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「Muteの魔法 第一章」

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/04/12 第548号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

🎙気になることをアウトラインで管理するDoMAシステム【倉下忠憲さんにインタビュー】 by ごりゅごcast | A podcast on Anchor

音声026:倉下忠憲さんと「休憩の取り方」について対談(後編) - シゴタノ!記録部

ブックカタリスト 009 アフタートーク&倉下メモ - ブックカタリスト

◇第六十五回:Tak.さんとWebにおける共同活動の場について by うちあわせCast | A podcast on Anchor

はい、今週も配信が多いですね。

どれも面白いと思いますが、DoMAについてお話したごりゅごcast は、DoMAについてさらに理解を深めるとても良い回だと思います。なにせ当事者の私の理解が深まりましたからね。

もう一つ、うちあわせCastでは、Unnamed Campについて紹介しました。この場所が何なのかは、私もわかっていませんが、たいへん面白いプロジェクトになりつつあることは間違いありません。

〜〜〜マグカップの前にロゴマーク〜〜〜

最近R-style印のマグカップを作りたくなっています。だいたいは結城浩さんの影響です。

◇結城浩 ( hyuki0000 )のオリジナルアイテム通販 ∞ SUZURI(スズリ)

近ごろよく使っているフクロウのイラストをとても気に入っていて、そこに「R-style」の文字を添えてロゴマークにし、マグカップを作ればちょーかっこいいじゃん、と思うのですが、まずそのロゴマークをデザインするところから始めないといけないですね……。

〜〜〜変わらぬ手つき〜〜〜

数年に一度しか行わない事務処理があり、今年はそれを行うタイミングでした。処理自体は簡単で、記入やら送信やらをするだけなのですが、そこで使った書類は保存しておく必要があります。

で、My 押出しファイリング棚をざっと見ても、保存する適切なファイルが見つからなかったので、新しくクリアファイルを作りました。そこに書類を入れて、何年何月何日にこれこれこういう処理をしたというメモをクリップで挟んで終了です。

で、ぜんぜん関係ない理由で押出しファイリング棚の奥をチェックしていたら、2016年に同じ処理を行った際のファイルが出てきました。そのファイルが、驚くほど今年作ったファイルと同じスタイルになっていて、「示し合わせたのか?」と疑いたくなりますが、結局人間の「手つき」はそう変わらないということなのでしょう。

で、見つけたファイルと新しいファイルをマージして、押出しファイリング棚に戻しておきました。そう、これが押出しファイリングの良いところです。

「適切な場所がすぐに見つからないなら、とりあえず新しく作って保存しておく。同種のものが見つかったら、そこでマージする」

そんな「雑」なやり方を引き受けてくれる整理術は押出しファイリングだけでしょう。

もちろん、客観的に眺めれば、ぜんぜん「整理」できていなくて気持ち悪いのですが、実際的に困ることは何もありません。自分の書類整理において、大切なのはそちらの方でしょう。

〜〜〜例のやつの終わり〜〜〜

というわけで、確定申告が無事終わりました。今年は特例で一ヶ月締め切りが伸びたので、「まあ、ゆっくりやれるな」と悠長に構えていたら、あれよあれよと4月になってしまい、結局は勢いで乗り越える結果となりました。

一応三月に基本的なデータは整理していたので、それほど大仕事にはならなかったのですが、それでも慌ただしかったことは間違いありません。

そして、慌ただしい状態だと自分が使っているシステムに不都合な部分があっても、それを修繕する心の余裕はなく、そして申告が終わったら私の注意はもうそこには向いていません。当然修繕もスルーです。

毎日・毎週・毎月コツコツと進めていくことは、それを支えるシステムを地道に改良していくためにも有効なのでしょう。もちろん、理想としては、ですが。

〜〜〜プロトタイプ稿の終わり〜〜〜

というわけで、今進めている本の第七章プロトタイプ稿を書き終えました。一応第七章+appendixくらいの構想なので、一応本編は一通り書けたわけですが、しかしこれはプロトタイプ稿であって、「初稿脱稿」のような解放感はありません。

むしろ、出そろったプロトタイプ稿からこの本についてもう一度考え直す作業がまっています(それがバザール執筆法です)。

とは言え、脳がやたらすっきりしている感じがたしかにあります。別の言い方をすると、私がそう意識していなくても、脳はちゃんとこの本について考え続けてくれていたのでしょう。「とりあえず」にせよ、いったん第七章までの原稿を送信できたことで、私の深層意識にも「一段落」というサインが送られたのだと予想します。

逆に言うと、そういうサインをうまく送信できないと、脳はずっと特定のタスク(プログラミング的な意味です)にCPUを使い続けているのでしょう。これは結構怖い話です。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりでも考えてみてください。

Q. 頭が開放されたような気持ちがする瞬間は、どんなときがありますか。

では、メルマガ本編に入りましょう。今回は『Muteの魔法』の第一章相当分です。

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○「Muteの魔法 第一章」

■つぶやき的始まり

Aさんがつぶやきました。「『たったこれだけで人生が変わる□□の魔法』」

Bさんがつぶやきました。「mute」

Cさんがつぶやきました。「これ真面目に企画としてアリなのでは」

すべては非-計画的に進んでいます。しかし、まったくのランダムでもカオスでもありません。そこには、意志があります。

Aさんは、有用性を求めたわけではありません。世の中には「人生が変わるすごいもの」がたくさんあるので、それを広く募集してみたら面白いのではないかと思っただけです。

そのつぶやきがBさんの脳を刺激し、一つのつぶやきを促しました。あらかじめ示されていた試験問題ではないので、テニスで突然のスマッシュに対応した感触に近いかもしれません。

あるいはそれは、横のコートから流れてきたボールだったのかもしれません。自分が今テニスの試合中だったので、横のコートからのボールにも自然に反応してしまった。そういう可能性があります。

Cさんはそのやりとりを見て、面白いと思ったのでしょう。少なくとも、うっかりつぶやいてしまう程度には興味を持たれたのだと思います。そして、その「面白さの感受」は、Aさんにもフィードバックしました。

Aさんが最初につぶやきをした時点ではまるで考えておらず、Bさんのつぶやきを目にした時点でもまだ十分に芽が開いていなかった、そこにある「面白さ」の受け取り方(あるいはそのチャネル)がCさんのつぶやきによって開花したのです。

ここにはたくさんのMuteが潜んでいます。

■企画の声

他者に向けて言葉を放つとき、私たちはさまざまな声を聞きます。それは具体的に記述される文ではないものの、あえて文章にすると以下のようになるでしょう。

「こんなことをつぶやいて大丈夫だろうか」

「こんなことを考えて意味があるのだろうか」

Twitterにつぶやくとき、こうした声を一時的に抑えないと、つぶやきは可能になりません。

少なくともAさんは、「こんなつぶやきをして、誰からも回答が返ってこなかったら恥ずかしいな」という声を無視しなければつぶやきを投稿できなかったでしょう。BさんもCさんもそれぞれに何かしらの声をMuteしていたのだと思います。

また、「そういうありもしない企画について考えたって、どうせ実現しないでしょう」といった合理性からの声もMuteできなければ、企画内容についてブレストが膨らむことはありません。そうなると、その企画案自体がそのまま沈没していきます。

言い換えれば、企画案の声が聞こえなくなるのです。

■自由に発言してください

企画会議やブレインストーミングにおいて、参加者に「自由に発言してください」と促されることがあります。たしかに必要な促しですが、そこで指される「自由」とはどのようなものでしょうか。

牧歌的なイメージとして、大草原に犬をはなしてやれば喜び勇んで走り回る、というのがここでの「自由」なのかもしれません。でも、それは誤ったイメージです。ブレストで「自由に発言してください」と言われる人たちは、むしろ普段は自由に発言することを禁じられている人たちだからです。気を遣い、空気を読み、場を壊さないことがデフォルトになっている人たちだからです。

犬のたとえで言えば、普段は室内のケージで飼われてて、ひと足でもそこから出ようとしたら厳しく怒られることが「あたり前」になっている状態です。そうした犬を、大草原に放てばどうなるでしょうか。

喜び勇んで走り回る?

きっと恐怖で足がすくむでしょう。少なくとも「大丈夫なんだよ。ここでは自由に動き回っても誰も君のことをしかったりしないよ」という促しがなければケージの外に出ることはしないはずです。

つまり、人間は一人ひとりが経路(歴史)を持っているのであり、「自由に発言してください」と言われただけで、自分の心の声も一緒に消えてなくなるわけではない、ということです。言い換えれば、束縛を解いただけで、自由に至れるわけではありません。

積極的なMuteが必要です。

■ロールプレイング・ブレスト

「自由に発言してください」という促しだけでは自由な発言が生まれなくても、それぞれに「ロール」を割り当てると、驚くほど意見交換が活発になることがあります。

「はい、あなたはツッコミ役です。イジワルな悪魔のように細かいところにツッコンでください」

「はい、あなたは囃し立て役です。誰かの意見を盛り上げてください」

「はい、あなたは奇抜な人役です。それまで誰も口にしていなかった意見を言うようにしてください」

「はい、あなたはトリックスター役です。直前までの議論をひっくり返すようなことを言ってください」

このように役割を振ると、その役に沿った形での発言が出てきます。むろんこれは、まったく「自由」なものではありません。しかし、その不自由さは書かれた台本を読んでいるのとは違っています。ある種の型があり、その型を通り抜けて出てくるその人の意見です。

もちろん、人は特性を持つので割り振られた役がピタリはまる場合もあれば、そうでない場合もあります。なので、この役回りをローテーションして「遊ぶ」のがこのロールプレイング・ブレストの醍醐味です。

■インターフェースとしてのロール

さて、ロールプレイング・ブレストで起きているMuteとは何でしょうか。

何もロールが割り振られていない状態は、何もロールを持っていない状態、ではありません。もしそう考えてしまうと、「自由にしてよい」と言われたらすべての人が自由にできるという先ほどの誤った結論にたどり着きます。

むしろ人は、すでにロールを持っているのです。社会における成長とは、その社会と整合的・適合的なロールを自己に確立することであり、それがうまくいかないと精神的にマズい状態になってきます。声が自分をむしばむようになるのです。

別の言い方をすれば、社会という他者と自分の間に位置し、その二つをつなぐインターフェースがロールだと言えます。その意味で、人は誰しもロールを持って生きています。ノーロール、ノーライフです。

そうした自己で確立されたロールは、一般的にアイデンティティ(自己認識)と呼ばれますが、その言葉遣いには注意が必要です。なぜなら、アイデンティティという言葉の響きは不可侵の絶対性、独立性を喚起してしまうからです。インターフェースではなく、イデア的な印象を覚えるのです。しかし、ロールはそのような独立性を有していません。

たとえば、「他の人がどうであろうが、私は私」というアイデンティティの感覚は、しかしその記述において「他の人」を必要としている点に目を向ける必要があります。「私は私」という言葉で言い切れていない感覚、そこに「他の人がどうであろうが、」をつけ足したくなるその感覚は、自己認識において他者の存在が不可欠であることを示します。

つまり、自己認識とは関係性の記述なのです。別の言い方をすれば、自分が生きる社会の中に自分を「位置づける」ことがアイデンティティ=ロールの役割です。

だから人が社会の中で生きているなら、それぞれの人はすでにロールを持っています。そして、そのロールは「あなたはこのような役割なのだから、〜〜すべき、〜〜すべきでない」という声も合わせ持っています。
*もしそれがないならば、社会的な調整装置として機能しないでしょう。

ロールプレイング・ブレストで発生するMuteは、そうした声の、つまりその人がデフォルトで担っているロールが持つ声のMuteです。

新しく、外部的に割り当てられた──明示的に声が記述された──ロールを担うことで、私たちは普段よく聞いている声から一時的に耳を反らす(変な表現ですが)ことができます。

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