石神マリエ@ご自愛エッセイ

根暗で有名です。毎日エッセイもうすぐ350日。    「どうかご自愛くださいませ。」 …

石神マリエ@ご自愛エッセイ

根暗で有名です。毎日エッセイもうすぐ350日。    「どうかご自愛くださいませ。」 自己愛の本質。      あなたの心を突き刺し、抱きしめる言葉たち。     https://www.instagram.com/gamiyoga.0

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さようなら、お花のお家

私、生まれてから今まで10回ほど引っ越したことがある。本当に幼かった頃の記憶にある「初めての家」は、3才から6才くらいまでの幼少期に住んだ、田舎でも都会でも無い街の住宅街。小さな平屋の賃貸だった。私はそこで父と母と、五個上の兄と4人で暮らしていた。そこは賃貸にしては立派な庭が付いていて、いつも庭中綺麗に花が咲いていたのをよく覚えている。というのも、父はとにかくマメで、庭いじりが趣味だった。春になるとチューリップの赤や黄色、ピンクに、むらさき、マーガレットの白や薄ピンク、ガーベ

    • 応援歌

      心を痛めてばかりのあなたへ。 きっと これからもおんなじ毎日じゃ 「なくならない痛み」があると思う。 たとえばある位置を突破してみたり、破壊したり創造したり、とにかく景色を変えてみないと。どうにも「なくならない痛み」があると思う。薄々気がついているのかい?そのままじゃ誰といても、どこにいても、胸が軋むように窮屈なまま。おんなじ自分が胸を痛める。それを誰かのせいにしてみても、たぶんだけど景色は変わらないよ。 これから先、後何年も胸が痛むまま生きるなんて、まっぴらごめんだろう

      • いらないもの、いるもの

        たまには心の模様替えも必要だし 頭の中の大掃除も必要。 そういうわけで、私は時より整理している。余計なものを退かしたり、溜まった埃を拭ったりして。すると本当に必要なものだけが残っていくんだ。案外いらないものばかりが入っていたことにも気がつく。そうして「もっともっと良く生きること」よりも「生活」を愛したほうがいい。と、そういうことがわかる。 というのもやっぱり。この時代は目の前の大切なことがずいぶん蔑ろになってしまうものだなぁと。いつも見張られているみたいな気苦労もあるし、

        • 歳をとる

          お母さんが昔話なんてするもんだから、ある人の夢を見た。 わたしの夢の舞台はいつも白黒で、それでいて生々しくて、なんとなく今の私と同じ立場のまま繰り広げられる。ほんの少しだけ気持ちは大胆になっているようで、現実のわたしの性格とはわずかに違ったりもする。心の奥の奥の方にあるちょっとした心残りみたいなものを引っ張り出してきては、ドラマにしているようなものなんだ。 そんな風に明け方見ていた夢は、昔の恋人と久しぶりに再会するシーンだった。夢の中で主人公の私は今と同じ、おそらく31歳

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          モットー

          「明日、死ぬかもしれないのだから。」 という これが近頃の私のモットーでして。 それはたとえば、カフェでご飯を選ぶ時なんかにご飯はなるべく旨そうな方を選びます。 それに友人と会う時には、大好きでたまらない奴と会います。「コイツちょっとムカつくところあるんだよなぁ」って奴にはそれがたとえちょっとでも、二度と声をかけることはありません。 それに息子と遊ぶ時には家事を放り出してでも遊びます。全力ダッシュして自転車を後ろから押したり、「パンどろぼう」の絵本を読んだり、「うたえバンバ

          レイとわたし

          私には5歳の息子がいる。 名前はレイ。 数日前、レイとふたりで保育園に向かう朝のこと。いつもの田舎道を通り、朝から暑いくらいで窓を開けたりして、BGMはなしだった。それでその日は赤信号で止まった時、息子がおもむろに言ったんだ。 「ママ見て!牛さんが乗ってるよ!」 言われるまま隣を見ると、大きなトラックの荷台に黒い牛が何頭か。口を縄で縛られ、暴れないように短い鎖のようなもので繋がれていた。おそらくどこかに運ばれて、これから食用のお肉にされてしまうアレだった。窓を開けていた

          空を飛べたらとか

          人生には、ちょうどいい速度が必要だと思うんだ。ドロドロした道を走ったり、ガタガタした道を走ったり、スピードが落ちてノロノロと同じ景色ばかり見ていると、いつのまにか人生が嫌になる。自分はどこに進んでいるんだ?ただ生きているだけで意味はあるのか?こんな自分はダメなんじゃないか?って苦しそうな自分を見つけてはつらくなったり、つまんなくなったりした。そういうもんじゃない? それはきっと飽きていたからだろう。同じ景色ばかりトーンが落ちていく日々に。どうしたって感動が薄れて、感度が落ち

          加算して生きる

          たとえば。 テストで60点をとってきた子どもに、 「60点!すごいじゃない!  どんな問題が出来たの?」 と聞く親はほとんどいない。それよりも 「あと40点、なんでできなかったの?」 失敗に目をつけ、人間の価値を下げていく。そういった減点法を植え付けていくのが日本の教育だと思う。それで子供はどう育っていくかというと、 「自分のできなかったところだけを見つめて、責める」ようになるのだろうと。 それから、小さな失敗でいつまでもクヨクヨしてしまったり、自信を失い失敗を怖

          許せないこと

          随分の間、「どうかお幸せに」と思えない人がいた。それにはいろんな理由があって、私よりも先に幸せになってもらっちゃマズイ訳じゃないけど。どうにも心の淵でいつも呪いをかけるようにしていた。それは「不幸になれ」というわけじゃなかった。けど、できれば私の痛みに気づいたり、間違った時には反省できる人になって欲しかったんだ。 こんなことを言うと私の方はとても明白みたいに聞こえるが、そんなこともない。そいつは決して悪いやつじゃなかったし私たちの間にはたったひとつ、許せないことが起きただけだ

          人生には「3度のモテ期」が訪れる

          「人生には三度のモテ期が訪れる。」と、聞いたことはあるでしょうか?私には明確にその「3度のモテ期」があったと自負しています。なぜならばその他の時期にはまるでモテなかったからですね。どうしてこうも同じ容姿で、同じ名前で生きているというのに、モテないを経験してしまうのか不思議に思うほど他人を恨んだこともあります。そこんところ神様はうまく仕込んでいるのでしょう。だからこそたった今、モテないを経験している人も「3度のモテ期」は諦めないで生きてみてほしいものです。ちなみに今夜はこの流れ

          人生には「3度のモテ期」が訪れる

          からだとはなす

          昨日とまるで同じような景色が流れて行く日々はぬるくて、あたたかくて、いつまでもこれが続いて行くと疑う余地がなかった。怖い夢なんか見ないで朝、暖かいお布団で目が覚めるということがどのくらい幸せなのかはまったく考えもせずにいたし、 そんな私は殆どロボットのようだったと思う。たとえばタイマーをセットされたストーブとか炊飯器のように。誰かにインプットされた手順で歯を磨いたり、顔を洗ったり、化粧をしたり、同じような朝ごはんを食べたり、皿を洗ったりしていた。前髪が伸びて自分の瞳が少し見え

          てんとう虫と蝶と私

          3月22日金曜日。5歳の息子、レイが高熱を出した。季節外れの雪が降る朝のことだった。私は息子の小さな手と手を繋いでリビングのソファに座り、窓の外に降り頻る雪を眺めたのをよく覚えている。「また雪だねぇ、休もうね」なんつって。それから5日間、私の予想を反して息子はなかなか回復せず寝込んだままだった。ろくに口を効かず食事もできず高熱に耐えどんどん痩せていった。普段はラジオよりも良く喋るお茶目な彼だからこそ、その黙ったままうつらうつらとした瞳、真っ赤な頬、悪夢にうなされる姿にあらゆる

          黒いバナナと、スピリチュアルババア

          ここんところよく耳にする「スピリチュアル」という分野について思うことがある。そもそもあの、「氣」と言う文字を見たら一歩後ろに引いてしまうのがアンニュイな大人達なんだろうと。 「スピリチュアルなのは苦手で〜」とか、「そういうのは分からない」という人が多くてならないのはきっと、「分からない」のではなく「ピンとこない」の間違いなんじゃないかとも思うんだ。生きていれば確かに体験しているはずなんだと私は薄々。それは信じるとか信じないとかじゃなくて、知っているか知らないかの話でもあるんじ

          黒いバナナと、スピリチュアルババア

          そのほうがきっといい

          私には5歳の息子がいる。 名前はレイ。 レイは近頃、「ドラえもん」にハマりだした。というのも、つい1ヶ月ほど前に「ドラえもん」の存在に気が付いた彼は、あまりの面白さに夢中になってしまったのだ。のび太やスネ夫や、ジャイアンの毎日を眺めてはケラケラ笑ったり、しかめ面になったり、時には涙を浮かべたりしながら「ドラえもん」の世界に没入する。それで時には「ママ?どうしてうちにはタケコプターがないの?」と聞いてきたり、「ママ!レイくんはどら焼きが食べたい!」と急にリクエストを送ってきた

          そのほうがきっといい

          「きっかけ」について

          私はいま、ドロドロしたつまんない毎日から「いちぬけたー!」と呑気になってみたところだと思う。景色は明るいし、周りの人は温かいし、毎日は活気に満ちていて「普通に暮らすこと」がとてもじゃないけど「幸せ」だと思えるようになったんだ。「私ならこの先、何があっても大丈夫。」なんてホラも吹ける。以前はそういう態度のでかい奴や、偉そうな奴こそイケスカナイと思っていたのだが。そんな皮肉と仲良く手を繋いで生きてきた人生から抜け出してこうなったことを、私はいま、良かったとも思っている。 あの頃

          「きっかけ」について

          心がけのハナシ

          「正しいことを言えばわかってもらえる」とか「これは常識的なことだから」と、考えるのですが。人はいつも「正しいこと」を受け入れるのではないのだと思うんです。きっと、「正しくていつもちゃんとしている人」より「温かいもの」を受け入れるのだと。 たとえば、何かに傷ついて氷のように冷め切ってしまった心に正論をぶっこんで。氷を叩きやるのはいけないんじゃないか?こころは粉々に飛び散ってもっともっと辛いんじゃないかって。まずは自分が太陽のように暖かくなって、ただ側にいてみる。すると問題は必