ」と、自分が悪いことをしている自覚があり、バレてしまった事実を直視出来ずに落ち込む姿があるのです。

正常に那羅延堅固が機能しているときは、こんなことしたら「捕まったとき人生を棒に振る」など、リスクを考えるととてもではないが取り組めないものです。

那羅延堅固の機能が麻痺している時、卑劣な真似や、卑怯な行為に突き進むのです。その時の状態を「③自死」と呼び、心が死んでしまっている故卑屈な価値観しか持ち合わせなくなっているものなのです。

「どうして自分をそんなに悪く扱うんだ!」と、必死に訴え、助け出す仲間がいても、全く響かない「③自死」した心があるのです。

「いいから放っておいてくれ」

そう言い放つしか手立てが無いほど、自分でもどうしていいかが解らないほど、捻くれてしまい、正気に戻りたくても、戻る道筋が見えなくなっているのです。

治すには、自分を「死んだことにする」と全宇宙に向けて、全方位に「死にました」と宣言するようにしてみることです。

身投げするように、既に「③自死」しているのですから、失って困るものはないとイメージしてボロボロに浸りきってみることです。この時の「手放し感」那羅延堅固の意識「あーあ」と、何もかも終わってしまったというイメージと共に、墜ちきったイメージを自身を深淵の闇に放り込むことが出来、そこに隠した恐怖と対面出来ると、治る可能性があります。

「諦めては駄目だ」という希望を持たせようとすることが、改善の機会を失わせてしまうこととなるので、「諦めよう」と終わらせてから、再出発させることが道であると気づけると終われます。

緊那羅⑪の世界と那羅延堅固⑭

心が絶望した体験をしても、人はそれを自覚することが困難な時があります。

何故なら、絶望した時点で心を閉ざし、閉ざした感覚で物事を捉えるため、絶望そのものを認知出来なくなるからです。

「絶望」したと同時に那羅延堅固の働きは機能しなくなります。それは「④自責」を繰り返すこととなり、表情が硬くなり、笑っていても表情に出にくくなります。

「あぁ」と、気のない返事などで、指示などに従うことはあっても、自発性が消失するなどし、周りからも心配されることが起きてきます。

自分の殻に閉じこもれるタイプは、達観したものの見方に終始するようになり、割り切り型として行動するようになります。

「④自責」からの回復は、宇宙全体に全方位に向けるイメージで限界を越えた先までイメージを広げ、それを反転された感覚で物事を洞察してみると答えが見つかるかも知れません。

生きながら、生まれ変わりが出来ると回復出来ます。


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第五チャクラ、畢婆迦羅像⑫
第六チャクラ、金比羅像⑬
にまつわる内容と、第七チャクラ、那羅延堅固⑭のまとめが解説してあります。

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