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悪口と毒舌(芸)の分水嶺

今年のM-1も、めちゃくちゃ素晴らしかった。個人的には #ロングコートダディ 好きなので推してたんだけど、個人的好みナンバーワンは圧倒的に #ヨネダ2000 !そして決勝三組でいうと、ガチでネタに感動して優勝祈ったのは  #さや香 だった。

とはいえ、優勝した #ウエストランド もマジで素晴らしいし、心からおめでとうございます!と祝福したい気持ち。

しかし、案の定、ツイッターが少し荒れてしまっているように感じるのは(それでも思ったよりみなさん冷静な感じもあって、なんかリテラシーの醸成を感じる)、審査員のコメントにあったような、現役テレビ芸人さんたちのコンプライアンス束縛からの解放をウエストランドに期待しちゃったあの空気のせいかなと思う。

その気持ちはとてもとてもよくわかるし、漠然とした「あの頃のテレビ」に戻りたい感は、わからなくもないけれど、そこは単純にお門違いなので、ウエストランドの技術そのものについて評価したコメントが欲しかったなあと思う。特にあの落語家さん。

それこそあの審査員の方の師匠は立川談志さんだから、毒舌が一つの芸に達している極みみたいな方ゆえ、その系譜を受け継ぐためにもその環境をマスメディアのなかに存続させたいという思いが人一倍強かったのかもしれないけれど、やっぱりそこで考えたいのは、彼らの漫才が結果 #悪口 と言われてしまっていることだ。

究極、悪口漫才なんて雑な言い方までされているのは(ウエストランドの二人に対してほんと失礼だなあと思ってしまう)、時代の空気もあるとは思いつつ、それとは別に決定的な原因があると僕は感じていて、そういう意味でも、僕は個人的に #さや香 を推した大吉さんの審査がとてもフィットした。まあ好みだけど。

ウエストランドの漫才の笑いの型の根っこが、去年、R-1で優勝した #お見送り芸人しんいち さんと同じだとか言うと、ウエストランドのファンの方に怒られるだろうか。それでもやっぱり僕が同質だと思うのは、彼らが毒舌として放つ事柄の一つ一つが、結局は笑いのスタンダードの一つ「あるある」というジャンルに収まっているからだ。

これもまた、審査員のお一人が放った言葉「これで笑っているということは、みんな共犯者」に奇しくも表現されてしまっているけれど、つまりは「あるある」「わかる」という世界線。

ここが僕は、悪口と毒舌芸との分水嶺だと思う。

上述の立川談志さんや、かつて僕が大好きだった上岡龍太郎さん、はたまた若手時代の松本人志さんなどの歯に衣着せぬ物言いが、決して「悪口」などと評されなかったのは、それをエンタメたらしめている笑いの軸が「あるある」的共感ではなく、その真逆にあるアバンギャルドな「意外性」であったことだと僕は思う。それは限りなくアートだった。

M-1準決勝までの審査員としても有名な構成作家の倉本美津留さんの多々ある著書の中で、一際素晴らしい一冊だと思っているのが、編集のお手伝いをさせてもらった『ビートル頭(ず)』という本で、まさにあの世界的アーティスト、ビートルズの法則を読み解こうとした意欲的な本。その本の軸になっているのが、ビートルズ以上に、大衆性と革新性の両立を果たしたアーティストはいまだにいないという事実。

つまり「あるある」が大衆性だとしたら、その発想や切り口はなかった!という「革新性」をも踏まえたものが毒舌の芸なんだと僕は思う。そしてM-1というステージは、「革新性」と「大衆性」の両方を求める舞台なのだと僕は思っている。去年の優勝者の #錦鯉 の二人が、革新性ではなく、やり続けることの美学といった周辺の要素を取り込んだ先の大衆性の勝利だっただけに、今年は逆にその革新性を評価するぞというM-1に携わる人たちの気概のようなものを決勝進出者の発表を見て僕は勝手に感じていた。

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