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『虹と君とホトトギス』愛子と柏翠の見た夢ー追句

【美佐尾の場合】


美佐尾はやや大柄なので

着物の柄も模様の大きなものを

よく着こなしていた

しかし久しく見なかったうちに

独り身になり、女の子を育てていた

洋装になり、断髪にして黒髪は顎のあたりで

毛先が揺れていた

健康的で、躍動的で、安心感のある人だった

もしも愛子もこの人のように

も少しでも丈夫であったらなあ、と

美佐尾にはどうしようもないことを

考えてしまった

この人ー美佐尾には、愛子が姉のように慕う

愛子が今より身体が自由で、踊りの巧かった

お母さんの後ろで、そろそろと可憐なさまで

踊る姿を、笑顔で見ながら涙ぐんでいたのを

知っている

こっそり先生と、愛子と風呂に入る時

「愛子にわたしのお乳を飲ませましたのよ」

などと話をしていて、わたしをドキリとさせた

愛子が茶目っ気を出して、飲むふりをしたのだ

愛子は美佐尾に身体を預けられるほど

美佐尾は愛子を引き寄せて

頭を撫でてやりたいほど、いとおしき子よ


「美佐尾さん、これでやっと、先生と愛子に菊枕を作ってやれましたよ。ありがとう」

わたしは台所にゆこうとする美佐尾を追って

声をかけた。菊枕の巾着は彼女の手製だ。

「あら、いいんですのよ。ーでも先生は、遠慮されるかも。お母さんに使ってもらったらいいでしょう」

そうだ、お母さんは愛子の身体を心配して

安心してよく眠れていないだろう

「ありがとう、美佐尾さん」

「いいえ」

わたしは菊枕を愛子の枕の上に置いた

「あら、」

やつれた頬の愛子が、細くなった手首を

動かそうとするがあきらめて、菊枕をまじまじと

見つめては菊のかほりを嗅いでいる

庭に咲く菊の花びらをほぐし

天日で二日干していたのだが、花がこまいので

(細かいので)たくさん作るのはあきらめた


「愛子、菊の酢の物がある、からね」

砂糖を入れて甘くしてあるので

後でお湯で割って飲ませてやろうと思った


先生が枕の上の菊枕を見て

「明日よりは病忘れて菊枕」と詠まれた

お母さんが後ろで、涙ぐんで袖で口元を覆う

菊枕は別名『長寿枕』と言う

菊のかほりは安眠作用があり

火照りに効き、余分な熱を飛ばすそうだ

寝汗もかかず、悪い夢も見ないから

中国では邪気を払い、命が延びると言われている

小菊などは難しいが、菊の酢の物や天ぷらには

菊人形に使うくらいはなくも

大きめの菊の花が良いのだそうだ


わたしは夜、ふすまに寄りかかって

月と庭の菊の花を見ていたのだが

美佐尾が通りかかって

「あら、柏翠さん。身体が冷えるわ」

と、座布団をわきに差し入れてくれた

「菊のお酒、真似事よ」

美佐尾は菊を浮かべた湯呑みを差し出し

月を眺めて「キレイネェ」とつぶやいた

「美佐尾さん、独り身になって寂しくはないかい」

「寂しかないわ。大変ではありますわ」

笑って湯呑みを両手で持ち上げ、飲みほして

「若い頃のじぶんなら。こうはいきませんでしたわ。俳句をあの人にあたくしの生活の一部だと、
身体の一部だと、解れと言うのが間違い」

ガラス障子のある方がむしろ

月の引力が大きいように思われた

「子どもはお腹から出てしまいますと、自分で歩いたり、興味を持って動くようになりますでしょ。目を離したら大変ですけど、あたくしのものではないんですの。自分で選んで良いのだと、わかるまで自分でやらせて、考えさせますの」

わたしも菊を浮かべた湯呑みを口につけた

「でも俳句はそうはいきませんわ。あたくしの一部ですから。あの人は俳句を否定しているから、あたくしを責めたのです。けれどあたくしを責めたと言うのは、俳句を否定すればあたくしを否定したも同じなのです。俳句への焼きもちで、あたくしへの嫉妬であっても」

一杯と言うのも変ね、と美佐尾は急須の水を足し

「なじり合いましたわ。愛情がありましたから。離れてしまいましたが、今でもあの子の父であり、あたくしの夫だと思っていますの」

美佐尾は立ちあがり、休みましょうと言った

「あたくしは俳句が好きですわ。想いは詩に表れますわ。ですから、二夫にはまみえません。たぶん、愛子もですわ」

お布団出しましょうね、と美佐尾が戻って行く

愛子と一緒になろうと思いますと

先生に伝えたのだ

先生はじっと考えて、二人とも身体が弱いのですからと、それで話が終わってしまった

月の床よで見る夢は

わたしに生気を与えるか

それとも障気をもたらすか

月はわたしにどのような先行きを見せる



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