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Scrapbox知的生産術12 / 効率的な教え方の弊害 / 自作ツールへの道のり

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/07/18 第614号

「はじめに」

以下の記事を読みました。

◇あなたが思う正しさが目の前で否定されているとき、あなたは怒りを感じる|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

記事の2ページ目にこんな記述があります。

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そもそも、なぜ怒りは生まれるのでしょうか。それがわかれば、あなたのモヤモヤの正体もわかります。
ズバリ言います。あなたのモヤモヤの正体は、あなたが正しくまっとうに生きようとすることへのこだわりと、現実の間にあるギャップです。
つまり、怒りを感じる時は「あなたが思う正しさが目の前で否定されている時」です。「あなたの理想が目の前で裏切られる時」とも言い換えることができます。
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たしかにその通りでしょう。すべての怒りがこれに当てはまるかは別にして、多くのイライラやモヤモヤは「こうなっているべきなのに、そうなっていない状態」から生まれているように感じます。

その意味で──妙な言い方になりますが──、怒りを感じる体験とは「自分を知る」一つのきっかけとなります。言い換えれば、何かに怒っているとき、はじめて自分が意識していない「自分の価値観」が明らかになるのです。

別段「怒りを抑えなさい」と言いたいわけではありません。自分の価値観が明らかになった上で、やはり収まらない怒りはあるでしょうし、それは表明されてしかるべきだと思います。

一方で、「そうか、自分はこういうことを大切にしているのか」とか「なるほど、自分はこういう状態を理想だと感じているのか」という風に視点を(怒りを向けている)対象から自分に移し替えることで、イライラやモヤモヤが急激に力を無くしてしまうこともたしかに起こります。

もちろん、完全にゼロになるわけではありません。でもそれらの声が、まるで分厚いガラスの向こうから聞こえているかのように感じられるのです。

なんにせよ、「何によって、自分はこんなに刺激を受けているのか」を知ることは悪いことではないでしょう。それが把握できれば、その後の行動や環境作りも変わってくるはずです。

これもセルフスタディーズの一環と言えるでしょう。あまり嬉しくない経験ではありますが。

〜〜〜論文を読んでいる〜〜〜

最近ちょこちょこ論文を読むようになりました。日本語の論文です。

特にジャンルにこだわりがあるわけではありません。傾向としては、情報工学とか認知心理学の論文を多く読んでいます。不思議なものです。

思い返してみると、昔から「論文」が苦手でした。なぜ苦手だったのかと言えば、おそらくそれが「英語」だったからでしょう。日本語に翻訳された海外の著作に参考文献として挙がっている論文は、当然のように英語で書かれていて、しかも著作のようには翻訳されていません。昔は、DeepL翻訳などもなかったので、英語の論文を読むのは苦痛か、そもそも無理だったのです。苦手意識を覚えても仕方がないでしょう。

よって、何かを調べているときにGoogle検索で論文が表示されても、クリックするのをずっとためらっていました。だって論文でしょ、のような感覚がずっとつきまとっていたのです。

しかし、何がきっかけとなったのかはわかりませんが、最近はちょこちょこ論文を読んでいます。iPadでいくつか開いておいて、隙間時間に読み進めるようなことをしています(論文管理アプリなどはまだ使っておりません)。

当たり前ですが、日本語で書かれている論文は読みやすいものです。英語ではなく、日本語で書かれていることに加えて、論文特有の読みやすさがあるのです。むしろ、なぜ昔は論文は読みにくいものだと考えていたのかが、今ではちょっとわかりません。

論文はその道の研究者や専門家が、そのテーマについて書いた文章です。しかも、他の人に説明するように書いた文章です。なので、圧倒的に「ノイズ」が少ないのです。感情的な主張もなければ、脇道に逸れすぎて本論を見失っている議論もありません。「そのこと」について考えたいなら、非常に優れたテキストです。

普段論文を読まれている方ならば、上記のような話は当たり前なのかもしれませんが、ずっと苦手意識を感じて、実際に読むことをしてこなかった私からすると、天と地がひっくり返るくらいの発見です。

もちろん、畑違いの論文(たとえば数学の論文)を読んでも内容はさっぱりでしょうが、それでも「時間の無駄だった」ということは起こらないでしょう。なぜなら概要を読んで意味不明なら中身を読まないからです。非常に有益な情報摂取の進め方ができます。

実に素晴らしい。

一方で、このような情報交流は、少なくとも一般生活で行われている情報交流から見ると、やや(あるいは大幅に)異端なのだろうとも感じます。

その二つがブリッジできるものなのか、あるいはそうすることが望ましいことなのか。もうしばらく考えてみたいと思います。

〜〜〜読了本〜〜〜

以下の本を読了しました。

『ルネサンス 情報革命の時代 (ちくま新書)』(桑木野幸司)

ルネサンスという時代を「情報」の側面から考察する一冊です。なんとなく、アン・ブレアの『情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術』を思い出しました。

で、本書で興味深かった点が二つあります。

一つは、「コモンプレイス」という手法について。これは現代で言うところの「カード法」のはしりです。活版印刷によって書くことも読むことも活性化した時代だからこそ必要とされた手法なのでしょうし、その点が現代にも通じていると感じます。今後の研究課題ですね。

もう一つが、「記憶の宮殿」です。これは頭の中に「場所」のイメージを構築し、そこに記憶したいものを紐付けていくという暗記の手法ですが、ルネサンス近辺の時代では、有力者が実際の空間に博物的なものを配置して知識を整理した、という記述が出てきます。

もちろん、物理的な空間に配置すれば見通しはよくなりますが、その代わり「有限性」の問題に悩まされるでしょう。すべてをそこに詰め込むことはできません。

一方で、「本当にすべてをそこに詰め込む必要があるのか?」という点は改めて検討する必要があるように思います。少なくとも、それが「個人が利用する情報ライブラリ」であるならば、有限性はむしろ有用に機能するかもしれません。

そのような観点から、たとえばVR空間における「情報整理」についても考えることができるでしょう。あるいは、最近の情報整理ツールが「平面配置」をよく利用している点も、何かしら近しい要素を持っている気がします。

なかなか興味深いテーマです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 思いもよらず、イラッとした経験はお持ちでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回はScrapbox知的生産術の12と二つのエッセイをお送りします。

「Scrapbox知的生産術12」

さて、ここまでで「デジタル・カード・システム」としてのScrapboxの使い方を見てきた。

着想を文章で書き表すこと。できるだけ脱文脈的に書いておくこと。一つのページには、「一つのこと」だけを書くようにすること。自分の考え同士の関連を考え、リンクをつなげるようにすること。

簡単にまとめれば上記のようになる。この要点は、着想の書き留めだけでなく、いわゆる「読書メモ」にも当てはまる。引用をコピペして残すのではなく、その引用から考えたことを文章で残し、可能な限りリンクを付与しておく。そのような処理を加えておくことで、「自分のもの」としてそうした情報を扱えるようになる。

というような話は、基本的には「理想」である。つまり、現実ではない。

はっきり言って、すべての着想を適切に文章化して残すのはたいへんに困難である。皆勤賞を取ったあげく、すべての教科で5を取るくらいに難しい。

よって、現実的な運用では、そこまで厳しく考えなくてもよい。上記のような状態を「理想」として目指すくらいでいい。この通りにやらなければ、まったくダメになる、なんてことはない。

むしろ、それがこうした進め方のメリットだろう。

あらかじめ整理の体系を作ったり、議論の流れを想定したりして、それに合わせて情報を埋め込んでいくようなやり方では、「逸脱」は許されない。逸脱してしまえば、体系が崩れて情報が見つけられなくなるし、議論は混乱し、収拾がつかなくなる。混乱は深まるばかりだ。

ようするに、最初から体系を定めて進めるやり方は、きわめて几帳面かつ精確に物事を進められる人だけに許された方法なのである。

私たちの多くは、そのような進め方ができない。だから、体系的な進め方とは別の方法がマッチしている。

特に、中長期的に情報を集める場合はなおさらだ。固定的な体系に従い続けられるほど、人間の精神は「落ち着いて」はいない。そこには混乱と共に、混沌がある。それがごく正常な精神の在り方であろう。

その混乱&混沌の精神にフィットした進め方が必要なのである。

■中途半端でいい

情報を書き留め、その関連性を探って手動でリンクをつなげていく方式は、一つひとつの行動を見れば地味であり手間もかかるが、大きな体系を作らない分、「中途半端」がいくらでも許容される。

タイトルが不十分なページがあってもいいし、文章化がなされていないページがあってもいい。リンクが不完全にしかついていないページがあってもいい。

もちろん、そうしたページは他のページに比べて見つけにくくなるが、影響はそれだけに留まる。それ以外のページは、問題なく使えるのだ。

そして、使っていて不具合を感じたり、新しいリンクの可能性を感じたら、そのときに修正を行えばいい。仮にそうしても、他のページに悪影響を与えることは一切ない。少なくとも、大規模な変動が起こることはない。

この点はきわめて大きいだろう。

リンクベースで情報をつなげていく方法では、「全体」がどのような構造になっているのかを気にしなくてもよい。あるページが、適切に他のページとつながっているかどうかだけが問題になる。つまり、構造についての問題がいつでも局所化されているのだ。

たとえば、私が自宅からコンビニにいくまでの道を覚える。あるいは、スーパーとドラックストアを複数店舗回って必要な日用品を買い集めるルートを覚える。こうした問題を考えるとき、日本全体の道路網がどのように整備されているのかを考える必要はない。隣の県の工事も気にしなくていい。せいぜい、新しいスーパーができたら、そこをルートに加えるかどうかを気にするくらいである。

デジタル・カード・システムで意識したいのは、このルート感覚である。ある情報の「つながり」が追いかけられればそれで十分とするのだ。

もちろん、道を碁盤状に整備し、特定の場所までのルートを定式化する方法もあるだろう。これが整理の体系を先に作る方式に相当するわけだ。しかしその方法では、数を増やすのも、場所を変更するのも大きなコストがかかってしまう。

それよりも「自宅からのルート」だけを考える方が、はるかに柔軟性がきく。後からの変更も簡単だし、変化に関わる問題がおおごとにならないからだ。

だから、少しずつ進めて行けばいい。不完全なままで進んでいけばいい。

■続けられるようにすること

「カードを書き、リンクを付与する」というのは、頭を使う作業である。あるいは、頭を使う作業でなければ意味がない。

だからこそ、無理は禁物だ。無理をしたら続けられないし、続けられないなら、考えを育てていくことも不可能になる。

入ってくる情報をすべて「カード化」する野望は持たなくてよい。カード化した情報も、すべて適切にリンクづけされていなければいけない、という規範性も不要だ。

もちろん、そうなっていたら望ましい状態と言えるが、その理想に押しつぶされて継続できないなら本末転倒である。

重ねて言うがScrapboxは、不完全な状態で使っていける。というか、Scrapboxは永遠に不完全である。完全なWikidediaが存在しない、というのと同じ意味で常に不完全なのだ。

だから、あまり自分を追いつめないようにしよう。完璧を求めすぎないようにしよう。そうしてしまうと、Scrapboxの良さが失われてしまう。

不完全を許容すること。そして、少しだけでも進めていくこと。

このマインドセットが大切である。

■間が開いても大丈夫

知的生産活動のために「考えを育てていく」ことは、どうしたって中長期的な活動になる。

そうすると、人生の事情からうまく継続できない期間も当然出てくるだろう。不完全を許容する進め方は、そういうときにも力を発揮する。

まず、整理の体系を作り、それを支えるための細かいルールを作っていたとしよう。そうすると、継続できない期間から復帰したときに、まず間違いなくそうした体系の全体像やルールを忘れてしまっている。

たとえば、日本十進分類表だってパッと見て覚えられるものではない。司書を目指す人は、きちんと勉強してそれを覚えるだろう。しかし、自分が作った整理の体系を「勉強して覚える」ような人はいない。作った自分にとってはあまりに自明だからだ。

しかし、時間が経てば、その自明さは失われる。春の日に降る雪のように簡単に消え去ってしまう。

同じように、うまく検索が使えるようにする記法やタグづけのルールも、細部はあっという間に失われる。私は「気になる本」というタグと「気になっている本」というタグを、一つのツール内で見つけることがよくある。タグをつけることそのものは覚えているのだが、その語句が中途半端にしか思い出せていないのだ。

これも自分が決めたルールをきちんと明文化して、ノートに書いておけば思い出せるのだが、そのルールを作った自分にはあまりにも自明な情報なので、アンチョコを作ろうという気分にはまずならない。

実際、毎日そういう整理の処理をしているときは覚えているのだ。しかし、不意のイベントのせいで一ヶ月くらいそうした処理を行わないと、いざ復帰したときにまったく思い出せなくなる。

私はそういうことを何度も経験してきたし、きっと似た経験を持つ人は多いだろう。「整理のルール」なんて生存にとってどう考えても重要ではないのだから、人間の脳が忘れてしまうのは至極まっとうな「情報整理」ではあるのだろうが、困ったことになるのは間違いない。

■構造的ルールなしの整理

しかし、これまで紹介してきたような方法で情報を「整理」しておいた場合は、そうした困りごとはほとんど生じない。そもそも、覚えておくべき整理のルールが存在していないからだ。もう少し言えば、メタなルールが存在していない。

私があるページを見て、何か思い出すことがあるとすれば、「このページをつながっているページは何か?」である。つまり、情報同士の関連性である。決して、「こうしたページに付与すべきハッシュタグは何だったか?」というメタなルール──つまり、内容とは直接関係ない情報──ではない。

はっきりいって、整理のルールを思い出したところで何のメリットもない。仮にそのルールが脳に強く刻まれても、嬉しくはないだろう。

一方で、情報の関連性であれば、むしろそれは刻まれて欲しいものだ。というか、それが「考えを育てること」につながる。

あるページを見つけたいときに、「このページにリンクしていそうなページは何か?」と思い出したり、閲覧したページと「このページと内容が近しいことを最近思いついたぞ」と脳内を探ることは、メタではないレベルで脳内の情報を再活性化することにつながる。

そして、それで思い出せたら情報が「使える」のだ。

日本十進分類表のような体系を思い出す必要もないし、細かい整理のルールを思い出す必要もない。今対峙している情報と、その関連性だけに頭を働かせればいい。つまり、局所的に思考を働かせればいい。それで必要な情報は見つけられる。

このように、「全体」や「細かいルール」を必要としない整理の体制をとっていると、期間が空いても問題なく復帰することができるし、そうやって復帰してから思い出して使うことで、脳内の情報的つながりも再活性できる。

この点は、きわめて重要である。

毎日ずっと使い続けられない「不完全さ」にも対応している。それがScrapboxの優しい点だと言える。

(つづく)

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