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紐解け! 薬師如来と日光菩薩

リーディングマスター・まさみちです。普段は見えないものを見透す深層心理や潜在無意識や集合意識に呑まれて大変な思いをしている人たちの心の病を治す、心理カウンセリングをしています。顕在意識では捉えられない微細な心の働きを読み解き、叡智を閃き降ろして道を示して楽にすることをしています。見えないものを見る力は、盲目の人の方が、目が見える人より物事が深くよく解ることがあるイメージを、具体的に論理的に解説することまで出来る力です。言葉に出来ない仏の世界を、言葉にして表現するのは、多面的側面の一部分しか説明出来ない為ですが、少しでも仏や仏像というものが、神秘な力を秘めており、病気を治すなどに有効な力添えをしてくれる存在であることを伝えたくて記事にしております。(14/88)

これまで、薬師如来の十二神将について①〜⑫まで紹介しました。

前回は、宮毘羅大将です。記事を遡って読んでいくと、薬師如来の側面が見えてくるかと思います。

無限ループの思考の罠に陥ると、抜け出せない概念に埋没してしまい、心を煩い、それが体まで影響を及ぼしてしまうと、体を治そうとも心も同時に治さないと治らないものなのですが、これが心と体を全く別物と考えている人たちには、ピンと来ない話となり、知っているつもり、やっているつもりということとなり、祈ろうが願おうが役に立たないことになる問題があるようです。

嘘でも優しいことの方が嬉しいと感じるのが人のエゴというものです。

本当のことを告げる方が優しいけれども、嘘の優しさで慣れきっている人に取っては、本当のことは冷たく感じるものです。その為、本当のことは聞きたくありません。本当のことを知らないまま放置すると、病気になるとでも思っていただけるとよいです。

病気のメカニズムを考えてみると、薬師如来の働きや、その両枠を固める、日光菩薩や月光菩薩の役割が見えてきます。

その前に、まず名称をリーディングして、言葉の成り立ちを紐解きます。

薬師如来「薬」の字の部首には草冠「艹」があり、その意味は「助け合う相補の関係で成り立つもの。切り離せぬものであり、相対するものは同質のものである」といったニュアンスがある為、「薬」という字は、「楽」という字が含まれています。楽しむには「共に在ること」であり、「友に成ろう」とすることを示しているものです。

「楽」は「樂」が異字体であり、「薬」にも「藥」という異体字があり、この「幺(よう)」という部位には、「隔てようが無い縁の結びつきがあり、一人では成り立たない物事の仕組みがあり、相互の結びつきが生まれて意味を成すもの」といった意味合いもあるようです。

更に字を解体すると「白」という部位には「何もないところから物語りが始まるものであり、信じ合う中だからこそ、未知なる世界をより良いものとしていけるとするもの」といった解釈が隠れているようです。

「木」という部位には「男女が互いに相手の望みを叶える為の働きを担おうとするものがあり、異性を輝かせる為の想像力を生み出すもの」といった閃きセンスというニュアンスが含まれているようです。

「藥」「楽しみを失って病気にかかった人を治す為の文字です」から、大前提に異性に対する繋がりや結びつきにおいて、魅力的であり、惹かれるような美しさや清らかさがあることが大切であるのが欠落したと見えてきます。

子どもは大人になり、伴侶を持つことを自然の流れと定義するなら、「幺」の文字から男女が惹かれ合い、結ばれて人生を共に生きるようになる流れがあります。結婚し、子を授かることに限らず、異性に対する結びつきや関わりにおいて「互いを認め合い、高め合い、喜ばせ合い、慈しみ合う」ものだと教わり、未知なものに対する恐れを消し去る間柄であることが望ましいと解りますが、未知なる恐れを増幅してしまうことで病いを呼び込んでしまうのです。

「白(はく)」という人生における今この瞬間は何も定まっていない自由な創造性溢れる世界において、どんな世界を今生み出すか決まっていない連続体があるものです。継続的な歴史など「ない」にも関わらず「ある」と執着することで見ている証拠を元に縛られた発想に閉じ込められると、気が淀み、病いにかかってしまうのです。

特に異性との恋愛事情での失態や、喪失感は転生してやり直せる機会を得られても永続的に哀しむことを選んでしまい、どれだけ再起をかけようとしても失った事実に目を奪われてしまい、永遠に喪失感に執着して「白紙」に戻してやり直すことが出来なくなる心もあります。過去世の喪失感と、今生での結婚観に折り合いがつかないと、病いになることもうります。

どんな時でも春が来れば芽吹く力が働くのが自然の流れです。それにも関わらず、人の持つ「木(気)」は、異性とのトラブルがあると冬のままでいようとし、どんなに手間暇かけて育てても、一向に芽吹かないことがあります。肥料や水という大量の愛を親が与えてしまうと、恋愛よりも親に依存して自立しないような病いを生み出すこともあります。見た目は結婚していても、心は親の依存の中にある場合なども同じ事で、病いにかかり、必死の看病も虚しく親から自立したくない思いは結婚している夫婦の中さえも引き裂く病魔で命を失うことさえあるものです。

そんな「樂しみ」を欠落した人が、「共に在る喜び」「友として側にいる嬉しさ」を与えてもらうことが「藥」としての機能があるのです。

「薬師」というのは、塗り薬、服用する薬を調合する偉い医者のような存在に思えるかも知れませんが、それに加えて「異性や純粋な自分自身との関わり方である、楽しみを失った人に、再び喜びと嬉しさを取り戻して楽しませる存在」のことを師として扱うのです。つまりは親友を指すのです。

「薬師如来」は、そんな心がズタズタに引き裂かれて、人を信じることなどしたくないと言い張り、体まで病いに冒されて苦しむ者たちを、天の閃きで全てを読み解いて、回復する存在の例えとしている仏であり、人の意識の在り方のことを指すのです。親友なら、どんな苦境でも付き添い、嘆き倒れている友が立ち直るその時まで、役に立つ知恵知識を揃え、側にいて、「自分が愚かだった」と気づいて上を見上げた時、「待っていたよ」と横で笑いかけるような存在のことを言うのです。

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十二神将を従えているように、様々な無限ループの思考の罠に陥って、人と人との触れ合いを無意識下で拒む者たちに救いの手を差し伸べる優しい人の心の姿を具象化しているのです。

それと横並びに居る日光菩薩や月光菩薩がいて、如来に対して菩薩というレベルですから、素直に聞き入れることは出来なくても、真っ当なことを伝えてくる家族の姿を具象化しているものです。

繋がり方
日光菩薩は、360度のどの角度にも日光菩薩を多数配置したイメージを持ちます。自分を中心に、あまたの日光菩薩に取り囲まれていて、逃げ出す隙が一切無い状態にします。自分の前に鏡があり、それに映し出されているのが薬師如来です。この三つのイメージを同時に保ちながら、病いとなる部位や、病名などかかった理由を探ります。「健康になりました」と鏡の薬師如来の自分と、360度取り囲む日光菩薩に告げると、様々な雑念が浮かび上がります。その雑念を全部拾い集めて書き出していく作業を続けることです。「健康になりました」と告げると、鏡の中の薬師如来も「健康になりました」とオウム返しをしてくれたとき、気にしている病いは治るものです。同じ課題を何度も繰り返して病症が消え去るまで続けることです。

このように日光菩薩は、文字通り「日の光」ですから、隠しようが無い前提で取り組む姿勢こそ大切にしなければなりません。「言い訳できる隙」がある限り、治る病いも治らないと考える必要があるのです。

東寺の薬師如来を見てきました。薬師三尊との繋がり方を少しだけ口頭でレクチャーしていますので、良かったらご覧ください。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

自分「健康になりました」
日光菩薩「言い訳するのをやめなさい」

自分「健康になりました」
日光菩薩「助けてもらおうとすがろうとしないことです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「弱音を吐いて、人の気を引き楽をしようとしないことです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「相手のミスにかこつけて、楽をしていい理由にしないことです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「罪悪感に隠れ、挑戦しないままにいないことです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「不可解なものは知りたくないと、知らぬままにしないことです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「人の話を最後まで聞くようにして、互いに納得行くようにすることです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「自分を責めるのを止めることです」

自分「健康になりました」
日光菩薩「“誰も信じない”とするのを止め、自分の幼心が異性に『嬉しい』と言ってもらえることをすることです」

自分+薬師如来「健康になりました」
日光菩薩「苦しかったですね」

自分+薬師如来「健康になりました」
日光菩薩「報われましたね」

自分+薬師如来「健康になりました」
日光菩薩「愛されていましたね」

自分+薬師如来「健康になりました」
日光菩薩「純粋な気持ちだったのですね」

自分+薬師如来「健康になりました」
日光菩薩「健康になりました」

薬師如来を鏡に見る自分(微笑んでいる)

このようなやり取りになるかと思います。
これは一つの事例であり、このようになるまでには、相当な鍛錬が必要にもなります。純粋な自分の気持ちを言葉にして言い表せるようになるには、不純な言葉を多く吐き出して、身も心も綺麗にしていく段階が必要だからです。

日光菩薩は、関わる人、関わらない人、全てがあなたの味方として存在していることを伝えるものです。全てに意識を向けることで、普段使っていない意識の存在に気づき、その繋がりの中で心を回復する働きを生み出すものです。光あれば影が生まれると錯覚し、太陽そのものに影は生まれないことと、自分自身の純粋な心にも影など存在しないと気づけた時、日光菩薩は私だったとわかる智慧の流れがあります。

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病いにかかるまで、放置してきた認知の誤りがあるのですから、それを正す過程も、また困難でもあると知りつつも、取り組むしか無いものだと身を立てることです。

自分自身が困難に打ち勝つ精神を持つことが出来れば、学びの時間は幾らでも短縮出来ると知っておいてください。

日光菩薩の前に、「隠し事が出来ない」事実を受け入れられるか、どうかが病症から抜け出せるか、否か? といった口先だけで無い誠心誠意を見せられるかがポイントとなるものだと知っておいてください。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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