見出し画像

読み手にギフトを贈る/人文的実用書に向けて

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/07/12 第561号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

◇BC015 アフタートーク - by goryugo - ブックカタリスト

ブックカタリスト宛のコメントをたくさんいただいたので、その紹介コーナーとなっております。

〜〜〜新刊情報とブログ〜〜〜

新刊について、以下の記事で思うところを書きました。

◇『すべてはノートからはじまる』が2021年7月26日発売となります – R-style

当初は、ティザー広告風にいくつかの記事にわけて考えていることを書こうと思っていたのですが、それはもうR-styleというブログの役割ではないなと思い直し、かなりのボリュームの記事を投稿するに至りました。

断片的な情報を細切れに投稿するのではなく、まとまりを持って記事を書くための場所。

最近の私の中でのブログの(というかR-styleの)位置づけは、そんな感じになっております。

〜〜〜新刊販促活動〜〜〜

情報を小出しにする変わりに、「文章」以外のプロモーション活動にいくつか取り組んでみました。



一つは、「トレーラー動画」と呼ばれるもので、短い動画で本の雰囲気を伝えるプロモーションです。日本ではまだあまり見かけませんが、YouTubeで 「book trailer」などと検索すると小説のトレーラー動画が結構見つかるので、それにインスパイアされて作りました。

とは言え、映像作家の引き出しはほとんどないので、あくまで「っぽい動画」に留まっています。当初は1分くらいの動画を作るイメージでしたが、30秒くらいが精いっぱいでした。もうちょっと、引き出しを増やさないと「ちゃんと」した作品にはなりそうもありません。

それでも動画やSNSが情報交流のメインになっている時代を考えると、短い動画で本の雰囲気を伝える施策は有効であるように思います。

もう一つは、結城浩さんが7月16日発売予定の『数学ガールの物理ノート/ニュートン力学』用に作成されていたバナー画像がとてもよかったので、それをまるっとパクった画像です。

これまたSNSなどで単に本の書影画像だけを流すよりも、ぐっとアイキャッチ力が高くなっているように思います。

上記のようなプロモーション施策は、販売を活性化させる上でとても大切だと思いますが、それ以上にこういうものをちょこちょこ作るのが個人的に大好きなのでやっている、という側面があります。それはまあ、嬉しい「相性の良さ」ではあるのでしょう。

〜〜〜かーそる第四号の進捗状況〜〜〜

かーそる第四号も、いよいよ制作が佳境に入っております。完成を100としたら98あたりでしょうか。原稿も出そろい、ページ数の問題もクリアして、あとは細かい修正を行うだけです。

さすがにこの段階まできたら、「発売されるかどうかはわかりません」の状況は脱しました。あとは「いつ発売するのか」を考えるだけです。

でもって、かーそるは不定期発行なので別にいつ発売してもかまいません。普通の雑誌のように発売日が決まっているから、そこに間に合わせるようになんとか仕上げる、といった調整は不要です。

一方で、私の新刊の発売が迫っている事実もあります。新刊の前に発売する? 新刊と同時? 新刊よりも後? そのタイミングによって、かーそるの売り上げが変わってくることは十分考えられます。たとえば、プロモーションの相乗効果が起こり、お互いの本にとって良い効果が出るかもしれません。あるいは、片方を買うから、もう片方は買わなくてもいいな、と判断されるかもしれません。

実に高度な問題です。

とは言え、別に正解があるわけでもありませんし、そもそも私の都合だけで完成を早められるものでもないので、完成してから「いつ発売するのがもっとも効果的か」を考えるくらいがちょうどよいバランスなのでしょう。

〜〜〜本の価値〜〜〜

以前からずっと悩んでいることがありました。

私は本を読むことが好きですし、その行為に価値があると感じています。しかし、他の人に本を読みましょうというのはどうにも違う気がします。単に自分がそうしているから、他の人にも同じようにせよと薦めているように感じるからです。

もちろん、趣味として小説を読むのは素晴らしいことです。しかし、その対象が映画や演劇に変わったところで何かが劣るわけではありません。あくまで選択肢の一つとして小説が存在しているだけです。

その意味で、本は買いたい人が買い、読みたい人が読めばいいと思います。それがリベラルな態度でもあるでしょう。

一方で、そう言っているだけでは、何か足りないような気がしていました。「個人の趣味」の話で終わらせてはいけない何かがあると感じていたのです。

結局気がついたのは以下のようなことでした。つまり、本を日常的に読むかどうかは個人の趣味であるが、何か問題にぶつかったり、知りたくなったことが出てきたときに、適切に本を選び、効果的に本の内容を利用できる力は、一般的なリテラシーであるだろう、と。

私が多くの人に主張したいのはそうした力を身につけることであって、たくさんの本を買い、毎日本を読む生活ではありません。これはしっくりくる切り分けです。

一方で、そうしたリテラシーがどうやって身につけられるかというと、これはもう本を読むことが必要なわけで、やはりある程度は「本を読みましょう」とは言っていかなければならないのだとは感じます。なかなか難しい線引きです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 本についてのプロモーションで何か面白いアイデアをお持ちでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は「人文的実用書に向けて」の第二回として「本という贈り物」について考えてみます。

画像1

○「読み手にギフトを贈る 人文的実用書に向けて」

前回に引き続き、実用書について考えていく。

書籍は、存在を知ってもらうことが大切で、そのためには口コミが欠かせない。しかも、外発的なプロモーションによって誘発される口コミではなく、その本の中身自身によって誘発される口コミであるのが望ましい。

たとえば、「話題だから話題になる」や「人気だから人気がで出る」のような再帰的な構造がたしかにメディア環境にはあって、一度そのウェイブに乗っかれば新しい力が加わらなくてもどんどん情報は拡散していく。そういう力は販売促進においてはたしかに有用であろう。

一方で、それが再帰的な構造であるがゆえに一度でも凋落のきざしが見えてくると、途端にその勢いは減速し、あっという間に話題から消える。そして、忘却の渦に吸い込まれてしまう。情報が多すぎる現代社会では、その渦が持つ力はあまりにも大きく、まわりのものは何でも引きずり込んでいく。気がついたら、何もそこには残されていない。ただ渦だけがあるだけである。

これは書籍にとっては好ましい事態とは言えない。なぜなら、書籍はファッションやデザート違い、長く残るものだからだ。いや、長く残すためのメディアだからだ。

■残すためのメディア

一冊の書籍を書くのは本当に疲れる。体力だけでなく精神力もかなり疲労する。では、それに見合う収入が得られるかというと、濁した答えしか返せない。なにせ出版とは博打だからだ。ある本が「そこそこ」売れるのか、「すごく」売れるのかはまったくわからない。そういう不確定価値に向かって進んでいくのが出版であり、執筆という行為なのである。

ではなぜ、そのような手間をかけるのか。それは「残す」ためだ。

第一には、「物理的な本に情報を固定化させることで、情報の残存期間を長くする」点がある。人間が100年で死んだとしても、本はもっとずっと長く残る。古書なんかでもかなり古いものは珍しくない。つまり、物理的に「残す」ために、本というパッケージに情報を入れ込むとは言える。でも、それだけではない。

本は、その本に付随する情報を誰かに届けるために書かれる。読み手の頭にするりとすべりこむことを意図して書かれる。そのためにたとえ話が用いられるのかもしれないし、一般化や普遍化が行われるかもしれない。事例の調整や物語化といった手法もありえる。なんであれ、すべての物書きは何らかの工夫を用い、自分の頭の中にある情報を、他の人の頭に移し替えられるように努力している。執筆の苦労は、ほとんどこの作業に集約されると言っていい。

10万字の文字をタイプするのがしんどいのではない。他の人にわかる文章で書くことがしんどいのである。

しかし、そうしたしんどさを経ることで、情報は第二の意味で「残る」ようになる。自分が死んだ後でも、その情報を読んだ人の頭の中にその情報が再生(ないしは複製)されるようになる。

もちろんまったく同じというわけにはいかない。情報の読解は常に曖昧さと多義性を含んでいる。誤解は常に生じうるというか、もはや読解の伴侶みたいなものである。

一方で、DNAだって常に完璧なコピーを作っているわけではない。むしろそうではないからこそ生まれる多様性がある。そう考えれば、「完璧な複製でないからダメだ」というのは短絡的な判断と言えるだろう。もう少し幅を持って考えれば、「完璧でない複製だから良いのだ」と逆転したことが言える。

本を他の人がわかるように書くことは、上記と同じような意味で情報を「残す」ことにつながる。そして、それには手間が欠かせない。野菜を保存しておくために、塩漬けにするなどの「加工」を施すのと同じで、ある種の手間をかけることで人にわかる文章になり、それが情報を「残す」作用をもたらす。

つまり、本ははじめから目指す射程が長いメディアなのである。いっとき人気になったから、それ以降はまったく話題にならなかったけど全然OK!、とはいかない媒体なのである。あるいは、そういう人気曲線を描くことをはじめから目指すならば、それは「本」として失敗しているとすら言える。そういうカーブなら別のメディアを使えばいいし、その方がもっと効率的ですらあるだろう。本には本のカーブがあるのだ。

■長期的に残る口コミ

よって、本に期待される口コミとは長期的に存続するものである。「話題だから話題になる」が終わってなお、継続される口コミである。そのような口コミは、最初に述べたように本自身に宿っていなければいけない。もう少し言えば、読み手と本との関係性の中から内的に生まれてくるものでなければならない。本を読み終えた読者が「ああ、よかったな」と心から思い、その思いが口から溢れ出す形で生まれる口コミでなければならない。

では、どうしたらそうした本が生まれるのだろうか。

もちろん、具体的な書き方などわかるはずがない。「事例→反論→再反論」みたいなフォーマットに沿って書けば必ずうまくいきます、のような方法論を立ち上げるのも無理だし、古今東西のベストセラーを分析したところで、共通点は「本の形をしている」くらいしか見つからないだろう。

むしろ、そのような「hogehogeに沿って書けば必ずうまくいきます」という方法論に頼るとき、本に宿る(はずだった)魔法は消えてしまうのではないか。なぜか。それは本とはギフトだからである。

■贈与について

ここで「贈与」について考えよう。一見回り道に思えるが、本の書き方と口コミを結びつける重要な概念であるのでゆっくりと検分したい。

まず、ここで言う「贈与」は、贈与税などの言葉からイメージされる「贈与」ではなく、哲学・思想で用いられる「贈与」である。古くはマルセル・モースの『贈与論』(注1)から、最近では近内悠太さんの『世界は贈与でできている』(注2)などで論考されている(どちらも面白いので一読を薦める)。

とは言え、ここで贈与論の細かい議論に立ち入ることはしない。もっと体感的に話を進めていく。

まず現代は資本主義社会である。そこでは市場経済が動いている。市場経済の基礎とは、等価交換だ。あるものを買うときに、それに等しい料金を支払う。等号で結ばれたサービスと貨幣の交換。そういう売買活動が資本主義社会のベースであり、私たちはそのような活動を空気のようにあたり前に受け入れている。

贈与とは、そうした活動の外にあるものだ。あるいは少しだけはみ出たものだ。つまり、等号が崩れてしまっている形での交換である。資本主義の言葉遣いで言えば、贈与は受け取る方が「得」をする行為である。しかし、こうした言葉遣いでは贈与の本質は捉まえられない。

とは言え、スタート地点としてはよいだろう。そこでは等号が崩れていることをまず認識してもらえればいい。

(下につづく)

ここから先は

7,604字 / 1画像 / 1ファイル

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?