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本について語るとき僕たちが語ること/いろいろな人と話すこと/不完全稿へ向けて/アイデアが発展するとき

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/12/14 第531号

○「はじめに」

Substackで新番組を始めました。

◇ブックカタリスト
https://bookcatalyst.substack.com/

(いまのところは)倉下とごりゅごさんの二人の番組です。それぞれ自分が読んだ本について紹介していく形式になっています。きっと、これまでのポッドキャストとは違った内容になっていくと思いますので、よければ購読してみてください。

また本号で、いくつか関連する話を書いてありますので、そちらもどうぞ。

〜〜〜Substackの高まり〜〜〜

上と関連しますが、最近Substackの人気が高まっております。

◇ライフハック・ジャーナル
https://mehori.substack.com/

◇Beck‘s Hacks Letter
https://beck1240.substack.com/

なんとなく、昔のブログの彷彿とさせますね。今後の展開が楽しみです。

〜〜〜二つの巨人〜〜〜

「巨人の肩に乗る」という表現があります。先人たちの知見の積み重ねを指すメタファーです。

一方で、「知の巨人」という(最近ではいささか恥ずかしい)呼び方があります。「博識」をキャッチーに言い換えたものです。

この二つは同じ「巨人」という言葉を使っていますが、指しているものは異なっています。

前者は人類が積み重ねてきた知識の総体であり、人型をしているものの具体的な人ではありません。対して後者は、単に大きな人間を意味しています。ですので、著名人ののコンテンツに乗っかることを「巨人の肩に乗る」と表現するのは誤用となります。

もちろん、誤用だって構わない、というスタンスはあるわけでそのことを自体をどうこういうつもりはあいりませんが、この二つの「巨人」の違いが意味するものは極めて大きいと感じます。

〜〜〜毎日書きたいことを書く〜〜〜

ブログの毎日更新をやめてから、「昔はどうやって毎日更新なんて(体力の必要なことを)やっていたんだろう」と疑問に思っていたのですが、何日か更新を再開して気がつきました。単に「書きたいことを書いていた」だけだった、と。

つまり、「毎日更新をするぞ!」のような強い決意のもとで行っていたのではなく、日常的な動作として行っていたわけです。

たとえば、私は一日のなかでたくさんのメモ書きをします。5や10ではきかない数です。その中には、一行だけの走り書きもあれば、数行に及ぶミニ文章もあります。R-styleの記事は、そうしたメモ書きの「ちょっと大きめのもの」として自分の中に位置づけされてたのです。

メモ書きは、「メモ書きしなければならない」という強い決意や義務感から行うわけではありません。むしろ「そうせざるを得ないから」「そうしないと気持ち悪いから」といった理由でしょう。R-styleの更新も同じです。

現状は体力も戻りつつあるので、毎日更新を復活させること自体は可能なのですが、このメルマガや共有している作業記録、ScrapboxやSubstackなどさまざまな媒体を持ってしまっているので、それぞれの役割をもう一度確認した上で、R-styleを再起動しようと考えています。

不思議なことに、「まあ、もういいか。」と思わないのは、私の中のノスタルジーが作用しているのか、あるいは別な理由があるのか、その辺はまだわかりません。

〜〜〜脱線しやすさ〜〜〜

作業中の脱線はよくありませんが、よくないからといってそれがなくせるわけではありません。

で、作業記録をつけていて気がつきました。もっとも脱線が発生しやすいのは、作業記録に何も記録を残さず、「なんとなく」で作業をはじめたときです。そうしたときは、気がつくとぜんぜん違う作業に没頭していたりします。

一方で、作業記録に「これからhogehogeをします」と書いたときは、そうした脱線の発生が抑制されます。自分の意識(というか無意識)にその記述=宣言がすり込まれるせいかもしれません。

また、私は作業記録を管理するVS Codeのワークスペースと、それぞれのプロジェクトのワークスペースを切り替えながら作業を進めているのですが、ワークスペースを切り替えると、同様に脱線が抑制されます。一方で、作業記録用のワークスペースにいるときは、あれやこれやに手を伸ばしがちです。

人間の行動は、情報的(認知的)環境に強く影響を受けるのでしょう。もちろん、それに完全に支配されることはないにせよ、その影響を軽く見積もるのは止めたほうがよさそうです。

となると、執筆にベストなツールはやっぱりポメラということになりそうですね……。

〜〜〜見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』(ドナルド・ホフマン)

私たちの知覚はバイアスを持っています。いわば「歪んでいる」わけです。では、なぜそうなっているのか。それを欠陥として捉えるのではなく、進化の道のりの要請として捉え直すということなのでしょう。たぶん、世界を「ありのまま」に見てしまえば、生存にとって不利なことがたくさんあるのだと予想します。

『クロノデザイン 空間価値から時間価値へ』(内藤廣 他)

「空間価値から時間価値へ」という転換は面白い問題提起です。たしかに、資本主義が資源の浪費を終えた後に、そのまなざしを向けるのは時間でしょう。ポスト資本主義においては、時間こそが主要な資源であり、また競争価値になっていくと考えられます。だからこそ、私たちは時間のデザインをして、彼らの牙から身を守る必要がありそうです。

『和室学: 世界で日本にしかない空間』(松村秀一 、服部岑生)

世の中にはいろいろな学問がありますね。たしかに、伝統的な和室はデフォルトで設置されるというよりは、わざわざ作られるものになってきています。そうした和室の「将来性と存在意義を徹底的に検証」する一冊ということで、なかなか面白そうです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. どのような状況のときに脱線しやすいでしょうか。あるいはそこからの復旧方法をお持ちでしょうか。

では、メルマガ本編をはじめましょう。

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○「本について語るとき僕たちが語ること」 #知的生産の技術

新番組ブックカタリストは、第一回の放送の前にテスト回として二回の放送を行っています。

◇第四十九回:ごりゅごさんと『フードテック革命』について by うちあわせCast | A podcast on Anchor
https://anchor.fm/rashita/episodes/ep-em97au

◇【ブックカタリスト 】愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学 by ごりゅごcast | A podcast on Anchor
https://anchor.fm/goryugocom/episodes/ep-emtff0

片方は、私のポッドキャストにごりゅごさんをゲストとして迎え、もう片方はごりゅごさんのポッドキャストに私がゲストとしてお邪魔する形となっています。自分が「庭」を持っていると、そこでいろいろ実験できることの好例ですね。

さて、三回のポッドキャストを通じて感じたのは、一冊の本について語ることは、その本を取り巻く他の本についても語ることだな、ということでした。だからこそ、本についての話題はつきることがありません。

■広がる話題

たとえば、『フードテック革命』の話を聞いたとき、人工肉・培養肉が話題に上がり、そこから地球規模の飼育・家畜の話へと普及しました。すぐさま私は、『ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥』という本を思い出しました。人類がいかにニワトリという鳥を「使っている」のかが明らかにされる本です。

他にも、ごりゅごさんの語る話題は、私の「そういえば、関連する話があの本に書いてある」という着想を刺激してくれました。本を読むことの面白さが、ここに現れていると感じます。

『もっと!』について語っているときも、『ファスト&スロー』の話題が出てきて、そこからさまざまな広がりがありました。『ダーウィン・エコノミー』の回では、その『もっと!』の話が登場し、さらに経済学の系譜(ないし古典)や、現代的な経済学の発展(そこには『ファスト&スロー』も含まれます)や、マーケット・デザインといった関連する話題にも飛び火しました。

このように、ある本についての話題は、他の本にもつながっていくのです。

■すでにつながりがあるもの

ではなぜ、そのようなつながりが生まれるのでしょうか。いくつもの説明がありえます。

まず、人類の知がつながっている点があるでしょう。ニュートンの「巨人の肩に乗る」という言葉が表すように、人類の知の営みはそれぞれ独立的に存在しているのではなく、累積的に積み重なっています。別の言い方をすれば、ある知識は、別の知識を参照することでその強度を高めています。

このことを別の側面から表現すれば、本を書く人は、他のたくさんの本を読んでいる、となります。参考文献にあげられる本だけでなく、もっとさまざまな知を吸収しているのです。そうした知的営為から生まれる本が、他の本と関係性を持っていてもおかしくはありません。

あるいは、このことをより包括的に言い直すこともできます。

つまり、私たちが本を書く内容は、「この世界」についての本なのです。科学であっても、思想であっても、空想(創作)であっても、何らかの形でこの世界に所属している情報について記述しています。乱暴に言えば、「この世界」というレイヤーの上に乗っている情報に限定されているのです。
*たとえば四次元について書くとしても、三次元世界から見た四次元についてしか書けないわけです。

よって、そこで語られる情報には、何かしらのつながりがあることが想定できます。言い換えれば、「この世界」から完全に孤立した記述は原理的に不可能なのです。「この世界」の認識を用い、「この世界」の言語を使い、「この世界」の素材を使う限りにおいて、何かしらの接点は生まれえます。

これを別側面から表現すれば、「情報はつながりを持つ」となるでしょう。

以上のような理由(というよりも理屈)から、本の形は、本たちの語りへと自然に変化していきます。

■本のネットワークに注目する

情報はつながりを持ち、本はネットワークを形成する。

このことをトリッキーに表したのがピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』です。本書は複雑な構造をしているのですが、一番の力点は、「読む」という行為の認識を解体しつつ、一冊の本ではなく、本というネットワークに注意を向けることでしょう。

バイヤールは、個々の本を読まなくても本が形成するネットワークについて理解していれば、その本について何かしら言及することが可能だと述べていて、それが「読んでいない本について堂々と語る」へと結びついているわけですが、これは極めて重要な指摘です。

逆に言えば、一冊の本を読んだからといってたいしたことが言えるわけではありません。むしろ、複数の本を渡り歩くことで、はじめてその本について何かしらが言えるようになるわけです。

つまり、本(book)を読むことは、本々(books)を読むことであり、本という文化の総体に触れることなわけです。

だからこそ、『知的生活の方法』において、著者の渡部昇一さんは以下のように書かれたわけです。

>>
知的生活とは絶えず本を買いつづける生活である。したがって知的生活の重要な部分は、本の置き場の確保ということに向かわざるをえないのである。
<<

■つながりが見出される場所

本と本が、原理的につながりを持つといっても、そのすべてが認識下に置かれるわけではありません。たとえば、『七つの大罪』という漫画がありますが、宗教的知識がなければ、この二つが結びつくことはないでしょう。

つまり、「つながり」が見出されるのは、その本を読んだ人の脳内だけなのです。どれだけその本が潤沢なつながりを有していようとも、そのすべてが見出されるわけではありません。読者が知っていることに限られます。

だからこそ、本は読めば読むほど、本を読むことの面白さ(一冊の本から取り出せる面白さ)は上昇していくのです。自分が見出せるつながりが増え、知識の連結による強靭さの獲得と、新しい発想の触発が生まれるようになるのです。きわめて楽しい知的営為です。

もし、たくさん本を読むことで本を読むことが面白くなくなっているのなら、根本的な部分で読書の設計を間違えてしまっている可能性があります。要注意です。

■書評で切り落とされてしまうもの

上記のような構造があるにも関わらず、一般的な書評で語れるのは「その本」の話だけです。無論、本にまつわる話もさまざま展開できますが、文字数の限界もありその展開は限定的です。

それ以上に、その原稿のテーマはあくまで「その本」についてであり、その本に関連する一つ上の階層ではないので、上位にフォーカスしすぎると、原稿全体が書評という行為から外れることになってしまいます。批評や評論に近づくわけです。

仕方がない面はあるとは言え、それでは面白さが足りないなと常々感じていました。もっと「千夜千冊」のように縦横無尽に(言い換えれば好き勝手に)本について語る場を持ちたいと願っていたのです。

そうしたテーマを持ったYouTube動画を作ろうかとも考えていました。イメージしていのは、画面にScrapboxを映し、その本について語りながら登場するさまざまな本へとリンク(ジャンプ)していく番組です。面白そうですよね。

でも結局、「やろうと思っているけどもやらない」ままで止まっていました。なんだかんだで準備に時間がかかりそうだからです。

しかし、「そういうものをやりたい」気持ちだけは燻っており、それが今回ごりゅごさんとの企画として結実したわけです。

■対話で交換されるつながり

ブックカタリストは、本についての対話・対談です。

このことは多重的な意義を持っていて、その意義の一つに、書評コンテンツではないので、その本以外のことについていろいろ語っても大丈夫というフレーム的緩さがあります。一時間という尺の長さも、そのフレーム的緩さとよい関係を築いてくれます。

さらに、本についての話題を交換することで、お互いの頭の中にある「本のつながり」も一緒に交換できます。本のつながり自体は、それぞれの人の頭の中でしか発生しないのですから、その交換は語り合うことでしか出てきません。1000字程度の書評をお互いに見せ合っても十分ではないわけです。

逆に言えば、本についてこうして語り合うこと自体が、「面白く本を読むこと」の一環であると言えます。本のつながりを知り、本の面白さを知る。そのために、本について語り合うことが役立つわけです。でもって、この番組を聞いてくれる人も楽しんでくれるなら、これ以上の喜びはないでしょう。

と、本の「まえがき」みたいなことを書き始めたので、いったんここで幕を引きますが、本について語ることが、本の魅力を引き出す触媒(カタリスト)になることが、ブックカタリストの大きなテーマだと個人的には考えています。

(別のポッドキャスト話が下につづきます)

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