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「ムダ」って言われるのが大嫌い

「またそうやって、お金をムダにして…」
数日前に言われて、モヤモヤしてしまった言葉。何て返したらいいのか分からなくて、考えるのも嫌で、黙ってやり過ごしてしまった。

ふと気が付いた。
「ああ、わたし、『ムダ』って言われるのが嫌いなんだな」って。

無駄遣い、無駄話、無駄足……
「無駄」と付く言葉は非難の意図が込められて、誰かの間違いを責めたり、要領の悪さを貶すときに使われる。
「ムダなことしないの」、「そんなことしてもどうせムダでしょ」、「ムダを減らして効率的に」……。
聞きあきるほど言われてきた。それこそ、耳にタコができるほど。

言いたいことは分かる。
きっとあなたからすれば、わたしがやっていることはお金のムダで、時間のムダで、もっと頭を使えば早く、効率的に、スマートに、上手くできるのに…と言いたいのでしょう。

でも、わたしはそういう考え方にずっと引っかかりを覚えながら生きてきた。
「ムダ」と言われると心の中がモヤモヤして、それまで楽しく話していた相手だとしても、なんとなく心を閉ざしてしまいたくなるような感覚があった。

「ムダ」って、そんなにダメなことなんだろうか?
そんなに忌避して、どうにかして無くそうとしなければいけないものなのだろうか? 本当に?

わたしは、そうは思えないのだ。

学校でも、「こうすればムダが無くて効率的だよ」と教えられてきたし、
仕事でも、いかにムダを無くすかが重要視されて、スピードと効率性を求められた。

そりゃ、ムダが無い方がカッコよくて、手間も時間も必要最小限で済むし、あらゆる物事が上手く回るのだって分かっている。
それを追求するのが悪いなんて思わないし、効率的で素早く仕事をこなせる人はカッコイイと思う。たくさんの人がいる組織で仕事をする場合には特に、必要なことだと理解している。

でも、他人の生き方とか決断とか趣味嗜好、生活のしかたにまで、「ムダ」と言って非難するのは違うのではないか、とわたしは思う。

どちらかといえば、わたしは「ムダ」を愛せるタイプの人間だ。
時間をかけてただ何かを書き写すとか、過程を楽しむためにあえて手間をかけてやってみるとか、みんなが煩わしいと感じて嫌がることにも楽しみを見出すとか、そういうところが昔からずっとあった。

要は、わたしは「煩雑さ」が嫌いではないのだ。

前に、知人と買い物をしていて、ファスナーを閉めてからさらに紐をリボン結びにして留めなければならないタイプのポーチを買ったことがある。
確かに少し手間ではあったが、それよりもわたしはそのポーチのデザイン性に惹かれた。色も、柄も、リボンも、とても好みだったのだ。

知人には、「そんなめんどくさいのよく買うね、わたしだったらイライラしちゃう」と言われた。
わたしが「でもこれは、愛せるタイプのめんどくささだから」と答えると、「へえ〜」と言いつつ理解できないという顔をしていた。

そのときわたしは「そっか、『手間を愛せる』って言っても通じない性格の人もいるのか」と新たな発見をした気分だったのだけれど、相手からしたらわたしも「こんな人いるんだ」と変わり者に思われたのかもしれない。

「ムダ」と言われることって、この世にはたくさん溢れているけど、本当に「誰にとってもムダ」なことなんて一つも存在しないと思う。

誰かにとっては時間のムダで、お金のムダで、価値のないものかもしれないけど、
その「ムダ」で何かを学べる人もいれば、それに喜びを見出す人や、心を救われる人だっているのだ。

わたしは、「ムダ」を悪と言って排除したくない。それを理由に誰かを責めたくない。だって、それは相手にとって「ムダ」なんかじゃないかもしれないから。何より大事なことかもしれないから。そして、それがその人にとってどれくらい大事か、どんなふうにその人の人生に影響を与えているか、そんなことは本人じゃないと分からないから。

少し悩んでいたときに冒頭のセリフを言われて、わたしは少なからず傷ついた。
散々悩んで、行動してみて、他人の意見も聞いてみて、なんとか自分なりの答えを見つけたその後でそんなふうに言われると、すごく悲しい。

「ムダ」じゃなくて、「それがあったから勉強になったね」とか、「またひとつ気づけたね」とか、「お金はかかってしまったけど答えを見つけられて良かったね」とか、そんなふうに言ってほしかったのだ。

きっと、わたしはこれからも「ムダ」だと言われるようなことをやってしまうんだろうけど、
それが悪いことだなんて言ってたら、わたしは何もできなくなってしまう。

少し愚痴っぽくもなってしまったけれど、
この気持ちを忘れてしまうことのないように、この場所に記録しておく。

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