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Power of writing その2 / 人は言葉を素材にする / 象を撫でて話し合おう

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/12/13 第583号

○「はじめに」

堀正岳さんの『ライフハック大全 プリンシプルズ』が発売となりました。

『ライフハック大全』を全面改定し、新書として書き直されたのが本書です。紹介されているライフハックに同じものが含まれているにせよ、読書体験としてはまったく別物で、これはもう「別の本」といってよいでしょう。

骨太の「ライフハック話」にご興味があれば、ぜひ手に取ってみてください。

〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

ポッドキャスト、配信されております。

◇第九十二回:Tak.さんと第四回『Re:vision』会議とTextboxについて by うちあわせCast


◇BC026『Humankind 希望の歴史』 - ブックカタリスト

うちあわせCastは、作業が佳境に入りつつある『Re:vision』の会議が前半で、後半は倉下の自作ツールのお話をしました。

ブックカタリストは、倉下が2021年で一番「おぉ」と思った本である『Humankind 希望の歴史』の紹介です。

〜〜〜自作ツールのあれこれ〜〜〜

最近いろいろ自作ツールを開発しています。どれも小規模なものですが、それでも自分好みのツールが手にできるのはうれしいですね。

加えて、使っていて気になったところがあれば即座に手直しできるのも魅力です。いちいちサポートに連絡したり、プルリクエストを送る必要はありません。いきなり、自分で直せばOKです。こういう点が、案外一つのツールを長期間使う上では大切かもしれません。

で、よいことは多いのですが、最近の自分の情報環境における自作ツールの比重がだんだんと高まりつつあって、これを「一般的なノウハウ」として公開する難しさを感じています。共有しにくいのです。

もっといえば、どんどん個人最適化していくほど、その手の話はマス向けではなくなり、つまりは「儲からなく」なってきます。

もしかしたらそういう点が、「よく共有されるノウハウの偏り」を生み出しているのかもしれませんね。

〜〜〜あたらしいタスク管理〜〜〜

自作ツールの開発が進むことによって、情報管理の手法も変化しつつあります。たとえば以下のようなアプローチが最近「芽生えて」きました。

◇プロジェクトリストを使わないプロジェクト管理と文芸的タスク管理 – R-style

ここで紹介されている方法は、既存のタスク管理の技法とはかなり違っています。そして、基本的に「デジタルでしか実装できない」という点で一般的ではありません。にもかかわらず、「デジタルツールがこういう形になっているので、使う人がその形にどうしても合わせなければならない」という窮屈さがないのです。

非常に開かれた話であるにもかかわらず、広くは受け入れられにくい状況がある。

なかなか難しいものです。でも、これからはこういう話が「当たり前」になるように、自分の情報発信の方向も考えていきたいところです。

〜〜〜脳の慣れ〜〜〜

前号で、「アラカルト方式はなかなか疲れる」という話を書きました。で、その後もこの問題について考えていたのですが、「そうだ」という発見がありました。

一昔前は、それこそ毎日のようにブログを更新していました。一記事2,000文字。多い日には二つも三つもそうした記事を更新し、さらにメルマガ用の原稿も書いていました。

それだけ毎日のように2,000文字の記事を書いていたら、脳が習熟するのも自然なことでしょう。やりやすかったわけです。一方で、長い期間2,000文字の記事を書いていないと──しばらく使っていない英語が思い出せなくなるのと同様に──脳が錆びついてくるような感覚があります。いわゆる「ブランク」です。

でも、それだけはありません。技能が錆びつくよりもさらに影響が強いのが「普段から2,000字で何かを言おうといつも探している」かどうかです。

毎日ブログを更新しているときは、何か話題を見かけたら「これとあれを組み合わせて一記事書けるな」と無意識の情報処理を行っていました。脳内のポケットサイズが「2,000文字」だったわけです。何かを見聞きして考えたことは、いつもそのポケットに収まっていたので、記事を書くときはそこからとり出すだけで済みました。

しかし、ひとたびそうした習慣がなくなると、2,000文字ちょうどのネタはポケットを漁っても出てきません。ほかの大きさのネタから、なんとかやりくりして2,000字に仕立て直す必要があるのです。これが疲れの原因でしょう。

そう考えてみると、2,000字単位で記事が書きづらくなったのは悪いことではなさそうです。2,000字が不慣れになったかわりに、それよりも大きな文字数で情報を処理しているのだろうと推測できるからです。でもって、そうした情報処理の方が、「本」を書く人間としては必要ではないかと想像します。

〜〜〜課金しないガチャ〜〜〜

スマートフォンなどでプレイするソシャゲと呼ばれるゲームでは、ガチャに対する「課金」が盛んです。新しいキャラクターや強い武器を入手するために、お金を払ってくじ引きをする、という感じでしょうか。

そのガチャで大量のお金を使ってしまい、困った状況に追い込まれてしまった人がいる、というニュースも耳にします。射幸心が煽られすぎてしまうのでしょう。

そこでふと思いました。そうやってガチャを回したら、クレジットカードからお金が引き落とされるのではなく、自分の銀行口座の預金から、たとえば積み立て用の口座にお金が移ったり、投資信託の資金に移動したりするのです。つまり(手数料を除けば)ユーザーのお金はまったく減っていないことになります。むしろ、将来の自分のために役立つお金の積み立てが増えているのです。喜ばしいですね。

もちろん、それではゲーム会社はまったく儲からないので、やりたがるところは出てこないでしょうから、銀行が預金と手数料の獲得を目的としてゲームの開発・運用が為されると面白いのではないかと思います。まあ、日本だといろいろ規制があるでしょうから、実現は難しいでしょうけれども。

〜〜〜長い文章に気をつけて〜〜〜

最近、自分が書いたものではない原稿をたくさん読んでいます。そうすると、細かい誤字脱字とは別に「文章におけるよくある不都合の発生」がある程度パターンとして見えてきます。

そうしたパターンの中で、一番多いのが「一つの文章に情報を詰めすぎてしまう」というもの。たとえば、「AはBなのだが、C的な要素もあり、だからAとCを一緒に使うことでBの特徴を活かしながら、Cの効果を重複していくと、ユーザーにとって利便性が高い」のような文章がそれです。

一つひとつの言葉の意味はわかります。それでも文を読んでいくとだんだんと脳に付加がかかってきます。話がずっと続いているので、意味/解釈のステップが切れないのです。その上、「Cの効果を重複していくと」の部分は、「Cの効果を重複させていくと」の方がよさそうに思えるのですが、書いている方も文の全体がとらえられていないので、なかなかそれに気がつけない、といったことが起こります。

ここでの問題は、「一つの文に含まれる文字数」の大小ではありません。そうではなく、一文に込められたメッセージの多寡です。それが多すぎると、読む人が文章を解釈しにくくなります。料理で言えば、カットされていない肉の塊のようなものです。

ちなみに、そうした長い文章は「が、」を使って話が接続されていることが多いようです。言い換えると「が、」を使うと、なんとなく文章を接続していけちゃうのです。それはそれで便利なのですが、乱用すると文章の読みにくさが上昇してしまいます。逆接の「が、」はよいとして、順接っぽい「が、」には目を光らせた方がよいでしょう。

とは言え、最初に文章を書き下ろすときは、そうやって続けて書いた方が楽な面はたしかにあります。ですので、そうやって書いた後に、包丁を入れるみたいに、できるだけ細かい単位でメッセージを伝えられるように文章をわけていくアプローチが有効だと思います。

もちろん、文章に「正解」と呼べるものはないので、長い文を書いてもぜんぜんへっちゃらですが、二週間後の自分でも苦もなくその文章が読めることを確認した上で判断したほうがよいでしょう。

〜〜〜各種プロジェクトの進捗〜〜〜

先週に引き続き、コミットしているプロジェクトの進捗報告です。

まず、『Re:vision』は、最後の原稿の詰めに入っております。文章の細かい手直しです。ただし、倉下はこの作業をかなり「ちまちま」やる方ですし、おそらくTak.さんもさらっと流す方ではないと思うので、もう少しだけ時間はかかりそうです。それでもあと数ステップ、というところまではきました。もうちょっとです。

もう一つの『ライフハックの道具箱2021』は、寄稿者の方から頂いた原稿を、去年の原稿の中に配置し、多少文章に手を入れたのち、確認用のepubファイルを作成して、寄稿者の方に送信しました。

確認が終わって修正を反映したら、大きな作業は一つ終わりです。

あとは、2021年版用の倉下の書き下ろし原稿を書き上げれば、こちらもだいたい終了となります。これは今年中に出版する予定ではありますが、おそらくはぎりぎりの年末になることでしょう。

去年版と比べて「まったく新しい本」になるわけではありませんが、それでも楽しめる本には仕上がっていると思います。こうご期待。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. いよいよ今年も終わりが近づいてきました。今年中に終わらせておきたいことは何かありますか。

それではメルマガ本編をスタートしましょう。今回も「書くこと・考えること」にまつわるお話をお送りします。

○「Power of writing その2」

前回は、「書くこと」の意義を確認しました。『How to Take Smart Notes』は学徒・学者・ノンフィクションライター向けの本ではあるが、「考えること」は生きていく中でほとんど誰もが必要であり、それを支える「書くこと」も多くの人に必要なのではないか。そんなお話です。

今回はそのお話を続けます。

■「思い」を書き表す

以下の記事に、興味深い指摘があります。

◇Noratetsu Lab: 思った通りに書くということ

そして正直に言うと、こういう自問自答は大抵「さあ書くかね」と思ってからスタートする。エディタに向かって書く過程で自分に問うのである。つまり常日頃そのように解像度高く生きているわけではない。むしろ、書くために自分を知る必要に迫られ、書くことで初めて自分を知るのだ。

「思った通り」に書くためには、まず自分がどう「思っている」かを捉まえる必要がある。ポンっと思いついたことを書き並べて終わりにするのではなく、自分の思いに注意を向け、それを適切に描写しうる言葉を探さなければいけない。

まさしくその通りです。そして、上記のような知的作業は基本的に疲れます。省エネ指向の脳は喜んで実行したりはしないでしょう。必要に迫られない限りは。

その「必要」が、まさしく「書くこと」にあるのです。もう少し言えば、真摯に書こうとするとき、そうした必要性が生まれてきます。

とりあえず思っていることを文にして書いてみる。でも、どうにも違う感じがする。そこで別の表現を検討する。これも違う。少しは近いが、それでもピッタリとはフィットしない。よって別の表現を検討する……。そんなことの繰り返しです。

そして、上の記事でも指摘があるように、そうして真摯に考える=書こうとするときに、その「思い」は具体的に立ち上がってきます。

■「思い」を実体化する

私たちが内側に抱える「思い」は、輪郭がはっきりしたものではありません。ぐねぐねと動き、一秒ごとに姿を替える曖昧模糊とした存在です。〈とらえどころがない〉、という表現をしてもよいでしょう。

自分の「思い」を文章化する際には、そうしたぐねぐねとしたものになんとか輪郭線を与えていく必要があります。そうでない限り、言葉は適切な言葉を取れないのだから仕方がないでしょう。

逆に言えば、私たちの「思い」は、そうした知的作業を行うとき、はじめてそこに輪郭線が与えられます。〈とらえどころ〉、が生まれてくるのです。

文章を書く前に、すでにはっきりとした「思い」があって、それを静物画や写真のように正確に表現する、というのではないのです。執筆は「思い」の転写ではない。

そうではなく、まさに何かを(正確に)書き表そうとするなかで、それに固定的な枠組み・輪郭線が与えられるのです。そのときはじめて、自分の「思い」がはっきりするのです。

逆に言えば、そのような正確な表現を求めない限り、私たちの「思い」は曖昧模糊としたままで、とらえどころがない状態が維持され続けます。操作困難です。

■否定の線を引いていく

イラストのスケッチを描くときには、線を引いてきます。たとえば、リンゴを描くなら、リンゴの輪郭線を描きます。その輪郭線は「ここから内側がリンゴ領域であり、ここから外側はリンゴ領域ではない」ことを示します。肯定と否定が同時に行われているのです。

もし、リンゴを描くつもりで引いた線が、あまりにもイチゴっぽく見えてしまうなら、「これは違う」と線を引き直すでしょう。そのとき、リンゴっぽい線とは何か、イチゴっぽい線とは何かがはっきり意識されます。

書くことにおいても──もっと言えば「言葉を選ぶとき」においても──、同じことが起きます。

たとえば、「それは欺瞞です」と書いたとしましょう。まず「思い」がスケッチされました。それを読み返して「考え」ます。

いや、欺瞞という言葉は強すぎるか。嘘くらいだろうか。あるいは"欺瞞ではないでしょうか"、と断定を避けるか。いったい自分はこの信念にどれだけの確信を置いているのだろうか。

上記のように、そこに書き記された言葉が、自分の「思い」とどれだけフィットしてるのかを探っていくのです。スケッチでまず線を引き、その線の具合を確認して、新たに線を引き直すことを繰り返していくのと同じです。

ここで発生しているのは、間違いなく「否定」の思考です。自分が一番最初に書き下ろした言葉を無自覚に肯定するのではなく、「本当にそうだろうか」と疑ってかかること。

哲学の第一歩と非常によく似ています。

■さいごに

もし、「書くこと」を真摯に行わず、まあべつに適当でよいか、と済ませるならば上記のような知的作業は発生しません。ただ単に言葉の羅列が続いていくだけです。文字数は埋まるでしょうが、当人の「思い」から〈とりとめなさ〉が取り除かれることはないでしょう。

あるいは、それは「書くこと」ではなく、「考えること」を真摯に行っていないのかもしれません。「考える」を、単なる連想の連結と勘違いして、そこに否定の線を引くことを怠っているのです。

どちらにせよ、結果は同じでしょう。

〈とりとめなさ〉は残り続け、自分の「思い」は曖昧模糊としたままで、自分の「考え」など確立しようもありません。

もちろん、「自分の考えを持つことなど不要。むしろ有害」と考えているならば、上記の話はまったく無視して構いません。むしろ逆転させることすらできます。人に書くことを、つまりは自分の思いと言葉の適切な対応について真摯に考える必要性を持たせないならば、人は「自分の考え」を確立しなくなるでしょう。ブルーピル幸福論(*)、というのも一つの考え方かもしれません。
*映画『マトリックス』参照。

しかしながら、結局そうしたものも「考え方」の一つです。やっぱり「考え」が必要なのです。

いささかねじれた論法ではありますが、それでも「考えること=書くこと」は、一定程度の強度で誰にでも必要なのだと、個人的には思います。

(下につづく)

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