見出し画像

四天王の身になれ 持国天⑤

リーディングマスター・まさみちです。仕事として心理カウンセラーをしており、相談する言葉の中に含まれる「恐れ」の原因を読み解き(リーディングし)、解決へと導くことをしております。言葉はなくても「中学生の頃から胸のモヤモヤが続く問題を無くして欲しい(現在大学生)」というモヤモヤ相談も明確に識別して、言い当てて解決に誘導出来るのがリーディングのいいところです。識別不可能と思わしき、潜在意識を紐解く力で、仏像たちを読み解くと何が解るか? という記事を書いています。(22/88)

リーディングは、カウンセラー、クライアント、相談内容、相談した結果のいずれもポジティブであることが前提に必要なので、愛のパワーがエネルギー源です。もっぱら、心を傷つける悲しみや恐れなどのフォースが対決すべき相手です。

この著書がパワーの判断か、フォースの判断かの基準となっております。

見えない意識の世界も数値的に証明するものもあり、ポジティブで見合う世界観においては、心の傷も治す方法を紐解けるというものです。この力で仏像に秘められているメッセージを読み解くと、空海が何を残していたかの片鱗を掴めるかも知れないと、解明に取り組んでおります。

四天王シリーズと入り、今回は⑤持国天です。

前回は、④広目天を紹介し、それぞれの四天王の関わりも違うことを説明しました。

北門を守護する③多聞天は、「全ての疑いが晴れるまで問いかけを止めぬこと」として、警戒を怠らず疑心暗鬼になる限り、その感覚を知りうる限り追及するように示すもので、「先々を見据えて、腹を括るしかないところまで研鑽を積むこと」とせよと命じるものです。

西門を守護する④広目天は、「好きなことをして輝き、楽しむ人の見えない努力を見抜こうとすること」として、煌(きや)びやかな世界観に惚れるだけではなく、それを表現するまでの鍛錬や、他人に見せぬ精神性などに眼を向けることと示すもので、「語っては伝わらぬ事を、見せてやることでしか伝えられぬものがあること」として伝承せよと命じるものです。

東門を守護する⑤持国天は、「好きな環境に身を置き、肌身でしかわからないものを得ようとすること」として、何かを修得しようとしたいのなら、どっぷりとその世界観に浸ってみることを示すもので、「寝食を忘れてでも、好きなものに打ち込めるものかどうか自覚出来るようにすること」として、普段から理由を必要としない好きなものでしか生きられぬと命じるものです。

南門を守護する⑥増長天は、「言い聞かせで好きなことをしていないか? 気を惹く為に見せかけで取り組んでいないか? 掛け値なしで好きなことをしているのか? どこまで好きなのか? 考えてみること」として、自分を振り返る機会を与えてくれるもので、「大切な人である親や師から否定されても、“諦める気がない”かどうか? “遠回りをしてでも貫く気持ちがある”のかどうか? “リスクを示され脅されても”止める気がしないかどうか? を自問すれば見えてくること」として、人生を賭けられるものか? と命じるものです。

⑤持国天
問題となる悩みや苦しみというものは、その渦中では解答となるものを見つけられないことがあります。“答えがある!”と信じて探す場合と、“答えは無いか?”と疑って探す場合とでは、結果が変わることを指すものです。人生を体験するのは自身であり、周りから関わる人たちではありません。どれだけ熱心に周りの教えを守ろうとも、守ったことでの良好な感覚も、守ったところで何もならなかった無意味さ感も、自分自身でその結果をその身で受け止めていくしかないものです。どこかに責任を取ってくれる人がいると信じていたり、人を責めている内は人生の舵取りは自分でするしか無いと認めないものです。どんな選択や生き方をしようとしても、生み出されている現実を歩んでいくしかなく、腹を括りこの道を生きると決められた時、見えなかった世界が見えてくるもので、自分の弱さや甘さを育てることや、育て直せるのは自分をよく知る自分しかいないと気づくことです。自分自身が「思い知る」体験をして“もう懲り懲り”と、うんざりする結果を味わった後で、「この人生から逃げ出していいよ」と解放されても、“逃げる方が辛すぎる”と気づいている時にしか、学べないと解るしかないものです。相手の身になって考える力を与えられ、「相手と同じ発想、同じ言動を絶対にする!」と決めつけたものの見方が出来た時、相手の身になった発想を閃き降ろせるようになり、理解する力を得られるようになります。元々自分も、相手も、純粋な思いがあり、何かの事情によって、捻くれることや、不貞腐れることに到ったとするなら、どんな目に遭わされたかを思い返し、どんな気づきを得られたら立ち直れるのか探すことです。隠されている真実を見つけてみせる意思の存在です。

スクリーンショット 2021-03-31 0.11.51

足下にいる邪鬼二体は、自身が踏まれていることの理由が見当たらず、不等であることを訴えるような表情を見せています。

スクリーンショット 2021-03-31 22.16.52

左の邪鬼は、「あなたには出来るかも知れないけれど私には無理」「偉そうに威張り腐って」「誰が言うことなど聴くものか、聴かせられるものなら聴かせてみろ」「あーはいはい、どうせ私が悪いのですよ」といった解釈で、自分の身に降りかかる現実を認めようとしないものです。右の邪鬼は、「何を言っているのか、さっぱり解りません」「幾らでも謝れるので謝りますよ。『ごめんなさい』あと、何言えば解放してくれますか?」「立派な人がこんなことしていいんですか? 訴えますよ」「いつか見ておれ、絶対やり返してやる!」といった解釈を持つ姿を現しています。

天の邪鬼とも称されるもので、言うことを聴く人と、聴かない人がいるなど、その時々で見せる態度が違い、自身が攻め込まれない安全圏にいる時に出てくるものです。持国天の天の邪鬼は、攻め込まれていたとしても「知らぬ存ぜぬ」とした姿を示すものであり、自覚が何より『ない』ことが問題となる為、手に負えないものです。この邪鬼を祓うには、邪鬼の身に堕としながら、救われた体験を持っている者がサポートに入るしか無く、助け出すことが困難な邪鬼です。

繋がり方
持国天そのものと意識を重ね合わせ、自分の方を空っぽにしておくイメージを持ちます。持国天と重なり合った側から、空っぽの自分を見つめるようにして、「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」という経緯(いきさつ)を全部知ろうと、最初から最後まで話を聞く姿勢で取り組むことです。

事例を紹介します。

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「嫌われたくなかったから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「“仲良くしなさい”と教わったから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「“大きな子が我慢しなさい”と悪いのは小さい子なのに謝されたから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「理屈が合わなくて、何もかも面白く無くなったから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「人のせいに出来る奴の方が、有益だと学んだから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「大人はみんなずるいから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「真面目にする人が損をしている社会だと気づいたから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「見せかけだけいい人ぶることで、本音なんてどうでもいいとわかったからこうしている」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「人生は楽しくないと悟ったから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「みんなの苦しみを理解してあげたかったから」

持国天「どうしてそんな風に到ってしまったのか?」
空っぽの自分「こんな風になったら身動きが取れないとわかってあげられるようになりました」

持国天「どうしてあげたい?」
自分「救ってあげたい」

持国天「共に救いに行こう」
自分「はい」

持国天(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かんで来るかと思います。

仏との対話は、自分の純粋な心がバラバラに分離してしまい、欠片の状態になっているものを拾い集め一つに戻す作業をする為です。あちらの仏側の自分と、こちらの空っぽの自分とが統合出来ると、心が治る仕組みくらいにイメージしていただけるとよいものです。

何となくでも、取り組むとよいものです。

最初は、エゴエゴな雑念が渦巻いて、心の整理がつかない感じがあるかも知れませんが、持国天は、国を持つ主になるイメージでいることです。王様でも王妃様でも、国のトップに立ってしまっているイメージです。人生の舵取りをしている自分をイメージすることは、国を動かす大仕事でもあるとイメージ出来ると、この持国天がどんなレベルの心の雰囲気を持っているか、わかるかと思います。

弱音吐こうが、腐りきっていようが、自分の人生の苦痛を受け取るのは自分です。
しかし、天の邪鬼で見られるように、ここの邪鬼は「堪えない」という無痛であり、感覚麻痺して、持国天の立場をボイコットしたまま、真面目にもならなければ、性根を入れ直すこともしたがりません。

「私よ、真面目にやらんか!」と、自分の心で、自分にハッパをかける、掛け声を出している存在が天の邪鬼だったりするというオチがあるので、無言で行為するとか、気持ちや納得する感覚を無視して仏との対話に取り組むことでもしないと、紐解けない心でもあります。

対話は、あまりに腐った言葉など脳内で聞こえてしまう為、途中で投げ出して集中が切れてしまうことがしばしば起きます。その集中を乱す以上に、“懲り懲り”としたこれ以上逃げ出したくないという思いが勝ると出来るようになります。

諦めないでください。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?