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『Muteの魔法』(仮)「はじめに」

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/04/05 第547号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

ブックカタリスト009 『妄想する頭 思考する手』 - ブックカタリスト

たまに配信が少ない週があると、配信だけが先に先に進み、聞く人が追いつけていない状況をケアできますね。休みはその意味でも大切です。

〜〜〜新しい新書レーベル〜〜〜

新しい新書レーベルが誕生しています。

◇【ICE新書】これからの時代を生きるための新書レーベル | 電子書籍 - impress QuickBooks(クイックブックス)

impress QuickBooks主導のレーベルで、電子書籍ベース(電子書籍×POD)の新書のようです。

以下のようなコンセプトが掲げられています。

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目指すのは従来の“出版”、そして“新書”という枠組みのアップデートです。既に新書レーベルは多数ありますが、そのコアとなる「知や教養への入り口」というコンセプトを継承しつつ、従来の枠組みに囚われない新しい発想で本を作ります。
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もちろん、新しいレーベルを立ち上げるときにわざわざ古いことを言う人はいないわけで、その意味では上記のようなコンセプトは特筆すべきものはないようにも思えますが、以下の三つの「新しさ」が面白いなと思います。

・新しいテーマ
・新しい切り口
・新しい著者

これをそのまま受け取れば、「既存の企画会議では通らなかったような本作りをする」と読めます。本当にそれが実現されるならば、素晴らしいことです。

ただし、そこまで「新しい」ものだらけだと、知名度を獲得していくのは時間がかかるでしょう。じっくりとレーベルを育ててくだされば、と願います。

〜〜〜新しいnoteサークル〜〜〜

千葉雅也さんがnoteでサークルを始められました。

私は参加しておりませんが、「Twitterを補うような存在」として利用されるそうで、今後の展開が楽しみです。

〜〜〜新生社会人に向けての提言〜〜〜

「タスク管理のScrapbox」という、Scrapboxの公開プロジェクトがあります。

◇タスク管理のScrapbox

そのプロジェクト内で意見交換が行われて、四月から新社会人になる人&配置替えなどで新しい環境に飛び込む人(総じてフレッシャーズと呼称)向けに提言がまとめられました。

倉下も、草案作りに協力させていただきました。どの提言も大切だと思います。

で、そういう話はさておくとして、こういう風にWebでの集まりから一つの提言がなされる、という動き自体がとても面白いです。少なくとも、これまでの私のまわりにはなかった動きです。しかし、よくよく考えれば、この社会は組織での動きが大半であり、何かしらの提言もそうした組織から提出されます。

シンプルに考えて、ひとりの人間が考えたことと、いろいろな人の意見を統合したものであれば、後者のほうが有用性が高そうに感じられるでしょう。実際に有用なのかは、個人の力や組織の在り方などによって変わってくるので一概には言えませんが、それでも今回の提言をまとめながら感じたのは、たくさんの人に叩かれ、鍛えられた提言は十分な強度を持つ、ということです。今更あらためて力説するほどのことでもないかもしれませんが、私は今回その感触を強く覚えました。

で、なぜ私のまわりでそうした動きがほとんどなかったかと言えば、私が一匹狼思考であり、団体行動を苦手としていて、あとは「類は友を呼ぶ」ということわざをひっぱってくれば、説明は十分でしょう。

しかし、そういうのもそろそろ変えていかないとな、と最近感じています。完全にそちらにシフトするというよりは、「そういう選択肢も持つ」といった感じで。

〜〜〜clubhouseで月次レビュー〜〜〜

3月の最終日曜日に、clubhouseで「一ヶ月の振り返り会」を実施しました。お題目は特になく、仕事やプライベートで今月何があったかを報告し合う「という体の」会です。

正直、何をしゃべってもいいのです。単に普段なかなか顔を合わせない人が雑談する場所が成立したらいいのです。しかし、人間には「理由」が必要です。そこで、一ヶ月の振り返りというテーマを「でっちあげる」のです。

もちろん、振り返り自体も意味があります。たとえば、一日の振り返りはその頻度や規模感から言って一人でやればいいでしょう。一方で忘年会などの一年の振り返りは皆で集まって行うのが一般的です。イベントが終了した後の打ち上げも、たいていは皆で集まるでしょう。

スパンが長くなれば、関わる人も増えてきて、それを総括する行為は一人では収まらなくなる、と個人的には理由付けしています。

だったら、忘年会ほど「全員」を集めるわけでもなく、かといって一人で粛々と進めるのでもない規模で振り返りをやってみてはどうか、というのがこの会の狙いです。

まあ、上記のような実際的な理由半分、単に雑談したい気持ちが半分なので、それくらいの緩い気持ちで今後も月一ペースで開催していこうと思います。

〜〜〜R-styleのダークモードと新連載〜〜〜

R-styleで新連載を始めました。先週も紹介した4月から新しく始めようと思っていること、のうちの一つです。

◇「自分のシステム」を作るレッスンその1 – R-style

この連載にも、いろいろ思いが込められているのですが、語りはじめると長くなるのでリンクを置いておくに留めます。とりあえず、以前のような更新頻度に徐々に戻っていくと思います。ただし、これまでとは違ったようなことを書くとも思います。シン・R-styleです。

加えて、今回は全体のテーマ(WordPressのテーマ)も刷新しました。「Dark」というキーワードでテーマを検索して出てきた中で一番クールそうなものを選んだ次第です。

私が普段使いしているツールの大半がダークモードになっているのでブログもそれに合わせたというのが理由の半分で、残りの半分はまだ今のところ秘密です。

ともかく、新しいR-styleを楽しみにしてください。というか、まず私が楽しみにしております。

〜〜〜DoMAについての理解の広がり〜〜〜

少し前に大橋悦夫さんとDoMAについて話、先日はごりゅごさんとDoMAについてお話しました。お二人とも、自分なりのDoMAを実践されていて(というか、自分なりに実践するしかないのがDoMAなのですが)、私のWorkFlowyと異なる構造を拝見できて楽しかったです。

そのようにして自分が提案したメソッドに興味を持ってもらえるだけでなく、実践に役立ててもらえていることは嬉しいことですが、それ以上に何度もDoMAについて話すことで、どんどん自分の中でDoMAについての理解が深まっている点が興味深いです。

「ああ、そういうことだったのか」と後から腑に落ちることがたくさんあるのです。それだけでなく、私が思いもつかなかった工夫を紹介してもらえ、それをすぐさま自分のWorkFlowyに反映させる楽しさもあります。

ああ、かつてのライフハックってこういうものだったよな、としみじみと思い返します。そして、『知的生産の技術』の冒頭で紹介されている、各々の工夫が広まる仕組みというのもきっとこういうものだったのでしょう。

アフィリエイトやSEO重視のブログが出てきたことで、個人の知見が交換される場としてのブログの力は弱まってしまいましたが、それでもまだまだ捨てたものではありません。適切な場さえ設計できれば、いつでもそうしたものたちは息を吹き返すだろうと、いまのところは前向きに考えています。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりでも考えてみてください。

Q. 一ヶ月の振り返りは実施されていますか。そしてそれは楽しいですか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今月は、「Muteの魔法」(仮)の原稿をお送りします。

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○「Muteの魔法 はじめに」

これからMuteについて書いていきます。現代において、とても大切な一つのスキルのお話です。

■Mute

Muteは英単語として、以下の意味を持ちます。

・〔楽器などに〕弱音器を付ける
・〔色調を〕弱める
・〔マイクやプレーヤーなどを〕ミュート(に)する、〔音声(の入出力)などを〕ミュート(に)する

音ないしは色味について「弱くする」語感があるのでしょう。本書のMuteも同様です。ただし、音ではなく、「声」というより具体的な性質を帯びるものにフォーカスします。

声を小さくすること。それが本書のMuteです。

■その声はどこから

人の耳に届く声は、大きく二種類あります。

一つは、自分の外側から届く声です。現代では、さまざまなテクノロジーによって自分のもとに届く声が増えています。誰の声も聞こえないのは寂しいものですが、かといって聞こえ過ぎるのも問題です。それを程よく抑制することは、現代的に必要な課題の一つでしょう。

もう一つは、自分の内側から届く声です。この声も厄介です。むしろ、どれだけ耳栓をしても遮断できない、という意味ではこちらの声の方が厄介なのかもしれません。

どちらの声にせよ、それがあまりに大きくなりすぎるならば、それを「弱く」すること。それがMuteが目指す地点であり、本書が獲得を目指すスキルでもあります。

ただし、いくつか注意点があります。

■外と内の呼応

まず、内側の声と外側の声は関係し合っている点には注意が必要です。

内側の声は、一種類ではなく、複数の種類を持つのですが、外側の声はそれらのうちのいくつかを著しく強化します。結果として、相対的に他の声が弱まってしまいます。それがもともと維持されていたバランスを崩してしまうのです。

たとえば内側の声は、欲望・情動・享楽といった「やりたい」という気持ちであり、あるいは倫理・道徳・規範といった「こうすべき・すべきでない」という気持ちでもあります。ひとりの人間は、そのようなさまざまな気持ちのせめぎ合いとして、一つの決断を下し、一つの行動を行っています。

だからこそ、人間は複雑な存在なのです。

アルゴリズムのように、同じ環境に置かれたらまったく同じ出力を返す、という保証はありません。かといって完全にランダムでもありません。たいていは同じような決断・行動を下すけども、ときどきはそこから逸脱してしまうのです。

そのように組まれるアルゴリズムはほとんどないでしょう。10回クリックすると8回は反応が返ってくるけども、1〜2回は無視される、というプログラミングは明らかに失敗作です。しかし、人間はまさにそのような反応を返します。それは、たった一つの判断基準で動いているからではないからです。一つの決断や行動の背後に、さまざまな綱引きが発生しているのです。

人間がそのような複雑な存在だからこそ、この社会はとても楽しいものでありえます。少なくとも単調で、すぐに飽きてしまうものではないでしょう。また、「完全に合理的な行動」を取り切れないからこそ、お互いがお互いを必要とするようになっています。完璧で単純な存在であれば、人は「他者」を必要としません。社会的な動物であるとは、つまりはそういうことです。

Muteが目指すのは、──その語感に反するようですが──、ある声を弱めることで一つの声の独裁政権を作るのではなく、声同士のバランスを取り返すことです。多様な声が存在できる場を再構築することです。

逆に言えば、現代はそうした声が崩れやすくなっているとも言えます。

■人が抱える苦悩のベース

はるか昔から、人間は生きる上での困難や苦悩を抱えていました。生物学的な生き残りの難しさを村や畑を作ることで克服しても、生老病死によって生じる苦悩が消えることはありません。それは私たちがある種の認知能力を持っているがゆえの苦悩であり、知恵の実を口にした罰として表現されるものでもあります。

だからこそ、人類の文明の歩みには、常に宗教と哲学が寄り添っていました。

人が知恵を持ち、科学を手にし、「原因と結果」についての自然科学的な理解を深めれば深めるほど、「私たちはなぜ生きているのか」「私たちの生の意味とは何か」という疑問を抑えることは難しくなります。ただただ絶対的な神を信仰し、そこに自分の生をゆだねさえすれば開放される疑問が振り切れなくなったのです。

その疑問は絶対的な答えを得ることが不可能であり、人の心には常に空虚さが付きまとうことになります。

このような苦悩が人の生のベースにあり、現代のテクノロジーはその上に厄介な二階部分を構築しようとしています。

■テクノロジーの影響

現代のテクノロジーによって、情報が高速かつ安価に届くようになりました。また、流れる情報を選別して「中に入れる人とそうでない人」を選り分ける門が存在しない広場も生まれ、そこではフラットに情報が交流しています。

そのような状況は、一方では素晴らしく豊かな土壌を構築しますが、もう一方では果てしない混乱を生み出します。ひどくイデオロギーに偏った情報が流れるだけでなく、刺激に満ちた広告と、感情がダイレクトにのせられた投稿が充満し、ときに氾濫を起こすのです。

広告がもし、「自社の製品はこんなに素晴らしいんですよ」と謳うだけならば、たいして問題はありません。せいぜい「ああいう製品が欲しいな〜」という自分の声が強まるだけです。そういう声の強まりすら否定するならば、もはや出家するしかありませんし、経済活動全般が停滞してしまうでしょう。それはさすがに行き過ぎです。「いい感じ」ではありません。

一方で、広告が当人の劣等感を刺激し、「ぜひともその製品を買わなければ」という声を強めたり、「その製品さえ買えばなんとかなる」という声を強めたりしたらこれは問題が出てきます。商品に関する声だけでなく、別の声にも作用を与えているからです。しかもその声は、商品よりもより深いところに位置しています。

具体例で考えてみましょう。

・「このカメラを買えば、高画質な写真が撮れます」
・「あなたの写真が下手なのは使っているカメラが悪いからです。このカメラを使えば、良い写真が撮れます」

前者は「健全」な広告です。ウキウキしてきますね。一方後者は、「不健全」な広告です。モヤモヤしてきますね。

後者の宣伝文句は問題をいくつか持つのですが、「写真が下手なことは悪いことだ」という声が暗黙に強化されている点が見過ごせません。「まあ別に下手でもいいじゃないか」という別の声が相対的に弱まっています。

また文面後者の「理屈」を受け入れると、「もっと良いカメラを買えば自分はさらにうまくなる」という誤った推論の声も強化されます。当然「カメラの機能はさておき、まずは構図の練習をしよう」という声は相対的に弱まります。

なんにせよ、全般的に良いものではありません。

ただし、こうした刺激的な広告であっても、それが一日に一度程度しか摂取されないならば、たいした影響はないでしょう。人体に悪影響があるものでも、微量であれば生命活動に支障をきたさない、というのと同じです。

しかしながら、現代のテクノロジーはガンガンに私たちに広告を送り届けてくれます。しかも、その広告は、閲覧者が選択できないだけでなく、発信者すらも選択できないことが大半です。選別・選択はテクノロジーによって行われており、発信者が自己の利益を最大化しようともくろむならば、一切の自分で選別することを放棄する方が「合理的」ですらあるでしょう。

そこに健全性を担保する要素はあるのでしょうか。

(下に続く)

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